2014 年 5 月 11 日

・説教 ヨハネの福音書3章16-21節 「永遠のいのちに生きる」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:55


2014.5.11

鴨下 直樹

この四月から担当することになった三好教会で、亡くなられた方の記念会をするために、今日の午後から三好教会に伺うことにしています。そのこともあって、ご家族の方から電話をいただきました。その電話でこんなことを聞かれました。私は最後の挨拶の中で、「天で母と再会できることを楽しみにしています」と言いたいのですが、そう言っても大丈夫でしょうか?というのが、電話での質問でした。なぜそんなことを質問されたのかというと、その方は、以前宣教師から聞いた説教の中で、聖書には、天では娶ることも嫁ぐこともないと書かれていて、天では家族関係に縛られてはいないと聞きました。そうすると、天で、母は私のことを覚えていないのではないかと思ったら、急に、教会でこれまで良く聞いてきた、「天での再開の希望」ということが本当なのかよく分からなくなってきたのです、と言われたのです。

みなさんの中にも、お気づきの方があるかもしれませんが、私は教会で葬儀をしたり、記念会をするときに、天での再開の希望ということを話したことは一度もありません。このことは誤解を受けないように、丁寧に話す必要があると思っています。天での再会ということを、もちろん否定しません。天で再会することはあるでしょうし、天に行ったら、みんな記憶喪失になってしまって、この地上でのことを忘れてしまうというようなことはないと思います。ですから、もちろん家族の方が、天で亡くなった家族と再会することを楽しみにしていると語ることは許されるし、そこに大きな慰めがあると思います。

けれども、信仰をもって天に先立った家族との再会ということを、聖書が福音として語っているわけではありません。それは、もちろん家族にとっては大きな希望であるし、慰めです。しかしそれは、言ってみれば、豊かな福音のおまけのようなものです。主イエスを通して、永遠のいのちを与えられた、喜びの中に含まれているものですが、天での再開の希望が、福音のメインではないのです。教会で葬儀をいたしますと、私が言わなくても、必ず、長老か、執事か、あるいは親しい教会の方が、慰めの言葉として語ってくださいます。私はそのくらいでちょうどいいと思っています。

先週のゴールデン・ウィークに私も、鴨下家の一同が集まりまして、はじめて祖母と祖父の10年の記念会を行いました。祖父も祖母もキリスト者です。特に私は、祖父が天に召された時に、ドイツにおり葬儀に集うこともできませんでしたので、家族そろって小さな礼拝を捧げ、一緒に賛美歌を歌い、祈りを捧げました。兄弟全員そろって礼拝をしたのは、私の記憶では20年ぶりのことです。それは、私にとってとてもうれしい時間でした。教会から離れている家族も共に賛美をしました。その喜びだけでも本当に嬉しいものです。けれども、それは、主が与えてくださる救いの喜びの一部分のことです。家族が共に再会して、一緒に礼拝を捧げることができるだけでこれだけ嬉しいのですから、家族がみな救われて、主の御前で一同介して共に、主の御前にでることができるとすれば、その喜びはどれほどのものになるのでしょうか。想像もできないような、大きな喜びに包まれるに違いないのです。

幸いに、今日、この日曜日は「ユビラーテ」、「主の喜び」という名前のつけられた主の日です。昨日も、教会の「ハレルヤちびっこクラブ」で、喜人君の三歳の誕生日を祝いました。復活節の、ユビラーテに生まれた喜びの人という名前の子が、教会に来て、共にその誕生を祝うことができる。これもまた、主が与えてくださる大きな喜びの一部なのだと、あらためて、誕生カードにお祝いの言葉を書きながら思いました。私たちに、よみがえりの主は、計り知れない大きな喜びを与えてくださっているのです。

今日、私たちに与えられている聖書は、聖書の中でももっとも有名な聖句、ヨハネ3の16の御言葉です。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

もう、暗唱しておられる方も多いと思います。これこそが、私たちに与えられている喜びの源の聖句と言っていいと思います。これこそが、福音なのです。

これは、主イエスが語られた言葉ではありません。この福音書を記した、ヨハネの語った言葉です。ヨハネ自身、もうこう書かずにはいられなくて、書いた言葉です。宣言の言葉、神の名による宣言の言葉です。ヨハネがどういう思いでこの言葉を記したのか、少し考えてみたいと思います。

主イエスは弟子たちをお招きになって、カナで婚礼に招かれて最初のしるしを見せられ、その次にエルサレムで、宮清めと呼ばれていますが、神殿の商売人を激しく批判なさいました。そして、多くの人々は主イエスを信じます。ところが、主イエスはそのような信仰の人々に、ご自身をお任せにならなかったと2章の終わりで記されています。自分にとって、都合のいい部分を受け取って信じたという信仰を、主イエスはお認めにならなかったのです。そして、この前のところで、ニコデモという、サンヘドリンの議員もまた、主に心を寄せてきましたが、この人も、自分に得られる部分があるからというでは、神の国に入ることはできないのだと言われました。新しく生まれることが必要なのだと。

新しく生まれるというのは、どういうことなのか。そこまできて、ヨハネはもう我慢できなくなって、はっきりと書いたのです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」のだと。主イエスは、この直前、「世の人々にご自分をお任せにはならなかった」と書いているのに、それでも、主は、この世を愛されたのだと言わずにはいられなかったのです。

人々は、自分にとって何か得することがあるならば、主イエスを信じてもいいと考えています。それは、この福音書の最初から最後にいたるまで貫かれている人の頑なな姿です。主イエスはその頑なな人間と戦っておられるのです。けれども、主はそのような頑固な者に、本当ならば自分を任せられない人々に、ご自分を託されました。「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つため」にです。

主イエスはただ、与えるだけです。自分のことしか考えられないような人に対して、あなたが滅んでしまっていいとは思わない。喜んで生きて欲しいと願っているからです。神と共に生きて欲しいと心から願ってくださったからです。主イエスのほうが、私たちを信じたのです。わたしのいのちを与えてもいい。自分のことしか考えられないようなあなたを、わたしは愛するのだと、主のほうが決めてくださったのです。

ヨハネはここで、新しく生まれるにはどうしたらいいのかというところで、この16節からの言葉を語りだします。それは、神がひとり子である主イエスをこの世にお与えになったことによるのです。私たちが新しく生まれるために、主イエスの犠牲がどうしても不可欠なのです。まだ、主イエスの十字架による犠牲という出来事が起こる前に、すでにここで、ヨハネは主イエスがいのちをお捨てになられたので、この主のいのちによって、永遠のいのちが与えられるのだと語っているのです。ここに、神の愛があるのだと言うのです。

ヨハネは、この福音書の中で「神の国」という言葉を二回使っています。それが、このニコデモとの会話においてです。そして、その後からはもう「神の国」という言葉は出てきません。代わりに、「永遠のいのち」という言葉が登場します。そして、この二つの言葉を結び合わせているのが、「新しく生きる」ということなのです。私たちが新しく生きるために、神に支配されて、神の御国に生きるためには、主イエスがそのいのちを投げ出さなければ、主イエスのいのちの犠牲がなければ、私たちはこの永遠のいのちに生きることができないのです。

どうしても、説明の言葉になってしまうことをおゆるしいただきたいと思うのですが、ここでとても大事なことは、神との関係です。私たちが自分の好き勝手に生きて、そういう自分の人生を豊かにするために、何かを手に入れようとするとき、そして、そのようにして神を信じるという時、そこには何も神との関係は築き上げられてはいません。自分の所有物のように神を手に入れることはできないからです。

だから、ヨハネは続けてこう記したのです。17節。

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

神は、世を、私たちを救うために御子をくださいました。御子を十字架につけられたのです。そうして、私たちとの関係を再び、神の側から手を差し伸べてくださったのです。私を見捨てるのではなく、私を裁くためではなく、私を救うために、神は御子を、主イエス・キリストを、私たちに差し出してくださったのです。

よく信仰入門クラスをするときに、私がたとえで話すはなしがあります。それは、落とし穴に落ちてしまった人の話しです。落とし穴に落ちてしまう。自分の力では這い上がることのできない、落とし穴に落ちてしまう。何とか、外に、自由な世界に戻りたいと思ってあがいてみても、どうすることもできない。ところが、気づいてみると、この落とし穴に落ちてしまっているのは、自分ひとりではないことに気づくのです。そうすると、安心してしまいます。そして、みんなが、その落とし穴の生活の中で、何とか楽しそうに生きているのを見ているうちに、もうその生活のままでいいように考えてしまう。それが、今、私たちが生きている世界です。

そこに、主イエスが降りてきてくださって、私を踏み台にして外にでればいいと、自らこの世界においでになり、そこから元の自由の世界に戻してくださるのが、主イエスのみわざです。もといたところに、私たちの本当の生きるべき世界があるのです。そのために、主イエスがご自分を犠牲にしてくださって、そこから救い出してくださる。それが、主イエスのみわざなのです。

主イエスを信じるというのは、私を救ってくださったお方が、主イエスだと告白するということです。そして、この主の犠牲のゆえに与えられた新しい生き方を喜びをもって生きるということです。

18節にこうあります。

御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。

御子を信じた者は、もう落とし穴から出されているのです。もう救いを得ているので裁かれることはないのですが、けれども、この主の救いを信じないということは、落とし穴の中にいることを自ら選んだとうことですから、もうすでに裁かれているのです。

私たちにとって問題は、私たちが生きている世界そのものが、神のさばきの世界であるということに気づかないことです。誰もが、どこかで不安を抱えながらも、人生というのはそんなものだとあきらめてしまっていることです。新しく生きることに望みが見出せなくなってしまっているのです。「永遠のいのち」という言葉の響きよりも、「今の生活」と言う言葉のほうに、現実味を帯びているのです。

聖書は語ります。この「永遠のいのち」の中に、もちろん、「今の生活」も含まれているのです。死んでから何とかなるというのではなくて、主イエス・キリストは、今の私たちの生活が新しくなる。神が与えてくださる喜び、神が備えてくださる喜びに、今から、もう私たちは生きることができるのです。そして、それは将来においても、確かな望みにつながるものなのです。

今、大丈夫であれば、将来も、死後も大丈夫なのです。今、神の御前で礼拝を捧げることができるということは、私たちの死後も、神の御前で愛する人々と共に礼拝を捧げることができるのです。この永遠のいのちの中に、私たちのすべてが詰まっているのです。私たちは、このいのちに生きるのです。

今日、この後で、三好の教会で記念会を行うのですが、そこで、ぜひ、この聖書の言葉を読んで欲しいと言われました。それは、ヨハネの福音書の11章25節の御言葉です。

イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。

先日亡くなれた方が、主イエスを信じる決心をしたときに与えられた御言葉なのだそうです。89歳で信仰を持たれて、97歳で亡くなられた方です。

私たちの主は、ただ、私たちにいのちをさしだされたのではありません。その後によみがえられたお方です。そして、この方は、この主がよみがえりの主であり、いのちで主であるということに、深い慰めを見出したのだと思います。89歳で主イエスを信じ、その後は、ずっと老人ホームにおられたのだそうです。けれども、信仰に生きるようになってから、毎日、それまで病気がちであったのに、元気になられたのだそうです。自分のいのちが主によって確かなものとされたのを知って、安心したのです。

信仰は、私たちに安心を与えます。喜びを与えます。どう生きるのか、その生き方を支えます。なぜなら、私たちにいのちを与えてくださる主が、私たちが滅びるのではなく、永遠のいのちに生きることを願ってくださっているからです。私たちは、確かな救いの喜びの中で、安心して生きることができるのです。

お祈りをいたします。

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