2014 年 9 月 14 日

・説教 ヨハネの福音書6章41-51節 「天から下って来た生けるパン」

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2014.9.14

鴨下 直樹

さて、この朝も、パンの話が続きます。ガリラヤ湖の対岸に行ってからというもの、それまで、群集と呼ばれていた主イエスを追いかけて来た人々との長い対話が続いています。そして、お気づきになった方があるかどうか分かりませんが、それまで「群集」と書かれていた、主イエスを追いかけてきてパンを求めて来た人々は、ここで「ユダヤ人」と突然書き方が変わっています。「ユダヤ人」と書くことによって、ここでの長い主イエスとの対話が、だんだんと敵対関係になっていく様子が描かれています。

そのきっかけとなった言葉は今日の最初の41節の「わたしは天から下って来たパンである。」という主イエスの言葉から始まります。ここから、群集たち、ユダヤ人との会話の雲行きが怪しくなってくるのです。それまでは、言ってみれば主イエスのファンクラブでもあったかのように、人々は、なぜ我々を置いて行ってしまったのだとは言うものの、主イエスに対する期待に満ちておりました。興奮していたのです。けれども、この長い会話の中で、主イエスはご自分が「いのちのパン」だとおっしゃいました。そして、わたしを信じるということが、本当のいのちを得ること、生活を救うことになるのだと語られたのです。そして、主イエスの話は、今日のところで、さらに展開して、「わたしは天から下って来たパンです」と言われます。

ずっと話を聞いてきている私たちからすれば、どこから雲行きがあやしくなったのかさっぱり分かりません。主イエスは最初からずっと同じことを言っておられるように感じるからです。けれども、よくよく注意して聞いてみると、40節までで、主イエスはご自分のことをパンと言われた後で、わたしを信じることが父のみこころで、そうすることによって永遠のいのちを得ることになるとおっしゃいました。そして、改めて、今度は「いのちのパン」という表現からさらに一歩進んで、「わたしは天から下って来たパンです」と言われたのです。

ここに来て、主イエスが言っておられる「わたしの父」が、天の父なる神であったのだということがいよいよ明確になったのです。そうすると、群集であったユダヤ人たちは主イエスに対して「つぶやいた」のでした。

とても小さな言葉ですけれども、ヨハネはこの「つぶやく」という言葉をある意図をもって使っています。というのは、ユダヤ人たちの歴史というのは、神に呟き続けた歴史だったからです。新共同訳聖書では、この言葉は「不平を言った」となっていますけれども、これは、「ぶつぶつ言う」というニュアンスの言葉です。この「ぶつぶつ言う」というのは、つぶやいているんですが、相手に聞こえてしまったとしても、相手のことなど気にしていないわけです。自分の心の中にたまりたまった不満を、ぶつぶつ言いながらぶちまけているにすぎないわけです。

先ほど、旧約聖書の出エジプト記の17章を読みました。その3節にこうありました。

民はその所で水に渇いた。それで民はモーセにつぶやいて言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。」

民はエジプトを出てきてから荒野で旅をする中で、渇きのためにつぶやきます。ユダヤ人というのは、ことあるごとにつぶやきます。モーセにつぶやきます。神がイスラエルを導いて下さるということに対する信頼がないのです。神などあてにならないのだと考えているのです。疑っているのです。

というのは、ここで、ユダヤ人たちは言い始めるのです。42節です。

「あれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている、そのイエスではないか。どうしていま彼は『わたしは天から下って来た。』と言うのか。」

主イエスが「私は天から来た、神の子どもである」と言われることに対して信頼ができないのです。なぜなら、イエスは大工のヨセフとマリヤの子ではないか、何をわけのわからないことを言っているのかと、つぶやくのです。ここに不信仰があるのです。

不信仰というのは、主イエスのことを信頼しないということです。自分の生活に起こるさまざまな事柄に心がいっぱいになってしまって、ぶつぶつつぶやいてしまうのです。ユダヤ人にとっての関心は、明日のパンがあるということです。主イエスが与えようとしていてくださる、永遠のいのち、終わりの時に失われることのなく、よみがえるという希望には現実味を感じないのです。そして、自分は天から来たもの、神の御子であるという言葉のほうにひっかかってしまうのです。

長い夏休みの期間を経て、先週よりまたヨハネの黙示録の学びが再開しました。先週学んだところは、ヨハネの黙示録第21章1-8節です。ヨハネの黙示録が語る福音の中心部分です。そこには、「新しい天と新しい地」のことが書かれています。その後、この言葉は「新しいエルサレム」と言い換えられています。私たちが一般にいう天国のことが書かれているのです。聖書は、その天国について、新しい天と新しい地について、そこでは「カイノス」という言葉を使います。一般的に使う「ネオス」、英語でいう「ニュー」という言葉がありますが、この新しさは、新しいものが出ても、すぐに古くなっていくという意味があります。しかし、神が約束してくださる新しい天、新しい地には、この古くなっていくものとは共存できない新しさ、つまり古くなることのない新しさ、完全とか、完成という意味の新しさだという話をいたしました。ですから、私たちはこの新しい天と地には年老いることもないし、病気に悩まされることもないし、悪くなってくというそういう死に支配されることのない世界に招かれることだということを学びました。

このヨハネの福音書で語る「永遠のいのち」というのも、まさに、この新しさ、完成された、完全ないのちに生きるという意味がそこにはあります。この完全な世界、絶対的な救いを目の前にして、ぶつぶつつぶやくのはナンセンスです。そこには、不満など入り込む余地のないほど完成された、絶対的な救いがそこにはあるからです。

ですから、主イエスはここで、「互いにつぶやくのはやめなさい。」と43節で言われるのです。主イエスが与えてくださる救いは、私たちが思い描いているようなものではなかったと失望するようなものではないのです。けれども、このユダヤ人たちに見えているのは、イエスの父はヨセフで、母はマリヤではないか、何が天から下って来たパンなのかとしか、考えることができないのです。

今日は残念ながら聖餐はありませんが、私たちはパンを取って食べるという行為をすることによって、私はこのお方を信じ、そして、このお方をいただくのだということをそこでいつも新たに覚えるのです。そして、このパンを食べることこそが、主イエスを信じることなのだということを、そこで思い起こしているのです。

いつも聖餐の時に、パンとぶどう酒をまわします。まだ、洗礼を受けておられない方はそれを取ることができません。そうすると、そこで何だか居心地の悪さを感じるのかもしれません。小さな子供たちを見ていてもそうです。どうして、こんな小さなパン、どう見ても子供向きのパン切れなのに、これを食べることができないのかと思う。なんだか、仲間外れにされているような気持になります。けれども、だからと言って、私たちはこれをかわいそうだからみなさんどうぞと、配ることはできないのです。

なぜなら、そこに、「わたしはいのちのパンです」と言われる主イエスを信じるということがないと、結局、目の前の小さなパンを与えて、仲間外れにしませんよという雰囲気だけを与えることによって、主イエスがここで本当に与えたいと思っておられるものをないがしろにすることになってしまうからです。

聖餐の時にパンを取るということは、わたしは、主イエスを自分のいのちを支えてくださる方だと信じる。目の前のことにぶつぶつ言うのをやめて、自分のいのちを完全にしてくださる、永遠のいのちを与えてくださる主イエスに身をゆだねることが出来るという信仰に生きていることをそこで覚えているのです。

51節にこう記されています。

わたしは天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」

この主イエスの言葉は明らかに聖餐を意識した言葉になっています。この聖餐のパンを食べるということは、この世の生活の中で、主イエスが肉となってくださる、その生活を支えてくださっているということなのですよと、言っているのです。それは、私たちの生活からつぶやきがなくなりますということでもあるのです。明日のパンがあるかどうか、のどの渇きが潤うのかどうか、明日の生活が支えられているのか、そういう私たちの毎日の生活、わたしたちのいのちそのものが、主イエスを信じるときに、このお方が、私の毎日の歩みの中で、血となり、肉となっているということなのです。

それは、この世界を支配しているすべてのものを古くしていく力、だんだんと衰えていったり、病になったり、壊れていったり、だめになっていくという、この世界に支配している死の力の支配下の中に、私たちはもはや縛られてはいないのだということを知っていくということなのです。

ですから、まだ、主イエスを信じるという決断をしていない方は、ぜひ、この主イエスのパンを受け取っていただきたいのです。主イエスを信じていただきたいのです。そして、私のいのちは、この方によって支えられているのだということを知って欲しいのです。

44節で主イエスはこう言っています

わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。

私たちが主イエスを信じるというのは、主イエスを、お遣わしになられた父なる神が、引き寄せてくださるということなのです。私たちが、クリスチャンホームの家庭に育ったこと、あるいは、クリスチャンの友人が教会に誘ってくれたこと、あるいは何かで興味をもって教会に足を運んだこと、そういうことの一つ一つは、父なる神が引き寄せられたということなのです。

そして、45節では

父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。

とあります。この「学んだ者」という言葉は、「訓練された者」というのがもともとの言葉の意味です。実は、この「学ぶ」という言葉から「弟子」、「ディサイプル」という言葉が生まれたのです。ディサイプルというのは、訓練されるということです。神に引き寄せられて、そこで、訓練されるんです。毎日の生活が、父なる神によって整えられていくのです。ぶつぶつつぶやいていた生活が、父のもとで訓練を受けることによって躾けられて、弟子となっていくのです。そして、生きるということを体で覚えていくのです。それが、学ぶということなのです。

ぶつぶつ言いたくなる生活をしていたものが、父なる神に引き寄せられて、学んでいるうちに、天国での生き方、永遠のいのちをいただいて、いのちが支えられる生活がどういうものなのかを体験的に知っていくようになるのです。そうして、「まことに、まことに、アーメン、アーメン、あなたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます」と言われる主のお言葉に、そうです、それこそがアーメンです。そこに真実がありますと告白することができるようになるのです。

昨日、籠原さんのご主人の記念会が行われました。そこで、短く聖書を読みました。式文に書かれている聖書を読んだのです。一つのみ言葉は、先ほどお話しした、ヨハネの黙示録第21章です。そして、そこにもう一つのみ言葉が書かれています。コリント人への手紙第二、5章17節

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

私たちはいのちのパンであるキリストによって、新しく生きる者となることができるのです。そこに、私たちの希望があるのです。記念会でも、そう語りました。祈祷会でもそう語りました。そして、この礼拝でも私は同じことを言う以外にないのです。

主イエスは私たちを完全な新しさによって支配される救いを与えてくださいます。それは、私たちが毎日のぶつぶつ言う生活から解放されて、完全な希望に生き、まさに新しく生きることができるようになるということなのです。すべてが新しくなる。すべてが完成する。もうそこには気に入らないものはないのです。そういう希望を主は私たちにもたらしてくださるのです。

お祈りをしたします。

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