2014 年 9 月 21 日

・説教 ヨハネの福音書6章52-59節 「このパンを食べる者は永遠に生きる」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:21

2014.9.21

鴨下 直樹

先日、祈祷会の時にある方から、ひとつの質問が出されました。「神様が働いておられる教会で、神様に期待することは間違ったことなのか」というのが、その質問の趣旨でした。よくよく話を聞いていると、神様に期待をするというのは、教会の中で誰かに期待をするという意味のようでした。

今、ずっとヨハネの福音書を読み続けております。今日の箇所は、ガリラヤ湖の向こう岸に主イエスが到着されて、それを追いかけて来た群集、ユダヤ人たちとの主イエスとの対話といいましょうか、議論と言ったほうがいいでしょうか、その最後のところです。ここで、群集と描かれてきたユダヤ人たちと主イエスはどこで対話をしていたのかと言いますと、最後の59節で、「これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。」と書かれていて、この議論が安息日に、当時シナゴーグと呼ばれたユダヤ人たちの会堂でなされた議論だったということが分かります。今で言えば教会です。このシナゴーグで人々は、主イエスと対話をいたします。ずっと話していることですけれども、主イエスに期待をしたのです。そして、今日のところで、この対話が終わります。その結果は、来週になるのですが、先に少し話しますと、主イエスの答えはこの会堂に来ていたユダヤ人たちには、納得のいかないもの、気に入らないものでした。

私たちは、実にさまざまな期待を持って教会に集います。神様であればそれは可能なこと、自分としては無理難題を押し付けている気はないのですけれども、その期待通りにならないということがあります。そういうことは、私たちをひどく落胆させます。

特に、その祈祷会で何を期待するのかということで話題にあがったのは、人に期待をするということです。牧師に期待をする、宣教師に、長老、執事、もう教会に長く来ているんだからとか、私たちはそういう誰かを見ながら、もっとこういう風になってくれるといいのにと期待を抱きます。もちろん、悪いことを願っているわけではないし、むしろ、まっとうなことを願っている。そして、それについて、はっきり相手に話したほぅがいいのか、言わないほうがいいのかというようなことも話しました。実に活発な議論になりました。みなさんと、ここでもう一度話し合ってもいいのかもしれません。

「あなたには、こうなってほしい」と誰かから言われる。想像していただくと良いと思いますけれども、それが、とてもまっとうなことであればあるほど、言われた人は腹を立てます。ようするに、あなたはそれが出来ていないと宣言されているようなものだからです。言われる側が自分であると考えると、あまりそういう指摘は受けたくないものです。

けれども、そういう人の欠点に気が付いた側というのは、言いたくて仕方がありません。なぜなら、それは正しいことだからです。もう少し丁寧に言うと、「その人にとって」という言葉をつける必要があるかもしれませんけれども、「自分から見ると、あの人は、もっとこうしたほうが良いと思える」。そう感じる人は、そこに全体的な配慮があるのかもしれませんし、あるいは、自分が昔、そのことで悩んでいたので、その人には教えてあげたほうがいいと思える。そういった、さまざまな理由があります。

今日の聖書は、そういう意味からするととても面白いところです。主イエスを追いかけてきた人々は、安息日に主イエスが会堂に入られたので、そこまでついて行ったのです。そこでは、この時代、安息日には律法が朗読されて、律法学者は集まってきている人々にその解説をしていたようです。そういう場所で、まさに、聖書はどういっているのか、律法にはどう書かれているのかと議論しながら、主イエスと対話を重ねました。テーマは、「あなたはわたしたちの生活の糧となってくれるのか」です。それが、人々の期待でした。「あなたと一緒にいたら、毎日困らないで生きられるのか」、それはこの人々にとって非常に真剣な問いでした。期待だったのです。そして、もう何度も語ってきましたけれども、主イエスの答えと、人々の願いは、どうもかみ合っていなかったのです。人々が語っているパンは、生活の必要のことでした。主イエスが語るパンは、主イエスのからだそのもの、つまり、「わたしを信じるか、受け入れるか」ということでした。

そこで問題になっているのは、自分の求めていることが正しいことなのかということを、どうやって判断するかということです。「あなたはこういう人であるべきだ」という願い。これは、私たちの毎日の生活の中で、常に私たちの心の中にあるものでしょう。妻はこうあるべきだ。夫はこうあるべきだ、子どもはこうするのが普通なのだ。会社で働くということは、人付き合いというのはそもそも、上げればきりがありませんが、私たちは毎日、その人の中にある常識というものと戦いながら生活しています。私たちがそこで経験的に知っているのは、誰もが、自分の中に正しさを持っているということです。

ところが不思議なことに、この正しさという価値基準は、人によって異なります。そうすると、人のすることが気になりはじめます。気になりだすと、ある人はそれについてはっきりさせたいと思う人がいます。その人は、それを相手に伝えます。そして、伝えた途端、どこかで何かが起こります。相手が腹を立てるのか、言ったほうが傷つくのか、まれに、スムーズに受け入れられるということもあるようですけれども、これはほとんど懸けです。

そこで、さらにやっかいになるケースが出てきます。それは、自分の持っている価値判断は、神様も同意していてくださるに違いないと考える人たちがいます。今日の聖書の箇所に出てくる群集もその代表です。神様は、イスラエルを大切にしておられるので、私たちは神様から守られているはずです。今、悪いことにローマに支配されているけれども、これは正しい姿、本来の姿ではないので、神様は、私たちをローマから助け出してくださる救い主を送ってくださるはずです。私たちは、あなたが、そのお方だと思っていますがいかがでしょうか? これが、彼らの考えたプランです。彼らの中では、神様と、聖書が後ろ盾にありますから、ほぼ確信を持っているのです。そのように、私たちが、自分の考えていることは、神様的に見ても間違いないと考え始めますと、自分の意見は、自分のものの考え方が絶対に正しいと考えますから、相手に対して強く、自信を持って自分の意見を主張することができます。そうすると、言われたほうでは、たまったものではないということになります。自分の考えていること、自分の判断は神様を敵に回すほどの間違ったことをしているということになるからです。

けれども、ぜひ知ってください。自分が考えていることが間違っていないと言える人がいるとすれば、それは神様だけです。正しい判断ができるのは、極端な言い方になりますが、神様だけしか、本当に正しいことは言えません。いくらそれが信仰的な判断だと思えたとしても、それは、その人のこれまでの経験とか、これまでの聖書知識とか、これまで見て来たさまざまな結果で、相対的な判断を下しているだけです。そうだとすると、私たちが覚えなければならないのは、自分の意見は一つの考えであって、違う考え方はいくらでもあるということです。そして自分の考えもその中の一つに過ぎないということです。

今日、私はずいぶん丁寧に、これまで何度も話してきたことをもう一度語ろうと思いました。このことが本当に分からないと、人を受け入れるということが難しいと思うからです。ですから、最初に出てきました、誰かに期待をするということも、それは良いことですけれども、あまりにもその思いが強くなりすぎますと、相手を否定することになるということを忘れないでいただきたいと思うのです。なぜ、このことをこんなに丁寧に言うかというと、そういう思いが、主イエスを殺したからです。人のその自分の考えていることは正しいのだという思いが、主イエスを十字架にかけたのです。そして、そのことが、ヨハネの福音書では、ここのところからいよいよはっきりしてきたのです。

今日の聖書の箇所は実はとても面白いところです。これまでの主イエスとの対話を経て、それを聞いていいたユダヤ人たちが議論を始めます。52節です。

「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか。」

実に、ちんぷんかんぷんなことを話し合っています。主イエスを食べるというのはどういうことなのか分からなかったのです。それで、今日の箇所はこの議論に対して、続く53節と54節で主イエスの言葉としてこう記されています。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」

先週も少しだけお話ししましたけれども、主イエスがここで言われる「わたしのパンを食べる」というのは、聖餐式のことなのだと明らかになっています。ところが、これは、後の時代の礼拝を知っている私たちからしてみれば、肉を食べ、血を飲むというのが聖餐式のことを表していると分かりますけれども、この時代、それこそ、ここではまだシナゴーグで礼拝をしているわけですから、この主イエスの答えは何を言っているのか良く分からなかったかもしれません。

実は、このヨハネの福音書の研究所を読んでいますと、この51節の後半のところから59節の部分は、後の時代になって書き加えられたものではないかという説明があるのです。ヨハネの福音書というのは、そういう聖書研究の資料がいくつもあります。本文(ほんもん)研究と言いますけれども、ヨハネの福音書というのは、他の福音書もそうですけれども、一人の著者が初めから終わりまで一気に書き綴った書物ではどうもないようなのです。色々な人の言葉や、すでに書かれていた他の福音書を参考にしながら、丁寧にまとめあげられたものです。そうすると、この部分は、少し内容的にこの前後のつながりがおかしいと考える人たちが出てきました。

ここでの議論は、主イエスのパンを食べた人、つまり聖餐を受けた人はみんな永遠のいのちを持っていると書いています。ところが、この6章の最後では主イエスの弟子のひとりであったイスカリオテのユダは主イエスから離れていきます。他にも主イエスの弟子の多くが離れていったと書かれているのです。そうすると、聖餐式のパンを食べたはずの人が、今はいない、脱落したとすると、聖餐のパンを食べても脱落する人がいるではないか。それなのに、このところでは、このパンを食べた人は永遠のいのちを持つと書かれているとすると、聖餐を受けてもだめだということになる。だから、この箇所は後から付け足した文章だと考える人たちがいるのです。

先ほども言いましたけれども、本当の正しいことは神様しか分かりませんから、そういう意見も、意見としてあるということですし、これから私が語ることも、そういう意味では一つの可能性です。ただ、私は、この箇所で語られていることが、内容的にそぐわないから後から付け足したと考える必要はないと考えています。

先週、ヨハネの黙示録の21章の9節から22章の5節までのところを聖書研究祈祷会で学びました。その21章の最後にこういう言葉があります。

しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行う者は、決して都にはいれない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、はいることができる。

教会で洗礼入会式をしますと、教会員原簿というのがありまして、そこにそれぞれの記録が書かれます。何月何日に、どの牧師の司式で、どこで洗礼を受けたという記録です。もちろん、教会にあるのは古ぼけた冊子に、みなさんの名前の書いた紙が挟み込まれているだけですが、そこに名前が書かれるということは、天においていのちの書に名が書き込まれたと同じことだと考えます。新しい天と新しい地、黙示録のことばで言うと、新しいエルサレムですけれども、そこにはいるのは、いのちの書に名の記された者です。教会の民として数えられている者は、みなこの民となるのです。そうしますと、すぐにみなさんも疑問に思われる方があるかもしれせん。最近教会に来ていない人はどうなるのか。もう脱落したのか、それとも、まだ神様の民なのか。

先ほどの議論と同じことです。教会で洗礼を受けて、聖餐に預かった仲間が脱落することがある。先ほどの、今日の聖書箇所が後から書き込まれたと理解するためには、脱落した人は、永遠のいのちはいただけないと考える。でも、そのことについては、少なくともこのヨハネの福音書は何も語っておりません。強調点は脱落した人にあるのではなくて、信じた人です。そして、確かなことは、信じて、主イエスのパンを食べ、ぶどう酒を飲む者は、永遠のいのちを受けるということです。それは、この6章がずっと語り続けていることです。ですから、そういう理由で、今日の箇所が後から書き加えられたと考える必要はないと私には思えるのです。

そして、誰の名前が永遠のいのちの書に書かれているのかということも、誰かが決めることではなく、神ご自身がお決めになることです。教会ではそのことが分からない以上、簡単に一時的に来られなくなった方のことを決めることはできません。私たちには分からないからです。

たとえば、そこで牧師が、私はこう考えるから、この教会から去っている人が神から永遠に離された人だと考えると言ったとしても、それは、その牧師の考えたことであって、そのまま、それが神の意見そのものとは言えません。

だから、私たちが自分の生活の中で、自分なりに確信をもっていることも、それと何ら変わらないのです。どれほど自分の意見に自信があっても、他の考えがある余地を残して人と語ることが、誠実な対応だということになると思います。

主は、57節でこう言われています。

生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。

主はここで、52節のユダヤ人の問いに対して答えてくださいました。わたしは父によって生かされている。だから、わたしを信じる者、わたしの聖餐を受ける者も、このわたしによって生きることになるのだと。

主イエスのこの答えは非常に興味深いのですが、主イエスはここで「自分だ、自分こそが」と言われませんでした。そうではなくて、「わたしの父が」と、父なる神を主語にしておられるのです。主イエスはとても謙虚なお方です。その生涯を通して、父なる神を示し続けたのです。わたしは、あのお方の願っているように生きているのだと。

主は言われます。「わたしを食べる者は永遠に生きる」と。これこそが、私たちの聞くべきみ言葉なのです。

お祈りを致します。

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