2014 年 6 月 1 日

・説教 ヨハネの福音書3章31-36節 「神の言葉を語られる方」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:02

2014.6.1

鴨下 直樹

先週の月曜日から火曜日まで岐阜県キリスト教連合会の総会が高山の古川教会で行われました。岐阜県のすべての教会、カトリックから日本基督教団、ルーテル教会、ペンテコステ派、福音派の教会すべての教会が協力をして、岐阜県にある二つの教会に教誨師を送っております。そのための総会が行われました。大変楽しい二日間を過ごしました。そこで、ともに何度か聖書から福音を聞くときがあったのですが、一人の先生が、各自の聖書で構わないのでみんなで聖書を輪読していきましょうと言いました。それで、それぞれ新改訳、新共同訳、文語訳、口語訳の聖書をばらばらに読みました。一体、何を読んだのだろうというほど不思議な時間でしたけれども、興味深い経験となりました。

みなさんがご自分で聖書をお読みになるときに、他の聖書と比べながら読むということをされることがあるでしょうか。今日、私たちに与えられています聖書は、短い箇所ですけれども、実に様々な議論がなされるところです。他の聖書と読み比べてみますと気が付くことなのですが、今日の箇所は特に、この新改訳聖書では鉤かっこの中にいれていません。というのは、他の聖書では鉤かっこがついて書かれている聖書がたくさんあるのです。つまり、それはどういうことかと言いますと、新改訳聖書の場合は、今日のこの部分は洗礼者ヨハネの言葉ではないと理解しているということです。けれども、新共同訳聖書をお持ちの方は、この部分は鉤かっこでくくられております。この部分はヨハネの言葉だと理解しているからです。そのほか、ドイツ語の聖書もほとんどこの部分はヨハネの言葉だと理解しています。

なぜ、こんな少し小難しい話から始めたのかと言いますと、聖書を読む時に、私たちはあまり気に留めないところ、それが意外に大切な部分が隠れているのだということを知って欲しいと思うからです。もし、みなさんが今日のところをご自分で聖書をお読みになるとすると、ひょっとすると、良く分からないので、そのまま読み飛ばしてしまうかもしれません。いろんなことが書かれていてあまりすっきりしないのです。けれども、そういう時に他の聖書と読み比べてみてください。そうすると、きっといくつもの新しい発見をします。そして、その発見から聖書を読む力がついてくることがあるのです。

今日の聖書の箇所に入る前に、ここで少しヨハネの福音書の中で、今日の部分がどのような中で書かれているのか、その内容をまず整理しておきたいと思います。洗礼者ヨハネは、この福音書の最初に出てきたときにもすでに言いましたけれども、このヨハネの福音書では洗礼者ヨハネというよりも、むしろこのヨハネは主イエスの証言者として登場させています。このことはとても大切なことです。これまで洗礼者のヨハネは、主イエスが何者であるのかを証言し続けています。前回のところでも、ヨハネの弟子たちは人々が主イエスの方に行ってしまって、自分たちの先生であるヨハネの人気に陰りが見えてきたことに対する妬みが描かれていましたが、ヨハネは、「私はそのことで喜びに満たされているのだ」と言うことができました。それが、自分の使命であることをよく自覚していたのです。そのようにして、主イエスがどのようなお方であるのかを、バプテスマのヨハネは証しているのです。そして、特に今日の部分で言えば、ヨハネは、主イエスは神の言葉を語られるお方であることを証しようとしています。

そうしますと、今日のこの部分というのは、前回のヨハネの弟子たちの後での会話ですから、そのまま洗礼者ヨハネの言葉としても、新共同訳聖書や多くの聖書がしているように、読むことができます。それで、この部分を洗礼者ヨハネの言葉として鉤かっこにいれているのです。けれども、新改訳や他にカトリックの聖書でフランシスコ会訳という聖書などは、今日の部分は、この福音書を記した著者がここでまとめの言葉として書いたのだと理解することもできるのです。ただ、私たちとしてはここであまり、難しい議論をするよりも、ここには両者の思いが記されているのだということを理解してくださればと思います。なぜ、そのようなことから初めに説明する必要があるのかと言いますと、そのことを整理しておかないと、今日の部分は少し話がみえなくなってしまうのです。

さて、そうすると、ここで洗礼者ヨハネは何を言おうとしているのかということですけれども、31節にこう記されています。

上から来る方は、すべてのものの上におられ、地から出る者は地に属し、地のことばを話す。天から来る方は、すべてのものの上におられる。

さて、これは一体何を言おうとしているのでしょうか。

前回のところで、ヨハネの弟子たちは「みなあの方のほうへ行きます」と、26節に書かれていました。もちろん、「みんな」ではなかったと思いますけれども、ヨハネの弟子たちの心境からすると、「みんなあっちに行ってしまう」という気持ちだったのでしょう。それまではヨハネのほうが多くの人々を集めて共同体を作っていたのです。そういう中で、ヨハネは、「主イエスは神の民の花婿としておいでになられたのだ」とここで宣言をなさいました。そして、今日のところでは、さらにそこから一歩進んでこう言ったのです。「あのお方は上から来られたのだ」とヨハネはここで言おうとしているのです。

「上から来られた」というのはどういうことなのでしょうか。私たちも日常の会話で、上司のことを指して言うときに、「上がOKしてくれないのだ」とか、「上に睨まれるから」などという言い方をします。ですから、ヨハネも少なくとも、主イエスは自分のあとから来た、下の人間という理解をしていなかったということがここからまず分かります。これには、ヨハネの弟子たちも驚いたのかもしれませんが、もちろんそれだけではありません。ヨハネはここで上からと言ったのは、身分や立場の「上」というよりも、むしろ、もっと上、つまり「天から」、「神のところ」から遣わされて来られたお方なのだと言おうとしているのです。

そして、それに対してヨハネは、自分は地に属する人間であるとしたのです。私の言葉もこの地上の言葉にすぎないけれども、あのお方の語られる言葉は、上からの言葉をお語りになられるのだと言ったのです。これは、ヨハネの徹底したへりくだりと同時に、本当に自分が何者であるのかをよくわきまえていたということです。前のところに書かれている「私は衰えなければなりません」という言葉は、そこからもわかりますが、私が語る言葉がこの地上について語りうるにすぎないので、主イエスの言葉の前に、私の言葉は、主イエスが語られる時にはもはや意味を持たなくなるのだということでもあるのです。そして、そのことを表すかのように、このヨハネの福音書では、ここから、洗礼者ヨハネは登場しなくなります。自分の役割を終えたのだという理解がここに描き出されているのです。

ところがです。続く、32節にこう記されています。

この方は見たこと、また、聞いたことをあかしされるが、誰もそのあかしを受け入れない。

主イエスは天から来られたお方であるがゆえに、天でご自身がご覧になられたこと、神の国の言葉をお語りになられる。神の御国のあかしをなさる。けれども、そのあかしは誰も受け入れないのだと、ヨハネはここで言っています。けれども、前の26節ではヨルダンの向こう岸でバプテスマを授けいれていると、みんながやってきたと報告がなされています。「みんな」と言いたくなるほどたくさんの人々が主イエスのところに来て洗礼を受けているのです。そして、実はこの後の4章の2節では「イエスご自身はバプテスマを授けておられたのではなく、弟子たちであったが」という挿入された文章もそのことを表しています。バプテスマのヨハネの弟子たちからしてみれば、我らがバプテスマのヨハネ先生が下火なっているのを気にしているのに、当のヨハネ先生は、あそこにたくさん集まっているけれども、誰もその言葉には耳を傾けていないのだと言っているのです。あそこで集まって洗礼を受けている人も、実は主イエスがしていたことではないのだと、それに続いているのです。これはどういうことなのでしょうか。

そのように見ていきますと、この今日の聖書の箇所はバプテスマのヨハネ本人の言葉ではなくて、全体を見渡せた人がまとめとして語っているので、これは、福音書記者のヨハネの言葉なのではないかと考えられているわけです。それで、新改訳聖書などはかっこをうけていないのです。けれども、この部分は単純にかっこに入れればいいとか、入れないほうがいいということではなくて、両者の言葉として記されていると理解したほうが良いと私は思っています。

しかし、主イエスのところに大勢の人が集まっているのにも関わらず、その人々は主イエスの言葉を受け入れないというのはどういうことなのでしょうか。しかも、ここでも「誰もそのあかしを受け入れない」とあって「誰も受け入れない」とまた極端な言葉が使われています。もちろん、実際には「誰も受け入れない」というほどの極端なことではなかったと思います。しかし、ヨハネはここで、上からの言葉を語られる主イエスが、上の世界のこと、神の国のことを証してくださったのにもかかわらず、それを聞いた人々は信じないということを、ここでもう一度強調しています。

これは、すでに主イエスがエルサレムで伝道なさったときに、「みなが信じた」けれども、主イエスはそれらの人々にご自身をお任せにならなかったことと同じことが、ここで繰り返されていることがよく分かります。

そうすると、ここでヨハネの福音書が何を語ろうとしているのでしょうか。ヨハネはこの2章から3章にかけて、主イエスに対する人々の様々な態度を描きながら、主イエスの言葉を聞いた者は、それぞれが主イエスの言葉にどう応答するのかが問われているのだと語ろうとしています。主イエスの言葉をみんな受け取らないと言いながら、あなたはどうするのかということをここでバプテスマのヨハネは問いかけているのです。

ですから、つづく33節にこのように書かれています。

そのあかしを受け入れた者は、神は真実であるということに確認の印を押したのである。

「確認の印を押す」というのはなんだか、このヨハネの福音書を書いたヨハネは日本人なのではないかと思いたくなる文章ですけれども、これはもともとの言葉で「印を押す」という言葉が使われているのです。先日も郵便物が届きました、そこに印鑑を押すことを求められます。はんこうを押すということは「確かに受け取りました」という意味です。一度印を押してしまうと、後で受け取ってないとは言えません。確かに受け取りましたということを客観的な事実とするために印を押すのです。つまり、神が真実である、神の真実の御業を主イエスがお語りになる。それをアーメンと受け入れるということは、神が真実であられることを揺るがないこととして受けとるということです。

今日の聖書の箇所をいくつかの本で調べますと、多くの聖書学者は、この31節から36節は、ニコデモの対話のあとの21節に続くところにおかれるはずのものであったのではないかと書いています。このヨハネの福音書の全体の順序を入れ替えて再構成したほうがいいと考えた人たちが大勢いました。もちろん、大切なことは、今、このような形でヨハネの福音書が記されていることが大事なことですから、そこで「もし」を問うことにあまり意味はないとも言えます。しかし、「もし」、この31節からの部分が21節の後に入れられていたとすれば、この対話は主イエスの言葉を信じることの結論の部分として考えることができるということです。ニコデモとの対話の結論として今日の箇所を読んだほうが、良く分かるのではないかと考えたのです。どういうことかと言いますと、ニコデモは主イエスを信じるか、信じないかという選択の前に立たされました。ところが、このヨハネの福音書というのは、主イエスに対して好意的な態度を示したニコデモを登場させて、対話をして、最後の結論の部分はいつのまにか、あの3章16節のヨハネの福音書のメッセージの中に消えてしまって、大事なニコデモの反応が書かれていません。それで、今日の31節からの部分はその答えになるのではないかと考えたのです。

私は、ヨハネの福音書の専門家でもなんでもありませんから、ヨハネがなぜこういう流れで福音書を記したのか、はっきりと分かるわけではありません。けれども、ニコデモとの対話があって、バプテスマのヨハネの物語がここにあって、その両者の結論としてこの部分が書かれているということに、意味があるのだと思わずにはいられないのです。

というのは、このヨハネの福音書はこの部分で、イエスとは何者であるのかということを宣言しようとしているからです。それは、今日のところで明確に語られているのは、イエスは神の言葉を語られるお方であるということです。そして、この方の言葉を聞いた人物としてヨハネは初めに主イエスの弟子となった人々を登場させ、今度は主イエスの母を登場させ、今度はニコデモ、そして、バプテスマのヨハネと続きます。そして、あい間、あい間に、大勢の人々が主イエスを信じた、みながやってきたということが書き記されています。

バプテスマのヨハネであろうと、この福音書を記したヨハネであろうと、同じことですけれども、このヨハネはここで私たちに問いかけているのです。今、あなたも、主イエスの言葉を聞いた。イエスとはだれか、それは、神の言葉を語られるお方です。天の言葉を語られるお方です。そのお方の言葉を聞いて、あなたはどうするのかと。

神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである。父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

ヨハネはここで一つの結論を語るのです。神がお遣わしになられたお方は、神の言葉を語られる方。そのお方の言葉の前に、私たちがすることができるのは、この方の言葉を信じて、これは確か言葉です、と印を押しながら自分に与えられたものとして受け取るのか、それとも、聞かなかったことにするのか、そのどちらかでしかないのだと、ヨハネはここで結論づけているのです。

バプテスマのヨハネはここで、主イエスの証言を宣言するのではなく、今度はあなたが受け取ることが求められているのだと宣言して、自らの役割を終えて、その役割を今度は主イエス自らに託していくのです。

主イエスは神です。この方の語る言葉は、神の真実を語っています。私はそれを受け止めます。もう私は印を押しましたから、あとでそれを取り消すことはしません。そのように受け止めることが、主イエスを受け止める、信じるということなのですよ、とヨハネはここで語っているのです。

ヨハネの福音書はこのように語りながら、主イエスの前に来て、主イエスに関心を持ちながら主のもとに訪ねてきたあのニコデモは、あなたのことなのだということをここで描いているのです。

先週の金曜日の中日新聞の夕刊に、この教会でも何年か前に講演してくださいました福音館の松居直先生の記事が大きく取り上げられておりました。いくつもの本の中でもすでに書いておられることですけれども、この松居先生は言葉の大切さ、特に聞くことの大切さということを語り続けておられます。特に、福音館というのは大変すばらしい絵本をいくつも出されておりますけれども、松居先生自身、かつて絵本の編集者として活躍された方です。「本来、言葉はまず耳から聞くものです。そこに言葉の面白さと秘密がある」。そんな言葉から始まりまして、子供に大人が本を読んでやることを通して、感性や心が育つ。そうやって、創造的に生きていくことができるようになると書いています。そして、自分の言葉の体験として、この教会でもお話しくださいましたけれども、このヨハネの福音書の冒頭の言葉、「初めにことばがあった、ことばは神とともにあった、ことばは神であった」という、あの聖書の言葉に体が震えたのを覚えていますと語っておられます。

聖書が語る、神の言葉と出会う経験を通して、松居先生は、人を真実に生かす真のことばの力というのを知るのです。

主イエスの言葉、「そのあかしを受け入れた者は、神は真実であるということに確認の印を押したのである」ヨハネはそう語ります。神の言葉を聞くときに、そこに確かに受け取った、後戻りできない確かな真実を私たちは味わうのです。それは、もう逃げ出す必要のないほどに、確かに私を生かす言葉となるのです。

信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。3章15節

神は、実に、ひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。3章16節

あなたがたは新しく生まれなければなりません。3章7節

ここには、実に生き生きとした、私たちを生かす言葉に満ち溢れています。このお方の言葉は上からの言葉、天からの、神の国に私たちを新しく生かす言葉です。この言葉によって、私たちは、神がいかに真実なお方であるかを知ることができるのです。そして、このお方の言葉の中に、私たちは慰めと希望を見出しているのです。

お祈りをいたします。

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