2009 年 7 月 19 日

・説教 「ノアの箱舟2 戸が閉ざされる前に」 創世記7章1-16節

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鴨下 直樹

 梅雨を迎えています。毎日毎日雨が続くと本当にいやな気持になります。私の父がかつて小さな本を書きました。「ジュニアのはこぶね」というタイトルの本です。自分が中学生の頃、雨が降って体育の授業ができなかった時に、先生が「今日はお話をしてあげます」とノアの箱舟の話をしたのだそうです。その経験がこの本のタイトルになったというわけです。若い時に聞いたノアの箱舟の話は、後になって信仰をもつようになり、聖書の物語だと知るようになって、その先生はクリスチャンであったかと気がついたようです。若い時、それも梅雨の時期に、ノアの箱舟の話を聞いた。それは父にとって衝撃的な話だったのでしょう。だから覚えていたのだろうと思うのです。

 

 このノアの箱舟の話は、教会に長い間来ている人にとっては、懐かしい聖書物語の一つかもしれません。けれども、ここに書かれている内容は壮絶です。雨が降って、降って降り続いて、人々がすべて死に絶えてしまうまで降り続いたという話です。呑気に聞いていることなどできない話です。

 私事と申し訳ないのですけれども、ドイツにいた時に、友人の学生と「梅雨」の話をしたことがあります。ドイツでは春を迎えて5月くらいになりますと暖かい日が続きます。そうすると、学生たちなどは「やっと夏が来た!」と浮かれだすのです。そうすると、ドイツの友達が私に尋ねて「日本でもこの時期は夏か?」と聞いてくるので、「日本では梅雨が終わるまで夏が来たとはあまり言わない」と説明しました。すると、「その梅雨っていうのはなんだ?」と聞き返すので、「雨季のようなもので、雨が一か月くらい続くのだ」と答えます。「この時期になると、毎日雨が続いて、しかも湿度が高いので、本当に気が滅入ってしまう」などと私が言おうものなら、「じゃあ毎日雨が続くと、日本人はノアの箱舟の話をドイツ人よりもよく理解できるのではないか?」などというトンチンカンな答えが返ってくるのです。私が不思議な顔をしていると「だって一か月雨が続くんだろう?」と言うわけです。経験したことがないというのはなかなか理解するのに難しいようです。

 

 けれども、この梅雨の時期がノアの洪水の出来事を思い起こさせるということは、雨が降っても傘をさす必要のないドイツ人に比べれば多いのかもしれません。実際私たちがドイツで生活していた三年半の間、傘をさしたことがありませんでした。この梅雨の季節のように激しい雨が連日のように続けば大変なことになるということは、揖斐川、長良川、木曽川という川のそばで生活している私たちにしてみれば彼らより理解しやすいことなのかもしれません。雨のために川の堰が切れてしまうだけで、本当におおごとです。事実、家が水につかってしまうという経験をされた方もあるのだろうと思います。

 

 今日の聖書の個所ではこう書かれています。11節、12節をお読みします。

 

ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、その日に、巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。そして、大雨は、四十日四十夜、地の上に降った。

(創世記7章11-12節)

 

 「巨大な大いなる水の源がことごとく張り裂け、天の水門が開かれる」こう書くことによって、まるで天地創造以前、創世記1章7節にあった「大空の下にある水と、大空の上にある水とが区別された」はずの世界が、もう一度すべての水に飲み込まれて、まるで天地創造以前の状態、「混沌」の状態にまで戻ってしまったかのように描いているのです。それは言ってみれば、世界はもう一度はじめからやり直ししなければならなくなったと物語っているかのようです。雨は四十日、四十夜という長きにわたって降り続けます。世界が再び水浸しになって初めの状態に戻すかのように、これでもかこれでもかと降り続く。当たり前のことですけれども、それは川が決壊し家が水浸しになった後も続くということです。家が飲み込まれ、すべてが水に飲み込まれてしまうのです。そう、まさに、天の巨大なる水の源が張り裂けたと言うほかないほどのすさまじさによって、世界はすべてが水に飲み込まれてしまう。 この時、世界はこうして神に裁かれたのです。水によって世界は滅ぼされたのです。そして、そのことはその当時の人々にだけではなく、この出来事を耳にする者すべてに忘れることのできない衝撃を与える神の裁きなのです。

 神はノアに向かって言われました。

 

「あと七日たつと、わたしは、地の上に四十日四十夜、雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面から消し去る」(4節)

 

 とあります。「消し去る」と新改訳は訳しました。非常に強いことばです。「完全に滅ぼし尽くす」という神の強い決意が、この言葉の中に込められていることが分かります。けれども、この言葉の中に神の悲しみが込められているのです。考えていただきたいのです。自分が一生懸命作ったもので、それも本当に良くできた!と喜んでいたものを捨てなければならない時の痛みを。今日も礼拝の後にバザーがあります。皆さんが、このために本当によく準備してくれています。いつもケーキを作ったり食事を作ってくださる方の苦労は、本当に大変なことだと思います。そうやって一生懸命作ったものに、たとえば虫がついてしまった。あるいは、何か他の理由でだめになってしまって、せっかく作ったものを捨てなければならないとしたら、それがどんなに悲しいことでしょう。そして、もう一度作りなおさなければならないとしたら、その悲しみはどれほどでしょう。私たちが作るものであってもそれほどなのに、ましてや、人間なのです。この世界全てなのです。前回も、少し話しましたけれども、6章の6節に「主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。」とあるとおりです。

 神の裁きというのは、何よりも神ご自身が悲しんでおられる、心を痛めておられるということをわたしたちは知らなければなりません。この神はどこか高い所に坐して、偉そうにアリをひねりつぶすようにして、この洪水による裁きをなさろうというのではないのです。

 神の心は明らかです。裁きたくないのです。滅ぼしたくはないのです。救いたいのです。人を生かしたいのです。ただ生かすというのではなく、神が考えておられるように、生き生きと喜んで生きることができるように生かしたいのです。こそこそせずに生きることができる。後ろめたさなども持たずに生きることができる。そのような人生を、神は人間に与えたいのです。けれども、誰一人としてこの神の心が分からないのです。神が考えておられる生き方よりも、自分で自分の人生を生きた方が幸せだと思い込んでしまっている。そして、人はどんどんと破滅の道を歩んで行っていることにすら気がつかないのです。

 

 宗教改革者カルヴァンは言いました。「われわれは本来、日々ノアの洪水によって神の前に滅ぼされるべきものだ」と。これはむかしむかしのお話ではありません。今わたしたちがよく聞かなければならない物語なのです。今もわたしたちは、この時の人たちと全く何も違わない生活を送っているのです。神がご覧になって、わたしの生活は大丈夫ですと胸を張って生きることなどできないのです。 これがノアの洪水の中心にある問題です。これはわたしのこと。わたしのことがここに書かれている。カルヴァンの言うごとく、「われわれこそが、日々、このノアの洪水によって神の前に滅ぼされなければならない者」なのです。

 

 「神の前に」という言葉は、カルヴァンがとても大切にした言葉でした。神が見ておられるということです。カルヴァンは、「神だけが人の生き方が正しいかどうかを評価できる唯一の審判者である」とこのところで言いました。そして、その神はその目でノアをご覧になります。

 

主はノアに仰せられた。「あなたとあなたの全家族とは、箱舟にはいりなさい。あなたがこの時代にあって、わたしの前に正しいのを、わたしが見たからである。」(1節)

 

 ここに、神がノアを「見た」と書かれています。そしてノアは神の前に正しいと見られたのです。人間の生き方を評価することのできるただ一人のお方から見て、「正しい」と見られる生き方とはどのように生きることなのでしょうか。神が正しいと見る、これが宗教改革者たちが語った、義と認めるという義認の教理です。神はノアを義と認められたのです。ドイツの旧約学者はこの「見た」という言葉を、「神は将来において見ている」ということと理解しました。この言葉は、サムエル記第一の16章1節で同じような使い方がされていると言います。ここには、イスラエルに最初に建てられた王サウルが神から離れてしまって、そのことを悲しんでいる預言者サムエルに対して神が、ダビデをサウルに代わって王として任命する時のことが記されています。お読みいたします。

 

 主はサムエルに仰せられた。「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイエスらエルの王位から退けている。角に油を満たして行け。あなたをベツレヘム人エッサイのところへ遣わす。わたしは彼の息子たちの中に、わたしのために、王を見つけたから。」(第一サムエル記16章1節)

 

 ここで最後に「見つけた」となっている言葉と同じ言葉が、このノアのところに使われていると言うのです。ここには「将来を見据えている」という意味があります。また、同時に「発見した」という意味も込められています。

 神はノアを発見します。そしてこの男は、これから新しい将来を託すことができる人物だと見られた。これは、ノアのこれまでの歩みを見て、正しい、あなたは義人だと宣言しているのではないということです。そうではなくて、神はノアの将来を見ておられるのです。神が義と認めるというのはそのような意味があると言うのです。

 ノアは完全な人間で、行いが正しかったから神が義と認められたということではなかったのです。それは、この後続いて読んでいけば分かりますけれども、ノアは完全な人間ではありませんでした。失敗しているのです。けれども、そのような不完全さを持つノアであっても、神はこのノアの将来に希望を持ったのです。そしてここにわたしたちの慰めがあるのです。

 神はわたしたちの過去のことに、目を留めておられるのではないのです。そうではなくて、わたしたちの将来を見ていてくださる。ここに神の救いの意味があるのです。神が私たちを救われるのは、私たちの将来を義としてくださるということです。

 

 先日もある方と洗礼準備会をしておりまして、その方が質問をされました。それは、「自分が洗礼を受けたとしても、自分の歩みは、その後も罪を犯してしまうかもしれないので心配だ」というような内容でした。おそらく、この質問は誰もが一度は心配になったことなのだろうと思います。ノアのように立派に生きることができるだろうか、いや、主イエスのように完全に生きることなどできないではないか、という心配です。その方は続けて言われました。「けれども、だからと言って、自分はできないからと開き直ることもできないのではないか?」と。

 私は、これは信仰の急所を捕えた質問だと思います。私たちは誰もがそこで悩むのではないでしょうか。神が罪を許して下さるからと、それに甘んじてしまうことが許されるのかという問いです。

 

 神は私たちの将来をご覧になって義と認めてくださる。言い換えれば、キリストのゆえに義と認められると言うことです。そして聖書では、やがて私たちは、このキリストの義そのものにしていただくことができるのです。

 そのことを、ヨハネの手紙第一ではこのように言い表しています。

 

 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似たものとなることが分かっています。なぜならそのとき、わたしたちはキリストのありのままの姿を見るからです。(Ⅰヨハネ3章2節)

 

 私たちはすでに神の子どもとされているのですから、将来私たちはキリストに似たものになると言うのです。すでに義と認められているけれども、それは将来そのようになる。このことを、教会は「すでにと、未だ」という言葉で言い表してきました。私たちは「すでに義と認められている」、「すでに神の子とされている」けれども「未だ、そうなりきってはいない」のです。今、私たちはこの「すでに」と「未だ」の間に生きているのです。けれどもわたしたちは、「そうされている者」として相応しく生きる。その私たちの将来は、神が一緒に生きてくださるがゆえに支えられるのです。

 信仰をもって歩んでいるはずなのに、罪を犯すことがあります。そうすると心の中に責めを感じます。ひょっとすると、クリスチャンになってからの方がそのような罪悪感は大きくて、昔はそんなことを思いもしなかったという人には、それは非常に厳しいことのように感じるかもしれません。けれども、そのように罪を感じるがゆえに、私たちは悔い改めて生きることができるようになるのです。神の目にかなった生き方をすることができるようになるのです。

 神と共に歩むということは、そういうことです。神の目の前に生きるということは、神と共に生き、罪を感じたら悔い改めて生きるということです。そのように生きるときに、私たちの将来はこの主によって確かなのです。主が私たちを信じてくださり、それだけでなく、キリストのように生きることができるようにと聖霊を与え、私たちを日々造り変えてくださるのです。

 

 ですから、私たちはこのノアのように神と共に生きる、神の前に生きるということを、神の前に選び取らなければならないのです。

 

 今日の聖書の個所は16節までですけれども、ノアは動物をそれぞれ箱舟に入れたところが書かれています。2節では清い動物は七つがいずつ入れるようにとあって、9節では「雄と雌二匹ずつが箱舟の中のノアのところにはいって来た」とありまして、七つがいなのか、二つがいなのか、ちょっとはっきりしないのですけれども、ともかく、全てが箱舟の中に入れられたときに、「主が、彼のうしろの戸を閉ざされた」と16節に記されています。この何でもないような書き方の中に、神の決意が込められているのを読み取ることができます。神が戸を閉めたのです。神が閉めたということは、その後はどうあがこうとも開けることはできないということです。

 

 新約聖書でも、主イエスが話された譬え話の中に、これとよく似た話があります。先ほど司式者が読まれたルカの福音書13章22節以下にあります。

  主イエスが町々村々を教えながら通り、エルサレムへの旅を続けておられた時、「主よ救われる者は少ないのですか」と尋ねた人があったのです。

 すると、主イエスは応えて言われました。「努力して、狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから」と24節で言われました。「はいれるときに、はいらなければならないのだ」と言われたのです。この新改訳の「努力して」という翻訳は、ルターが聞いたら怒り出しそうな翻訳ですけれども、原文にそのように書かれているわけです。それで、新共同訳などは「狭い戸口から入るように努めなさい」と少し言葉を柔らかくしております。いずれにしても、扉が開かれている間に、それがたとえ狭い門であったにせよ、その間に決断しなければならないことに変わりはありません。

 

 最初に言いましたけれども、私たちの神は、私たちが神の願ったように生きることを願っていてくださるお方です。私たちが救われることを願っていてくださる方です。しかし、この世界はノアの時代と全く変わらない時代、ノアの洪水によって日々滅ぼされても仕方がない時代です。だからこそ私たちは、この私たちに将来を与えてくださる神を信じて、神と共に歩む決断をするよう招かれているのです。そして、私たちが神と共に生きることを決断する時、神は私たちに将来を与えてくださるのです。

 ああ、遅かったということがないように、私たちは日ごとに神と共に生き、日ごとに悔い改めがら神と生きることを決断するのです。その時に、実際に幸いな人生を与えられることを知るようになるでしょう。神は、そのように私たちが滅びることなく、平安を持って生きることを願っていてくださる方なのですから。

 お祈りをいたします。

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