2014 年 9 月 7 日

・説教 ヨハネの福音書6章32-40節 「わたしはいのちのパンです」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:20

2014.9.7

鴨下 直樹

今日はまた、先週に引き続いて32節からのみ言葉を聞きました。もうすでに先週32節から35節までを読みましたので、重なる部分についてはそれほど詳しい説明は必要ないと思いますけれども、どうしてもここに書かれた内容を考えますと32節からもう一度読む必要があると思っています。先月からヨハネの福音書の6章をずっと読み続けています。この6章の中心的なテーマはパンです。五つのパンと二匹の魚から大勢の人々がお腹一杯に食べ、なお余ったものを集めると十二の籠に一杯になったという出来事が記されています。また、モーセの時に天から降って来たマナのこともここで語られています。そして、ついに、今日のところでは、わたしが、神のパンそのものなのだと主イエスはここで宣言なさいました。このところから説教をする間、ずっと語ってきていることです。そして、今日の説教の中心的な部分でもありますけれども、主イエスは、「わたしはいのちのパンです」と自らのことを語られたのです。
はじめて外国語を勉強し始めた人のカタコトの外国語ならまだ何か理解できそうな気もします。私の妻は、自己紹介するときに、英語ですと、アイアム愛と言います。そうすると、どこかからくすっと笑い声が起こります。ドイツ語でもそうです。イッヒビンアイと言うのですが、ドイツ語でアイというのはタマゴのことですから、ここでもびっくりする人があります。アイアムパン、もちろん、ギリシャ語ではそう書かれているわけではありませんけれども、そう言われて、そこに何か特別な言葉の響きを感じなかったとしても、しかたがないかという気持ちにさえなります。

この「わたしは何々です」は、ギリシャ語で「エゴー・エイミー」と言います。すでに、20節に書かれている「わたしだ」と言う言葉がこの「エゴー・エイミー」という言葉だとすでに説明いたしました。そして、今日のところは、その「エゴー・エイミー」、「わたしが何々である」の何々のところに、「いのちのパン」という言葉が入ります。「わたしがいのちのパンである」という主イエスの自己紹介の言葉です。このヨハネの福音書の中には7つこういう表現が出てきます。「私は羊の門です」「私は良い羊飼いです」、「私が道です」このあとに続く主イエスの自己紹介の最初の言葉がここに出てきているのです。

「わたしがいのちのパンです。」主イエスはここで自らを、ご自分が人のいのちを支えるパンとなるのだと、ご自分のことを言い表されました。昨日もぶどうの木の句会がありました。指導してくださっている恵美子さんがこんな俳句を出されました。俳句の前に、紹介の言葉があるのですが、「慈乃ちゃんの言葉即ち句に成りて」 とありまして

ネクタイを締めれば牧師涼新た

という句です。先日、説教で少し話しましたけれども、うちの二歳半の娘は、私が日曜日にネクタイを締めますと、「お父さん、今日は牧師さんになったねー」と言うのです。それを恵美子さんが俳句にしてくださったのですが、私は親ばかでして、この句を昨日のぶどうの木句会の時に「特選」で選びました。それは、少し説明がいるかもしれませんが、自分が一番いい俳句だと思った句をいくつか選ぶのですが、その中でもっとも良いと思った俳句を「特選」として選ぶのです。しかし、よく考えますと、最後の「涼新た」というのは「いつも涼しげな牧師が、さらに涼しげになった」という意味ですから、本当ですと自分で自分のことを句にしたものを選ぶべきではないのでしょう。けれども、私としては娘の何気ない礼拝前の言葉が、こんな面白い俳句になるのだから、これは良いと思いました、迷うことなく特選に選ばせていただきました。
ふつう、自分のことを、私は涼しげな人間ですよとは言いません。まして、自分は人を支えることができる立派な人間ですよ、などというようなことは申しません。けれども、主イエスだけは別です。お前だって親ばかでやっているではないかと言われると、返す言葉も無くなるのですけれども。
主イエスは、ここで「エゴー・エイミー・いのちのパン」とおっしゃいました。私は、かつてモーセにあらわれて自己紹介をしたあの神なのだと、ここでご自分を明らかにしておられ、さらに、そのわたしはあなたのいのちを支える、無くてはならない糧そのものなのだと言われるのです。「あなたがたは、毎日、食べる者に困らないで生きていかれるようになることを願っているのでしょう。けれども、もし、そうであるならば、食べてもすぐ無くなってしまうパンを求めるのではなくて、あなたのいのちそのものを支えるために必要なパンは、わたしだから、わたしを信じなさい」と、主イエスはここで人々にご自分のことを紹介なさったのです。

そして、その35節で続いてこう言われました。

イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

主イエスはご自分がパンであるから飢えることがないと言われただけではなくて、渇くこともないと言われました。
今日、この後で聖餐を行います。私たちは聖餐の時に、これは「あなたがたのために裂かれたパンです」と言って、私たちは聖餐のパンをいただきます。私たちは小さなパン切れを口にしながら、このパンは、主イエスの体で、この体が私たちのいのちとなっていることを覚えます。そして、盃をも同じようにして、これは、私たちのために流されたキリストの血潮ですと言って、これをいただいています。この葡萄液を飲む時に、私たちはこれを通して、私たちはこのキリストの血潮によって、もはや渇きを覚える必要のないことを、本当に、私たちのいのちは主イエスによって支えられているのだということを、覚えるのです。こうして、教会では「わたしはいのちのパンである」と言われる主イエスの言葉をそのまま、聖餐においてそのことが示されていると受け入れているのです。

今日の箇所の37節のところでこう言っています。

父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。

特に、最後のところで「わたしは決して捨てません」と強調されています。あの、五つのパンと二匹の魚の出来事が起きたとき、余ったパンを主イエスは集められました。12節には

「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」

と書かれていました。とても細かいことがここには書かれているのです。もう大勢の人がお腹いっぱいに食べたのです。目的は達成されたとすると、余ったパン切れがどうなったのかということに、あまり人は関心を払うことはないようなところで、聖書は実に、その余りのパン切れの結末にまで目を留めているのです。しかも、それにはちゃんと理由があるのです。「そのようなパン切れ、パンくず」と呼ばれるようなものにさえ、主イエスはちゃんと目を向けておられるということなのです。それは、この37節で言おうとしていることと深く結びついています。「わたしのところに来たものを、わたしは決して捨てない」のです。主イエスのものとなったものを、主イエスはそれがどんな小さなものであったとしても、もう役割を終えたと思えるようなものであったとしても、主はそれをご自分のものとして守られるのです。
というのは、このあとの39節でも

わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。

と書かれています。ここでも、「ひとりも失わない」ということが強調されています。
この39節の「失われる」と言う言葉は、ギリシャ語で「アポリューミ」という言葉です。この言葉は聖書の中のいろいろなところで使われる言葉でもあります。それは、たとえばルカの福音書の15章に何度も出てきている特徴的な言葉です。
みなさんの中にサッカーに興味のある方もない方もあると思いますけれども、日本に香川という日本代表チームの攻撃の中心的な選手がいます。この夏までイギリスの非常に強いチームにいたのですけれども、あまり活躍できませんでした。それで、この秋から、ドイツのドルトモントというチームに戻ることになりました。戻ると言いますのは、実はこのチームで香川選手は過去に大活躍しまして、このチームで二度優勝しています。それで、この香川選手が戻ってくるときに、ドイツのある新聞で「放蕩息子が帰って来た」と掲載されたのだそうです。インターネットのニュースというのは面白いもので、普段聞きなれない言葉が出てきますと、その言葉をみんなが検索します。それで、「放蕩息子」という言葉の引用が日本人にはなじみがないので、このニュースに脚注がつきまして、「新約聖書ルカの福音書の15章にでてくる」というような説明書きが書かれていました。
この「放蕩息子」というのは、ドイツ語の影響もありますけれども、最近では「失われた息子」と言うようになってきております。ドイツでは「失われた息子」というのが一般的なのです。その息子につけられている「失われた」という言葉が、このギリシャ語「アポリューミ」という言葉なのです。そのほかにも、このルカの福音書の15章に出てくる百匹の羊の中から「迷い出た」羊にも、この「アポリューミ」という言葉が使われています。この言葉は、物事に使われる時には、「いなくなってしまう、失われるという意味で使いますけれども、人間に使う時には「滅びる」とか「死ぬ」という意味が含まれます。
ですから、あの放蕩息子も、失われた羊も、そこで書かれている「アポリューミ」という言葉の意味は、「今、大変な状態にある」というようなニュアンスで受け取られがちなのですけれども、そうではなくて、「絶体絶命の状況にある」、「滅びそうな状況にある」というような意味の言葉と理解して下さるといいと思います。というのは、聖書では、このアポリューミという言葉は一般には「滅び」という意味で使われるからです。そうしますと、この言葉の持つ意味がお分かりいただけるのではないかと思います。

そして、この「アポリューミ」という言葉、この39節の「失うことなく」という言葉ですけれども、「失う」の反対語として書かれているのが40節の「永遠のいのちを持つ」という言葉なのです。

事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」

ここに、いのちのパンをいただく、聖餐をいただく、主イエスを信じるということは、私たちを滅びから、絶体絶命の恐怖から救い出させ、そのいのちが支えられ、終わりの日によみがえらされるのだということが宣言されているのです。

主イエスを信じる。それは、たとえ、パンくずのような、もう役割も終え、人をお腹いっぱいにもできそうにない者でさえ、そのものを主イエスは拾い集め、かき集めて、ご自分のものとしてくださるだけではないのです。主はご自分の者としたその人を確実に捨て去ることをしないで、それと同時に、その人を終わりの日、その人の人生の終わりの時、死を迎えたときであっても、その人は永遠のいのちが与えられているのだから、その時、よみがえらされるのだと語っているのです。いのちのパンをいただくということは、そのような、確かな、いのちの中に入れられるということでもあるのです。それが、主イエスを信じるということによってもたらされるもの、救いなのです。
このお方の救いによって、私たちは、いつか訪れる死をも、平安を持って受け入れることができるようになるのです。そして、そればかりか、死に支配されたいのちであっても、その生活は神の御手の中に守られたいのちなのだという、実際的な平安を覚えることができるということなのです。それが、「わたしはいのちのパンです」と言われる主イエスを信じるということ、「決してあなたを捨てない」と言われる主のみこころなのです。

主イエスを信じる。そこには実にさまざまな私たちの生活の支えを得るということです。この後、行われる聖餐のパンをいただくときに、私たちはこのことをもう一度考えていただきたいのです。自分のいのちは、この主イエスによってどのように支えられているのか。それは、決して小さなことではありません。まさに、わたしたちのいのちがそのまままるごと、救われるということなのです。
お祈りをいたします。

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