2014 年 6 月 8 日

・説教 ヨハネの福音書4章1-26節 「主イエスとの対話」

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2014.6.8

鴨下 直樹

先週の月曜日にJEAの総会に出席してまいりました。JEAというのは日本福音同盟と言いまして、日本の福音派と呼ばれる教会の交わりがあります。この福音派の教会の各教団の代表者が集まりまして、毎年総会を行います。この期間に、色々な教派の牧師たちと食事の時や会議の間に対話をする機会があり、とても楽しい三日間を過ごしてまいりました。毎回の食事の度に初めてお会いする先生方とお話をします。どこから来られましたか。どういう教団ですか。特に、みな牧師たちですから、もう長い友人であったかのように話し込みます。時々、あまりにも仲が良いので、もうだいぶ前からの知り合いなのですか?と尋ねますと、いいえ、昨日の昼に一緒に食事をしましたという返事が返ってくるのです。

この教会でも先日も55プラスという集会がありました。私は参加しておりませんけれども、賑やかな声が私の部屋まで聞こえてきます。多くの人が、心を開いて話をしたいという願いをもっているのだということが良く分かります。

今日の聖書は、主イエスとサマリヤの女が対話をしているところです。とても、長い対話です。今日は26節で切りましたけれども、まだまだ対話は続いていて38節まで続いているのです。私の手元にあるいくつかの説教集を見てみますと、1節から38節までのこの部分から4回から5回の説教をしています。何回にも分けたくなるほど、豊かな内容があるのです。

1節から4節の部分は、前回の3章の終わりのところのバプテスマのヨハネの弟子たちとヨハネの出来事が記されておりましたが、主イエスがバプテスマを授けておられたことが、パリサイ人の耳に入ったので、主イエスはまたガリラヤへ、つまりまたご自分の故郷の方へ足を向けられました。そこに行く途中、サマリヤというところを通らなければならなかったとこの4章の冒頭に記されておりまして、このサマリヤの女との対話の場面設定がなされています。地理的な都合であったのか、あるいはヨハネの福音書の内容的な都合であったのか、さまざまな意見がありますけれども、いずれにしても、主イエスはサマリヤの町を通って行かれます。

そこで、どうしてもこのサマリヤという土地のことをあらかじめ少し説明しておく必要があります。サマリヤというのは、第二列王記第17章に詳しく書かれておりますけれども、かつてイスラエルが、南ユダと北イスラエルに分かれてしまった時のことです。アッシリアは北イスラエルに戦いを挑み、勝利します。この時、アッシリアはサマリヤの町を占領して自分たちの民族を住まわせます。そして、この地で独自の礼拝を確立させていきます。それまでのイスラエルは他の民族との結婚は偶像礼拝が入り込むために避けてきましたが、サマリヤの人々は異邦人、ここではアッシリアの人々ですが、彼らと結婚をしていったために、ユダヤ人たちはこの混血のサマリヤ人たちのことを嫌悪するようになりました。そのために、ユダヤ人はサマリヤ人を避けて生活をするというのが当たり前になるほどに、ユダヤ人たちはサマリヤ人と関係を持たないようにしていたのです。

そのサマリヤの町を主イエスは旅されたのです。あまり詳しい説明をする必要はないと思いますけれども、この旅で主イエスはのどの渇きを覚えられた。スカルというサマリヤの町、そこにヤコブの井戸というのがありました。これは、ヤコブが(後でイスラエルと名前を変えますけれど)旅をしているときに見つけた井戸です。当時のヤコブが多くの家畜を連れて旅をしていた時に見つけた井戸で、創世記にヤコブとその地域の住民たちとの井戸の奪い合いの話が何度もでてきます。そして、この井戸はヤコブがその地の人々に譲った井戸だったようです。そのような井戸辺に、おそらく暑い時間に主は水を求めてそこまで行かれたのです。当時の井戸は、水を汲むための桶のようなものは自分で持ってきていたようで、旅人である主イエスは自分で水を汲むことができませんでした。すると、ちょうどそこに、サマリヤの女が水を汲みに来たのです。暑い、太陽の出ている時間です。

二週間前に岐阜県の基督教連合会の総会がありまして、そこに来ておられた牧師がイスラエルの暑さの話をしてくださいました。現地の人に、荒野では一日に8リットルの水を飲むように勧められたのだそうです。そうしないと、気が付かない間に体から水分が奪われてしまって、のどが乾かないから大丈夫と思っていると、大変なことになるのだそうです。中には、この言葉を軽んじて水を取らなかった人が、脱水のために亡くなった方もあったと言っておられました。大変な暑さです。私はイスラエルに行ったことがありませんので、そういうものなのかと驚きながら聞いたのですが、私たちが考えているよりも、ずっと水をとるということが大事なことは間違いないようです。

ここで主イエスは、このサマリヤの女に、「水を飲ませてください」という何でもないような問いかけをなさりながら、主イエスとサマリヤの女との対話が始められていったのです。こうしてはじめ、サマリヤの女は、なぜ、ユダヤ人がサマリヤ人に声をかけるのか不思議に思ったことから対話が始まります。当時のユダヤ人は嫌悪することはあっても、話しかけるなんてことはしないからです。まして、ラビとよばれるユダヤ人の教師が女性に話しかけることは絶対と言っていいほどにないことだったようなのです。話しかけるということは、少なからず興味があるからでしょう。ところが、そう尋ねたこの女に主イエスは、「私は生ける水を与えることができる」と言うのです。 この「生ける水」というのには、二つの意味があります。一つは「流れる水」という意味がありました。新改訳聖書の注では「湧き出る水」と説明されています。ですから、井戸の水は「たまった水」ですから、どこから「流れてくる水」を汲むことができるのだろうと思ったのかもしれないのです。けれども、もちろん、それはもう一つの意味の水、つまり「人間の心の渇きをいやす、いのちの水」のことです。 この女が、どちらの水を求めたのかがここではまだはっきりしていませんけれども、

「先生、私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私にください。」

と、15節で答えています。

ここで、主イエスは水を汲んで貰う側だったのが、この対話の中で立場が逆転してしまいます。その人が本当に必要なものを、主イエスはここで言い当てられたからです。主イエスというお方は、対話をしながら、その人の心の中に浮かんでいなかったような本当の求めを引き起されたのです。

これは、私はいろんなところでお話していることなのですけれども、教会が伝道計画を立てるときに、どうしたら人が来てくれるのかということから話し始めることがあります。人々のニーズは何かを考えて、それに答えようと考えてしまうことがあります。けれども、そうすると、人のニーズに応えようとするというのは、「人が求めていること」が正当化されてしまうということでもあります。この場合だと、サマリヤの女の求めは、こんな「昼間から水を汲みにこなくてもいいようになりたい」というのがその最初の求めです。この後でわかりますけれども、この女は五人の夫があって、今また六人目の夫ではない男がいる。たから、人目を避けて、誰もこないような炎天下の暑い時間帯に井戸に水を汲みに来なければならなかったのです。けれども、そのような水を与えて家庭に水道を引いてやったら問題が解決するのか、ということではありません。その人の本当の渇きは、飲み水ではなくて、その人を生かす水を飲むこと以外にないことを、主イエスはこの対話を通して気付かせようとしておられるのです。ですから、私たちも、教会が人々のニーズに応えていくのではなくて、その人の本当の求め、神がその人に見ておられるニーズを提供すること、それはどうしたら、その人の本当の渇きを覚えさせることができるのかということに目を向けていかないかぎり、私たち、教会の伝道も道が見えてこないのではないかと考えさせられているのです。

先日行われたJEAの総会でも、隣の席になった牧師が面白い話を聞かせてくれました。クリスチャンのパーセントは人口の1パーセントと言われている。けれども、毎年、カトリック教会と、プロテスタント教会の洗礼者数の報告の数だけを数えていくと、実際に教誨で洗礼を受けたことのある人の数は、すでに人口の5%から6%になるのではないかというデータがあるというのです。私はその話を聞いて、もちろんだからすぐに何かができるということではないと思うのですけれども、教会に足を運んで、礼拝に集い、洗礼まで受けたけれども、今は教会に行っていない人がそれだけいるのだとすると、それは、やはり、教会がその人の本当の必要に届くまでの福音を語ることが出来なかったということだと、襟を正さなければならないと思わされているのです。そして同時に、だからこそ、私たちはその人々をもう一度主の礼拝に招くために、何ができるのかということを真剣に考えなければならないのではないかと思うのです。

昨日も、岐阜県美術館に参りまして、古川長老の館長室で長老会を致しました。ちょっと場所が変わるだけで、私たちの意識もずいぶん変わるものだなと改めて考えさせられました。その中で、山田長老の仕事の話を少しお聞きしました。山田長老はシオンという会社でものをつくる小さな町工場を経営しておられます。みなさんもご存知のように、昨年、全国の中小企業を対象にした駒の技術を競い合う大会に出られて優勝しました。ニュースなどでも取り上げられましたし、教会にも取材にこられましたので、みなさんもよく知っておられると思います。そのことが自分の出会いを大きく変えて、今まで知らなかったさまざまな小さな会社の人たちとのコミュニケーションの場となって、いろんな人たちと出会うことができるようになった。そこから、さらに仕事の刺激をうけていると話してくださいました。最初、この駒対戦というのを始められた方の意図もそこにあったということでしたけれども、想像をはるかに超えて、素晴らしい出会いと刺激の場所になっているのだそうです。これもまた、本当の人の必要ということに届いたという一つの素晴らしい例だと思いながら、昨日、とても楽しく話を聞かせていただきました。そして、そういう中で新しい出会いを経験するから、また輪が広がって、今色々なところで講演をしておられます。色々な教会でもそのことを証ししてくださっています。

私たちの主は、私たちに関心をむけてくださるお方です。私たちに語り掛けてくださり、私たちに本当に必要なものに目を向けさせ、何が足りないのかを気付かせてくださるお方です。はじめは本人の気付いていないようなことであっても、それが、本当に自分にとって大切なものに目が向けられて、自分の本当の必要が分かるようにしてくださるのです。 とても不思議なことですけれども、このサマリヤの女と主イエスの対話は、あなたに何人の夫があって、そして今、あなたは夫ででない人といると言い当てられたあとで、話は礼拝の話しになるのです。 19節。

女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」

なぜ、この人はそんなことを言ったのでしょうか。夫を次々に変えたことと、礼拝がどのようにこの人の中で結びついているのでしょうか。 夫を変えるということは、その結婚生活に限界を感じたということなのでしょう。もちろん、男側が限界を感じたのかもしれませんし、女の側だったのかもしれません。ただ、今と違いまして、この時代の女性は圧倒的に立場が低かったのです。自立して、自分の仕事で食べていくなどということは出来ませんでした。そう考えれば、一度家庭が崩壊しながら、それでもまた相手が見つかったということ、しかも次々に見つかったということは、恵まれていると言えるのかもしれません。ただ、そういう生活の中で味わったのは、言葉が通じないということだったはずです。夫であっても真実の対話が出来なかったのです。この人の心の中にある、誰にも言うことのできない声を、せめて夫に聞き取ってほしいと願ったのに、どの夫もそれを拒絶して捨てたのだということです。 そうすると、このサマリヤの女にとって、では私が私の心の中にある思いを受け止めてくれるのは、神以外にないのではないかと考えたのは当然のことだったと言えるのです。けれども、サマリヤ人はゲリジム山というところで礼拝をしていました。そこでは、バアルやアシェラの神々にも礼拝をささげていたのです。このバアルという神は「主人」という意味です。そして、ここでこのサマリヤの女が「夫」と言ったのは、その世界の様々な主人、神々のことというように、ここを読むこともできるのです。 そうであるとすれば、私が本当の礼拝をささげることは、そのように当時のサマリヤでなされた様々な神に向かって礼拝をささげることを通して、わたしは本当の対話をすることができない。私の心の渇きがいやされないのですかという問いとして、主にむけられたのだと読むことができるのです。 そして、主イエスは21節から26節までのこの問いに答えられました。

「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

難しいことをここでもはや言う必要はありません。あなたが本当に心を注ぎだして神と対話をすることを望むのであれば、それは、今、あなたは私に心を向けることによって、神を礼拝することになる。そして、あなたの心の渇きは私との対話によって癒されていくのだと、主イエスはここで宣言をしてくださったのです。

昨日、お昼に長老会があったのですが、その前に教会で葡萄の木の句会が行われました。昨日そこでもお話をしたのですけれども、私たちはお祈りをするときに、お祈りしている間に他ごとを考えてしまって、気付かない間にお祈りが終わってしまうことがありませんか。という話をしました。というのは、金曜日、私が教えております東海聖書神学塾で、祈りについて神学生たちと学びをいたしました。これは誰でも経験することだと思いますけれども、なかなか祈りに集中することができないということを、誰もが祈りの生活の中で味わうことがあると思います。ただ、私たちがそこで覚える必要があるのは、私たちはその祈りにおいて、神と対話をしているということです。その時に、自分のほうから話しかけておいて、気付いたら、台所で洗い物を始めていたとか、気になっていた携帯電話に目を通して、お祈りが尻切れトンボで終わってしまったということがあるとすると、対話をしているはずの神を、主を私たちはひどく軽んじてしまっているという恐れを持たないままに、それが日常化してしまっていることに気付くことが必要だと思うのです。

先週も、フランチェスコの「わが神。わがすべてよ」という祈りを紹介しました。短い祈りですが、そう祈り続けることによって祈りの心をつくるということは、とても大きな私たちの助けになると思います。また、昨日の句会でも話したのですけれども、そういう時は声に出して祈ったらいいとも言いました。私たちは、私たちの心の深いところまで注ぎだすことのできるお方に、心を注ぐことがないまま、そういう祈りが日常化することのないように心がける必要があります。 私たちの主は、私たちの心の渇きを誰よりも知っていて下さるお方です。そして、だれよりも、私たちとの対話を願っておられるお方です。この主に礼拝をささげることができることこそが、私たちに与えられている大きな慰めそのものなのです。

「あなたと話しているこのわたしがそれです。」

あなたが祈っているそのお方こそが、あなたの慰めそのものです。あなたの本当の心の渇きをいやすことのできる方なのです。今日はペンテコステです。私たちが心から礼拝をささげることを求めておられるお方は、私たちに神の霊を与えてくださいました。そして、この霊によって、まことの礼拝をおささげすることができるようにして下さったのです。今、私たちは、礼拝をとおして聖霊が与えられていることを覚え、神が私たちに向かって、み言葉を持って語り掛けてくださっていることを知ることができます。この礼拝の中で、私たちは主にある喜びの中に立つことができるようにされるのです。

お祈りをいたします。

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