2009 年 7 月 12 日

・説教 「ノアの箱舟1 神との契約」 創世記6章1-22節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 11:47

鴨下直樹

 この朝の説教の題を「ノアの箱舟1 神との契約」としました。今日は1ということですから、続きがあるということです。礼拝の予定表に4まで書いてあることは、すでにみなさんお気づきのことと思います。説教の題をその1とか、その2というふうにやるのはあまり綺麗な題とは言えないかもしれません。

 先月の終わりになりますけれども、御代田で私たちの団体の牧師たちの研修会が行われました。夜の学びの時間が終わりまして、近くにいた先生たちと集まって色々な話をしました。そのなかで説教題をどうつけるかという話になりました。芥見教会の前任の後藤喜良牧師は、あまり題を考えないで、昔、ヨブ記を説教したときは4年かけて説教したので「ヨブの信仰 その170」というふうになったと言っておられました。東海教会の小林先生は、やはりよく題を考えるのだそうで、「今日の説教はどんなことを話すのだろう」と思うような題を心がけているとのことでした。私も以前はずいぶんと説教の題に凝ったこともありますが、残念ながら一か月前に、一月分の説教題を決めなければなりませんので、今はあまり考える時間がありません。それで、今回は前任の後藤先生にならってみたというわけです。

 

 そういうわけで、このノアの箱舟の物語を四回に分けて説教しようと決めたわけですけれども、これには随分と悩みました。もちろん、もっと細かく丁寧に学ぶことができるからです。とくに、今日の個所は1節から8節で一度話が切れています。切れているというよりも、内容が大きく変わるのです。ですから、従来の分け方でいえば、ここは二度に分けて語るのが相応しいと思いますけれども、今日はこの1節から8節と9節以下とを一緒に読み進めて行きたいと思っています。

 

 今、私はこの6章の1-8節は、続く9節からとは内容が大きく異なると言いました。最近ではこの創世記は、4つの異なる資料から今の形に編集されているとほとんどの学者たちは考えています。そして、このところは、学者たちが言うにはそれぞれ資料が異なるというのです。それはそうなのですけれども、良く読んでみますと、そうであってもこの最初の部分というのはノアの箱舟の物語の序章といいますか、そのための導入のような役割を果たしていることは事実ですから、今日は、一緒にここから御言葉を聞いていこうと思っているのです。

 それで、この最初の部分に書かれている事はどういうことかと言いますと、「人間の罪はますます増大した」ということです。1-4節のところに、二つの不思議なことがいくつか書かれています。

 その一つは、「神の子らが、人の娘を妻とした」ということです。もう一つは「ネフィリム」と呼ばれていた巨人がいたということです。

 

ここのところは、創世記の中でもさまざまに解釈されるところです。たとえば、2節にある「神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て」とされていることろを、「天使たちは」と訳している聖書もあります。それほど、ここの「神の子」という言葉は、唐突に出てきているのです。もちろん、これは「天使たち」のことではないでしょう。新約聖書マタイの福音書22章30節には「天使はめとることも、とつぐこともない」とありますから、そう考えることが難しいのです。そうとするとこの「神の子」というのは、「アダムの子であるセツの子孫」ということになります。では、「人の娘」というのは誰のことを指すかということになるわけですが、一般的に考えれば「カインの子孫」ということになるでしょう。5章に出てくる系図の民、神と共に歩むようになった民と、4章にある力や権力によって文化を作り上げたカインの子供たちとが、ここで一つとなったということなのです。

 そこで問題となるのは、ここで神の子たちと呼ばれたセツの子孫が、どうして、人の娘と呼ばれているカインの子孫の娘たちを妻としたかということです。信仰あるものが、信仰のない者と結婚をしたということをここで言おうとしているのでしょうか。私が神学生の時に、説教を教えてくださった河野勇一先生という緑バプテスト教会の牧師が、この創世記から説教されたものをくださいました。この牧師はここでこんなことを言いました。ここからクリスチャンはクリスチャンでない人と結婚してはいけないなどと解釈してはならない。ここにはもっと深刻な問題が書かれていると言うのです。

 ここには、このように書かれています。

 

「神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きなものを選んで、自分たちの妻とした」(2節)

 

 「美しいのを見て、その中から好きなものを選ぶ」などというのは、なんでもない事のように思うかもしれません。ごく当たり前のことです。けれどもこの牧師は言うのです。「ここで問題になっているのは、結婚をするときに何を基準に相手を選んだかということだ」と。結婚というのは人生で二番目に大きな決断の時だとこの牧師は言います。一番大事な決断は「信仰をもつ」、「神を信じるという決断をすること」です。これは神との契約です。そして、結婚するときにも誓約をします。「病める時も、健やかなるときも、富む時も、貧しい時も、一生この人とともに歩む」という誓約をする。ここで神の子どもたちは、神と共に生きるという誓約をし、また、今、妻を迎えることに、神と共に歩むことができるかどうかを祈って決断する必要がある。神と共にあって生涯を共に歩むものを決断するべきなのに、「美しいから」ということが、決断の基準になってしまっているのではないかとこの牧師は注意を投げかけているのです。

 こういう結婚は、それこそ現代の当たり前の姿になっています。けれども、これが問題であることを、それがさらに罪を拡大することをこの創世記は6章で描いているのです。この6章の前半に描かれている問題は、神と共に生きる、妻も共に神と共に生きるということを人間が考えなくなった。そのような人生の本質的な問題を、ただの自分の好みの問題に変えてしまった罪を描き出しているのです。

 人間は、この自分の人生に本質的なこと、大事なことは常に契約をもってします。洗礼もしかり、結婚もしかり、就職するときもしかりです。ところが、そのような大事な事柄が単なる好みの問題になってしまう。自分の好き嫌いで判断できることだと、自分の人生を軽く見てしまっているのです。人間の犯す罪はもはや際限がなくなっているのです。ですから、ここで限界を超えようとする人間に対して、神は制限を設けられた。それが、「人の齢は、百二十年にしよう」という神の言葉の中に現れているのです。

 

 では、このネフィリムと呼ばれている巨人のことはどうかということですけれども、これが巨人であることは民数記13章33節に出てきます。これは、イスラエルの人々がエジプトで奴隷をしていた時に、エジプトから出て、神からの約束の地であるカナンに入ろうとしている時、モーセは若いヨシュアとカレブに命じて、先にこの土地について調べさせます。そのときに、カナンの土地が裕福なのを見てこの二人は行きましょうというのですが、ほかの人々は言います。「私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには、自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう」と言っています。自分たちがいなごほどに小さな存在と感じるほど、このネフィリムは大きかったというのです。

 ここで新改訳は「彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた」という翻訳をしています。これはカトリックのバルバロ訳もそのように理解していますけれども、もう一つの翻訳はこうなっています。4節「当時もその後も、地上にはネフィリムがいた。これは、神の子らが人の娘たちのところに入って産ませた者であり、大昔の名高い英雄たちであった」。

 今お読みしましたのは新共同訳ですけれども、このように神の子らが産んだ子供がネフィリムであったというのが、そのほか口語訳ですとか岩波の新しい月本訳ではそのように訳しています。

 これは神の子どもたちが、美しい者に心ひかれ、神を軽んじて自分たちに与えられている限界を超えようする行為が、ネフィリムなどと呼ばれる巨人を生み出したのだということを意味します。けれども神はこのように、人間がどのように神が設けた限界を破ろうとも、そのような努力は結局神によって滅ぼされる事になるということがここで語られているのです。それが、この後につづくノアの物語へと続く導入になっていくのです。

 

 こうして、神はついに語り始めます。

 

 主は、地上に悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして、主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥にいたるまで、わたしは、これらを造ったことを、残念に思うからだ」(5-7節)

  ここで人の心が語られています。「その心に計ることは、いつも悪いことだけに傾く」のです。私たちの心はいつも悪いことに傾いてしまう。この心というのは思いだけではありません。この言葉は感情だけではありません。その知恵も、また自らの意思をも含まれた言葉です。もはやすべてが、すべての人間が、すべての自然が、すべての被造物が、その悪に支配されもがいているのです。そしてそれと同時に、神の心までもが悲しみに支配されてしまうのです。

  ここに、神がどれほど人間を愛しておられるかが分かります。何の関心ももはや示さなければ、それは「ほうっておく」ということになるでしょう。しかし神はそうはなさりません。それは、それほどまでに私たちのことを愛しておられ、ご自分の心を痛められたくらい愛してくださっているのです。

 そして、この8節に短くこう記されています。

 

「しかし、ノアは主の心にかなっていた」

 

 このノアだけが、主の心にかなう生き方をしていたのです。こういうことができるかもしれません。「今や、この腐敗した世界はノアのゆえに保たれる」と。

 

 そうして、神の壮大なる救いの計画が開始されます。そうです。これは神の救いの物語なのであって、滅びの物語、裁きの物語ではありません。たしかに神は、世界を滅ぼす計画をお立てになりました。しかしそれは、世界を完全に滅ぼすものではありません。世界をもう一度再創造するための裁きです。そのために、神はこのノアにすべてを託されたのです。このノアがどのような人物であったのか、それが9節に短く三つの言葉で記されています。それが「正しい人」、「全き人」、そして「神とともに歩んだ」という言葉です。

この「正しい人」という言葉は、「義人」とも訳される言葉で、法的に正しい道徳的に正しいという意味があり、さらに、神との関係においても正しいということがこの言葉で表わされています。また、「全き人」というのは「非の打ちどころがない完全さ」をあらわす言葉です。ですからこの言葉は旧約聖書の中で、神に犠牲を捧げるときに、傷のない清い動物を捧げるときにこの言葉が使われました。つまり「聖い」ということを表しているのです。そして「神と共に歩む」という言葉は、ここで反対の言葉を使っているところから、その意味をよく読みとることができます。11節に「地は暴虐で満ちていた」とあり、神と共に生きていないことを、「地」で生きているという言葉で表しているのです。この言葉はここで何度も使われています。ということは、「神と共に歩む」ということは、あたかも「天」で生きているかのごとくだということです。これからの言葉は旧約聖書だけでなく、聖書全体が常に大事に語り続けていることです。そうです。ここに聖書が示す、まことの人間の生き方が語られているのです。

 このようにノアは、神がこの世界を裁かれる世界の終わりの時に、神の目にかなう生き方を生きた人物だったのです。それゆえに、神はこのノアに契約をお与えになられました。

 この時神がノアに語りかけられた言葉が、13節から21節にわたって記されています。もう時間がありませんのでお読みすることはできませんけれども、神は箱舟をこのような大きさで造りなさいということ、そして、すべての命あるものを滅ぼすこと、そして、ノアの家族と、各種類の鳥、動物、地をはうものを二匹づつ生き残らせるために箱舟に入れるようにと語られました。

 私は今、この個所を読むこともしませんでしたから、言葉で説明すればわずか三・四行で説明できてしまうことですけれども、それを22節にこう記しています。

 

「ノアは、すべて神が命じられたとおりに、そのように行った」。

 

 なんでもないことのように書かれていますけれども、これをすべてそのように行うことは簡単なことではありません。第一、箱舟を造るのにノアとわずか三人の息子たちです。もしそれぞれの妻が手伝ったとしても合わせて八人でこれを造り上げるのに、どれほどの時間を費やしたことか。あるいは、動物を二頭づつ箱舟に入れることにしてもそうです。動物をどこからどう探して来たのか、餌はどうしたのか、場所はどうかなどということは書かれておりませんけれども、実に大変なことだったことは想像するに難しくないことです。

 「すべて神が命じられた通りに行った。」というこの実に簡単な言葉は、実に行うことの難しいことでしょう。

 今日の説教題は、「神の契約」という題をつけました。しかしよく考えてみると、ここには契約といえるようなものはありません。契約というのはたいていの場合、お互いが何かを提供し合うものです。お互いが誓い合うものです。けれどもここで神がノアに与えている契約は、ただ一方的に神が命じられているだけです。

 そうです。「神の命令」とはそのまま、即救いなのです。ある聖書学者は「神は命じることによって救済する」と言いました。神が語られることは、それはそのままその人を救うことなのです。そしてそれには、本来ただ従順のみで応えられるものなのです。

 そもそも、私たちは神と契約を結べるほど対等に何かを差し出すことなどできないでしょう。けれども、ここで神はそのことを承知の上で、「あなたと契約を結ぼう」と語りかけてくださるのです。それは、あなたがこれに従うなら、救いを与えようという招きでしょう。

 考えてみれば面白いものです。救っていただかなくてはならないのは私たちのほうであるのに、神は私たちに契約と言われるのです。それは一体どういうことでしょう。「契約」というのですから、神の側でこの約束は破らないという、

つまり、神が確実に救ってくださるということを、私たちが信じることができるために、そのように語りかけてくださっているということなのです。

  ここに、神がどれほど私たち人間のことを愛しておられるかが分かります。人間が神から離れ、それゆえに自ら悪を招いてしまっている人間に対して、神は私たちに心を痛めておられる。そればかりか、そのような私たち人間を救いたい、新しく始めてやりたいとお考えになって、そのことが信じられないといけないから、わざわざ契約などと言って私たちを救うための道を示してくださるというのですから。

 だとしたら、やはり従うしかないのです。そうです。神に従うということは、難しいことでもなんでもないはずなのです。難しいことだと思ってしまうのは、この神の心がわからないからです。自分はこれほど大変だからと、自分に心が向いてしまっているから、この神の心がわからなくなってしまうのです。けれども、神がどれほど私たちのことを気にかけ、愛してくださっているかさえ分かるなら、私たちはこの神に従うことができるようになるのです。

 それが神の契約です。先ほど、私たちには人生で二度大事契約を結ぶと言いました。約束事を誓うという話をしました。それが、この神を信じるという契約です。そしてもう一つは、結婚の誓約です。そうです。もし、私たちがこの神の愛が分かるならば、神は私たちをその愛の中に置き、私たちを守ると神の方が約束してくださるのですから、私たちは喜んでこの神の救いに対して、はい信じます。私をお救いくださいと約束することができるようになります。神は約束を反故になさるような方ではないのですから。そして、神が守ってくださる約束をしてくださるという、確かさを知っているからこそ、私たちは結婚をするときに心から互いを信じて誓うことができるようになるのです。それは、決して相手が美しいから、自分の好みに合うからというような私たちの感覚的なものではないのです。

 

 そうであるなら、私たちもノアのように「正しい者」として生き、「聖い者」として生き、「神と共に歩む」こともまた同じです。神がそのためにすべてを備えてくださるのですから、できるようになるのです。神が、そのように支えてくださるからです。そのように信じて歩むときに、私たちの人生はノアのごとく、慰めのある人生を全うすることができるのです。

 お祈りをいいたします。

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