2009 年 7 月 26 日

・説教 「ノアの箱舟3 大洪水の中で」 創世記7章16-8章19節 

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 17:08

鴨下直樹

「船」という漢字があります。「舟」というへんに「八」と「口」という字を書きます。こういう話はドイツ人などは大好きで、この漢字はノアの箱舟に由来すると言われていると説明しますと、目を輝かせて喜びます。舟にノアの家族八人がみんな入った。その入り口から家族が入ると、神が戸口を閉じられたのです。この漢字の説明はみなさんも色々なところで耳にされたことがあるだろうと思います。では、「舟」というへんに「万」という字と、「口」を書くとどう読むかご存じでしょうか? 

私が神学生の頃のことです。岡崎教会で奉仕をしながら神学校に通っていたのですが、この教会は当時は開拓教会で、今は稲沢で開拓しておられるドイツ人の宣教師ベルンス・ラインハート先生が開拓していました。この先生は、私のところにこの変な漢字を持ってきて見せるのです。「この字が読めますか?」と。私は、「先生、こんな漢字はありませんよ?」と答えながら、内心は、「困った外国人だなぁ」などと思っていました。すると、この宣教師は、「そんなことは知っています」と私に言うのです。でもどうしてもこの漢字を印刷したい。コンピューターでこういう漢字を作ることはできないか?という相談を、どうやら私にしたかったようだったのです。私が、「残念だけれども、そういう新しい漢字を作ることは、僕のコンピュータでは出来ません」と答えると、本当に残念そうな顔をするのです。

数か月後、私が通っていた東海聖書神学塾という神学校の機関紙である「塾報」の表紙にこの不思議な漢字が載っていたのです。どうやらベルンス先生は、この塾報の巻頭言を頼まれて、この漢字の話をしたかったのだとその時になって気がつきました。

舟というへんに万と口という漢字はありません。それは、神様はすべての人をお救いにはならなかったからで、八人だけが救われたからこの漢字になったのだと、その巻頭言には書かれていました。宣教師らしいメッセージです。救われる者は少ない。だから、献身して牧師や宣教師になる人がもっと必要なのだとそこで締めくくられていました。

このノアの洪水の物語は、一方から見れば神の裁きの物語です。実際に、ノアの家族以外全てが死に絶えてしまったことが今日の聖書には様々な言葉で記されています。

「鳥も家畜も獣も群生するすべてのものも、またすべての人も死に耐えた」7章21節。

「いのちの息を吹き込まれたもので、かわいた地の上にいたものはみな死んだ」7章22節。

「こうして、主は地上のすべての生き物を、人をはじめ、動物、はうもの、空の鳥に至るまで消し去った」7章23節。

ちょっとくどすぎるのではないか?と思えるほどに、言葉を重ねてすべての生き物が滅んだことをここで語っているのです。

この7章の最後にある言葉がまた印象的です。

「ただ、ノアと、彼といっしょに箱舟にいたものたちだけが残った」7章23節。

これは、動物がたくさん出てくる、子ども向きのかわいいらしいおもちゃにすることのできるような話では実はないのです。ベルンス先生が言うように、何万という人が救われたという話でもありません。神の救いを得たのはたったの八人なのです。

今日の聖書個所の創世記7章には、箱舟の扉が閉められてからどうなったのかが記されています。19、20節には「水は、いよいよ地の上に増し加わり、天の下にあるどの高い山々も、すべておおわれた。水は、その上さらに15キュビト増し加わったので、山々はおおわれてしまった」と記されています。 一番高い山のさらに15キュビトというのは、ちょうど箱舟の深さの半分になりますから、箱舟が山の頂のぎりぎりまで水が増えたということを物語っています。そしてこの描写は、神の救いが水の上に悠然と浮かんでいる姿をも表しています。 神の救いは、すべての世界が飲み込まれてしまったとしても、その上に悠然と浮かぶことのできる確かなものなのです。水しかなくなってしまった裁きの世界にただ一つ浮かぶ箱舟、これが神の救いのシンボルとなったのです。

今朝はこの創世記ともう一か所ペテロの手紙第一、3章20-22節をお読みしました。ここには、ノアの時代、箱舟に入ったわずか八人の人であったことと、バプテスマのことが記されています。このノアの箱舟は水の中で救いを得たことのしるしがバプテスマ、つまり洗礼をうけることだとペテロの手紙では言うのです。言ってみれば、バプテスマを受けるということは、この大洪水の中にある箱舟の中に入れられているということなのです。

洗礼を受けるということは、神の救いを受けたことをあらわす大切なしるしです。ときどき、洗礼を受けるということはキリスト教の信者になることで、洗礼を受けてしまうともう後戻りできない。何かとても窮屈な生き方を強いられるような印象を持っておられる方があるかもしれません。

考えていただきたいのですが、この水の上に浮かんでいた箱舟は、神の救いがどれほど確かであるかということを表しています。まさに悠然たる姿でしょう。けれども、その箱舟の中ではどうだったのかというと、それほど悠然とはしていなかったのではないかと思うのです。もちろん、箱舟の中にいたノアの家族八人は、救われたという実感は誰よりもあったと思うのですが、しかし、その箱舟の生活というのはきっと大変だったと思うのです。自由奔放とはいかない生活です。締め切られた空間での息苦しさ、動物たちの世話という労働、いつ外に出ることができるのだろうかという不安、いつも家族しか顔を合わせることができない退屈さ、あげればきりがないほど限定された生活であったと思うのです。

そのように、実際に洗礼を受けてキリスト者として生活するというのは、思ってもみないような大変なことがある。けれども、大変だから嫌だ、自分は自由にいきたいからなどと言って滅びの世界に出て行くこともまたできません。そこで、キリスト者には問われていることがあるのです。それは「忍耐」です。本当の自由をつかむまで、それを信じ続けながら忍耐の中にとどまることです。あるいは、「信じて待つこと」と言ってもいいかもしれません。

私の好きな絵本にスェーデンの作家ベスコフの「ペレのあたらしいふく」というものがあります。この主人公ペレは一匹の羊をもっていました。この羊はどんどん大きくなっていきます。ペレも大きくなっていきます。しかし、ペレのいつも着ていた服は小さくなってしまっています。そこでペレは、羊の毛を刈って服を作ろうとするのです。毛を刈ることは自分でやるのですが、毛をすく必要があります。それでおばあちゃんにすいてもらっている間に、ニンジン畑の草取りをするのです。ペレは今度は別のおばあちゃんのところに行って、紡いでもらう代わりに牛飼いの世話をします。色を付けるための染料を分けてもらうためにお使いに行き、自分で色をつけます。その綺麗な青色に染まった糸を布に織ってもらうためにお母さんに頼みますが、ここでペレは代わりにあかちゃんの世話をします。最後に仕立て屋さんのところに仕上がった布を持って行って服を作ってもらうのですが、代わりに干し草を集め豚にえさをやったりと、本当に良く働くのです。そうして、ようやく綺麗な青い新しい服ができるのです。

ペレは、最初から服がどのように仕上がるかを夢見ています。そして、そのためにコツコツと自分のすべきことをするのです。信仰の歩みはこれに似ているのではないでしょうか。そこで果たすべきことは、苦しいことでも嫌なことでも何でもなくて、実はそれ自体が生活の楽しみであるかのようにベスコフは描きます。信仰の歩みも、扉が閉ざされたと思えるような中にあっても、実はそこでコツコツと自分のつとめを果たす時にその生活自体が喜びなのであって、しかも、最後には期待したものを得ることができるという喜びもまた経験することになるのです。

ここでできた服はなんのためかというか、絵本の最後を見ますとまわりの人々も綺麗な服を着ていることに気がつきます。実は、その服は礼拝に着て行く服なのだということが、最後の最後に分かるのです。当時、ヨーロッパでは日曜日の装いと言いまして、日曜になると一番綺麗な服を着たのです。こういう習慣はだんだんと失われていっているのは残念なことだと思います。日常の厳しいと思えるような労働を、子どもが自分の服を手に入れるために、実に楽しく実に豊かな時間として与えられていて、その喜びは神を礼拝するところで初めて本当のものとなるのです。

この聖書は、そのような信仰の歩みを、さらに別な視点でも物語っています。それが、8章の1節にあります。

「神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた。」

神は、箱舟の中にいる者を心に留めていてくださるのです。神は私たちに救いを与えたら私たちのことを忘れてしまって、あとは放っておかれるようなお方ではありません。この神が私たちのことを心に留めていてくださるという事実が、私たちが箱舟の中にいると思うようなとき、閉じ込められた世界に生きなければならないと思えるような時であったとしても、そのような生活に目を留めていてくださるのです。

私たちはそのような厳しい生活を強いられる時、自分は神に忘れられてしまっているのではないか、神は私に目をむけてくださっていないのではないかと不安になります。ノアは実際、雨が降り始めてから箱舟を出るまでの期間、第二の月の十七日に始まったと7章の11節に記されていて、翌年の第二の月の二七日に地が渇ききったと8章14節に記されているところまで、実に一年と十日にわたる長い期間を箱舟の中で過ごさなければならなかったのです。それはノアの家族にとって本当に厳しい時であったに違いありません。そして、神が心に留めてくださっていたかどうかということは、当の本人にはこのあと15節で神が語りかけてくださる時まで分からないのです。

この間、ノアの家族に求められていたことは、ひたすらに信じて待つということ以外になかったのです。

「信じて待つ」。これこそが、信仰の歩みの基本であるということが、このノアの物語でよくおわかりいただけると思います。「神を信じるのであれば、その方を期待して待つ」、私たちはそのことをいつも学び続けていかなければなりません。飽きてしまってはならないのです。いや、実際にその生活は本当は生き生きとした時間なのですから、その時間をノアのように、あるいはペレのように、楽しい時間として過ごすことが大切なのです。決してその時間は退屈で閉じ込められた世界ではないのですから。

ノアたち家族が箱舟に入って百五十日たった時、つまり半分の期間が過ぎた時ようやく雨が止みました。少しづつ水は減っていき第七の月の十七日、5カ月過ぎた時に「舟はアララテ山の上にとどまった」と記されています。

このアララテという山は、現在のトルコのあたりにあるのですけれども、どうも大きいアララテ山と小さいアララテ山があるようで、新改訳のチェーン式バイブルをお持ちの方ですとそこに高さが記してあります。高い方は5144メートル、小さい方は3944メートルもあるようです。実際には大きい方は5137メートルで小さい方は3896メートルのようです。どちらにしても富士山が3776メートルですから、小さい方にしても富士山より高い山ということになります。そんな高い山の上にまで洪水が押し寄せたということでも大変なことですが、その山の頂に舟が引っかかってしまったら、どうやって降りてきたらいいのだろうと更に不安になるのではないかと私なんかは想像するのです。どうだったのでしょう。その上、水はそこから引いていって渇くのに後半年も待たなければならないのです。そこで、ノアがカラスやハトを舟から何度も放って調べたということが書かれていますけれども、これも一言で言えば心配だからやったことでしょう。何かやらないと気が落ち着かなかったからかもしれません。そういう中であっても、ノアは神に希望を持ち続けることを止めなかったのです。

そして、神はノアに一つの慰めを与えます。それが、放ったハトがオリーブの若枝をくわえて戻ってくるという出来事の中に表されています。ハトがくわえるオリーブの若枝というシンボルは、この時から人々への希望のシンボルとなったのです。神は見捨ててはおられないことの証しとなったのです。このオリーブを見た時ノアたち家族はどれほど慰められたことでしょう。

神はそのように、私たちにも何度も何度もこの希望のオリーブの若枝を見せてくださっているのです。私たちはそのことを何でもないかのように思って気が付いていなくても、神は私たちに私たちを心に留めているというしるしを送り続けてくださっているのです。

一月一日、新しい年を迎えます。神はその時から地を渇かせてくださいます。この描き方がまた非常に興味深く記してあります。神が新しいことを始められるのに新しい年からというのは、いつもそういう訳ではありませんけれども、非常に人々の心に残ったのだろうと思います。

今年新年を迎えた時、私たちも今年の一月一日に、今年の年間聖句の御言葉を聞きました。そこにはこうありました。

「人間にはできないことも、神にはできる」

というルカ18章27節の御言葉です。

今年一年神に期待する一年にしましょう、と元旦礼拝で共に御言葉を聞きました。今日は、この礼拝の後で上半期の感謝反省会をいたします。半年を振り返って神様が私たちの教会でどのように働いてくださっているかを確認しようというのです。それは言ってみれば、神が私たちに示してくださったオリーブの若枝を共に見て喜びましょう、ということでしょう。そして実際に主の御業を見てみれば、あそこにもここにも本当に神は目を留めていてくださったということが分かるはずです。

私たちはときどき自分の人生でも、立ち止まって神の御業を振り返って、神は本当に私たちに目を留めてくださったと確認をしていくことが大事なのだろうと思わされます。そして、その時私たちは自然と神に礼拝をささげることになるのです。神への感謝へとなることでしょう。

ノアは一年を経て、家族八人とひきつれた動物たちが箱舟を出た時、そこで祭壇を築いて神に感謝の礼拝をささげます。そして、神はその礼拝を喜んで受け入れてくださいます。

私たちは毎週神に礼拝をささげています。何でもないことのようですけれども、実はここで私たちはこのことを行っているのです。

神が私たちに目を留めてくださっている。私は本当に神に支えられている。失敗することも、罪を犯してしまう不完全さを持っている。信仰の歩みをしながらも、不自由さを感じて不満がでてしまうことも確かにある。けれども、礼拝に集い神が私たちに恵みを注いでくださることを思い起こす時に、私たちは「ああ、この神は生きておられ、私たちを愛し、私たちの生活を支え、こんなにもオリーブの若枝を与えてくださっている」と気付かせられるのです。そして、心から主の御名を称えて賛美をし、神に心からの祈りをささげているのです。

どうか知っていただきたいのです。私たちはこの豊かな救いの神のまなざしの中で生かされているのだと。そして、私たちは決して神から見捨てられてなどいないのだと。そして、この神に心からの感謝の礼拝をささげ、新しい思いでこの神に従う決意をもっていただきたいのです。信仰の歩みは信じて待つことです。けれども、この礼拝の生活の中で私たちはこの「信じて待つ」ということを、「希望」と同じ意味で喜びとして捕えることができるようになるのです。

お祈りをいたします。

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