2014 年 9 月 28 日

・説教 ヨハネの福音書6章60-71節 「いのちを与える聖霊」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:58

2014.9.28

鴨下 直樹

先ほど聖書朗読を聞かれて、ほっとした方があるかもしれません。やっと、ヨハネの福音書の第6章の最後のところまできました。二か月もかかってしまっていますが、71節までありますから無理もないことです。ただ、あまりにも時間がかかると大切な聖書の流れを忘れてしまいます。聖書は、このようにコツコツと読んでいくことはとても大切なことです。

先週のことですけれども、火曜日の祝日に私の古くからの友人で、長野の安曇野で伝道している小岩井牧師が、一緒に伝道をしているアメリカ人のジャンカー宣教師と一緒に芥見を訪ねてくださいました。何のために訪ねてくれたのかといいますと、彼らは自分たちの教会である書籍を出版しました。タイトルは『確かな土台』というものです。私もこれまで聞いたことがありませんでした。もともとは英語で書かれたもので、教会で聖書を教えるための基本をあつかったものということでした。4冊が一セットになった、なかなか立派な本です。その本を、私が教えている名古屋の東海聖書神学塾の神学生たちに無料で配布したいということで、届けてくださったのです。

水曜日までこの教会に泊まられて、翌日には岡山まで行くということでした。夜は近くの銭湯に行きまして、三人で話していたのですが、私がお風呂で、どういう特徴のある本なのか少し教えてくれないかと尋ねました。ずいぶん丁寧にジャンカー先生が話してくれたのですっかりお風呂でのぼせてしまったのですけれども、とても楽しい時間でした。そこで、ジャンカー先生がこんな話をしてくれました。「私はロード・オブ・ザ・リングの映画が好きなのだけれども特に三巻が好きなのだ。それで、ある時、教会で、ぜひ、この映画の三巻を見てほしい。」と話したのだそうです。この『ロード・オブ・ザ・リング』というのは、イギリスと児童文学者のトールキンが書いた『指輪物語』の映画のタイトルです。このトールキンというのは、カトリックの熱心なキリスト者で、この作品も言ってみれば光と闇の世界の戦いを描いたファンタジーです。小説は大変長いもので、日本語のものは確か七巻まであります。ジャンカー先生が教会でそんな話をしたので、教会のある方が。この映画のDVDを借りて来まして、三巻を見たのだそうです。すると、その方が、こんな感想を言いました。「確かに良い映画だと思いますが、いきなり三巻から見たのでは意味が分かりません。登場人物のつながりや、物語の流れも良く分からないし、なぜ、こんなことになっているのか、これまでの流れがさっぱり分かりません」と。それは当然のことです。すると、ジャンカー先生が私にこう言われたのです。「確かに、物語のクライマックスの部分だけを見ても、何だか良く分かりません。同じように、聖書の十字架と復活の出来事も、そこだけいきなり切り抜いて教会で話しても、良く分かるはずがないのです。特に聖書を知らない日本人には、神様が聖書のはじめから順に何を語って来られたのか。それを順番に理解して初めて、本当の意味で十字架と復活が理解できるはずなのです。この本は、まさに、聖書を神様が教えられた順に従って、少しずつ理解してもらいながら、聖書の大切なことが分かるように解説したものなのです」と。

私は、このアメリカの宣教師の話を聞きながら、確かに聖書のことをまだよく理解していない人にとって、神様が語ってくださった順にしたがって整理をしたものが、日本人のためにはとても役に立つと考えたのは、大した感覚だと思いました。日本の長野の田舎で伝道をするために、コツコツと聖書を教えることが、何よりも大切なことなのだということに力を注いでいるのです。残念ながら、この本は、一般の販売ルートにないものですから、ほとんど知られておりません。それで、大量の在庫を自分たちで抱えることになってしまったのだそうで、それで、小岩井牧師の卒業した名古屋の神学塾で配って、残りは岡山の友人の教会で配って、少しでも伝道の役に立てたいと考えたのだそうです。

そういう意味では、礼拝でこうやってコツコツとヨハネの福音書を順に学ぶことは大変大切なことと言えます。特に、今日の部分では、ずっと話していますけれども、主イエスが五つのパンと二匹の魚で男だけで五千人のお腹が満たされたというあの出来事依頼、人々は主イエスと弟子たちのあとに付き従って来て、そして、主イエスと対話をはじめました。そして、今日のところは、その結論のところですけれども、人々、主イエスの弟子たちが、主イエスから去って行ってしまったことが書かれています。こうやって、聖書の流れをしっかりとつかんでいくと、ここで何が語られているのかが見えて来ます。それは、主イエスの弟子とは誰かということです。

今日の箇所の60節にこう書かれています。

そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」

主イエスは自分を食べる者は、永遠に生きるのだと言われました。それが、この前の結びのことです。それを受けてのことですけれども、人々はこの言葉の意味が分かりませんでした。それで、主イエスのあとを追いかけて来た群集と呼ばれていたユダヤ人たちが去って行った、ということであれば、話は分かるのです。しかし、ここで、ひどいことばだと言い出したのは、主イエスの後ろにいた、主イエスの弟子たちだったのです。もちろん、この主イエスの話をずっと向かい合わせで聞いていたユダヤ人たちも同じように感じたに違いないのですが、問題は、主イエスの弟子たちの中にもおなじように、主イエスの言葉を聞いた人たちがいたのでした。

それに対する主イエスの言葉が61節と62節にありますが、実はこの62節は文章としては完結していません。それで、新改訳聖書は最後に「どうなるのか」という言葉を補いました。

「このことであなたがたはつまずくのか。それでは、もし人の子がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか。」

新共同訳聖書ではこの最後の言葉は「人の子がもといた所に上るのを見るならば・・・」と、最後は点点々となっています。その方がもともとの言葉の雰囲気はでるのが、主イエスが言葉を詰まらせたのか、あるいは、ヨハネの福音書が書かれたときに、ヨハネともあろうきれいな言葉を丁寧に使う人が、ちょっとしたミスを犯したのか。いずれにしても、この文章は途中で切れているのです。

私たちは先週、一年かけて学んできたヨハネの黙示録の学びをようやく終えました。それはまさに、主イエスが天におられる姿を描き出す手紙です。黙示録では、主イエスは多くの場合小羊として描かれています。特に最後のところで、都には太陽も月もいらない、というのは、小羊が都の明かりだからであるとあります。まさに、主イエスは天において、まばゆいばかりの光の存在として記されているのです。けれども、その姿は地にあって、人々は思い描くことが出来ません。主イエスと共にいた人々であっても分からなかったのです。

「弟子」という言葉は、前にも一度話ましたけれども、「訓練を受けた者」という意味です。主イエスと一緒に歩み、洗礼を受け、聖餐を共に味わい、主イエスに従っている人々です。そういう人々、しかも、主イエスから直接学んだ人たちの中の、多くの人たちが主イエスに失望していったのです。

しかし、主イエスはこの弟子たちに問いかけておられます。「これらのことで、あなたがたはつまずくのか」と。そして、こう語り始めた後で、主イエスはこう尋ねておられます。

「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。しかし、あなたがたのうちには信じない者がいます。」

主イエスがここで問いかけておられるのですから、この部分はとても大切なところです。けれども、少し分かりにくく感じます。というのは、主イエスは「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、わたしにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります」と56節で言われました。ところが、今度は、「肉は何の益ももたらしません」と言っているのです。

これには少し説明がいります。主イエスが「わたしの肉を食べなさい」と言われたのは、主イエスをそのまま受け入れるという意味です。主イエスのいのちそのものが私たちに与えられているということを語っています。ところが、今度の63節では、同じ「肉」という言葉を使っていますけれども、ここで言い表していることは「この地上の肉体」、つまり、この世の生き方、生活のことを言っています。そこでは、私たちに与えられている肉体よりも、むしろ、私たちに霊が与えられて、神からの本当のいのちに生きることが大切なのだと語っているのです。

最初に、先週教会を訪ねてくださった方の言葉を紹介しましたけれども、私たちは、この世界がつくられたときのことを創世記で聞いています。「それは、非常によかった」と神が言われた世界がありました。神との交わりに生きるいのちが、生活がそこにはあったのです。けれども、人は罪を犯して、このエデンの園を追い出されて以来、私たちに与えられていた神の霊を失ってしまいました。神との交わりに生きることを求めないで、自分の力で生きることを求めたのです。これが、罪でした。そういう流れが聖書にはあります。そして、それに従って、主イエスは、この地上で肉体だけ持っていても意味はないのだと言われたのです。大切なことは、私たちが失ってしまった神の霊を再び獲得することだと。

そして、主イエスの弟子たちは、この神の霊をいただいて、神のいのちに生きる者となったのでした。

ところがです。このヨハネの福音書は、この神の霊を与えられた人たち、主イエスの弟子の中に、「わたしを信じない者がいます」と言われたのです。これこそが、ここで問われていることなのです。

その後ではこう書かれています。

イエスは初めから、信じない者がだれであるか、裏切る者がだれであるかを、知っておられたのである

こういう箇所を読みますと、私たちはたちどころに不安になります。「イエスは初めから、信じない者がだれであるか知っておられた」というこの言葉に、運命じみた響きを感じるのです。教会では、これを「選びの教理」と言います。「予定論」などという言い方をします。特に、この箇所で「信じない者がだれであるか、裏切る者がだれであるかを知っておられた」とあるのは、この6章を最後まで読んでいきますと、それがイスカリオテのユダのことだということが分かります。

加藤常昭先生の説教をこの準備のために読んでおりましたら、こんなことが書かれていました。「選ばれる者は救われるし、選ばれていない者は救われない。そう考えていくと、イスカリオテのユダは、最初から選ばれていなかったということになる。選ばれていないから、イエスを売った。しかし、それでは裏切りとは言えないでしょう」と言うのです。「裏切りというのは、神の選びに背くということです。選ばれている者の中にユダがいる。当たり前のことです」と語っているのです。

私はここを読みながら、考え込んでしまいました。聖餐に預かっている者の中に、主イエスを信じていない者がいます、と主イエスが言っているのです。しかも、70節を読みますと、

「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です。」

と言っておられるのです。

主イエスが自ら選ばれた者の中に、信仰の仲間となって、ともに聖餐を受けていた者の中に、この主イエスの選びを拒む者、悪魔が入り込んでいるのだと言われているのです。

先週ヨハネの黙示録の学びを終えました。私はどちらかというと、そこで何度も強調してきたことは、主イエスを信じる者は永遠のいのちにいれられるということです。そこでだめだった場合などということは、できるだけ語らないようにして来ました。というのは、聖書の強調点は救いにあるからです。神は、人を救いに招かれるお方です。

ですから、わたしがいつも神の救いの確かさということを語るときに、皆さんは同時に、ある不安が生じているのではないかと思います。それは、救いは確かだと言っても、教会を離れている人たちの数は少なくありません。教会を去っていく人の数は、教会に長く来れば来るほど、知らされることになります。そして、自分だっていつそうなるか分からないのだという不安がある。そういう中で、主イエスがご自分のお選びになられた者に向かって、この中の一人は悪魔だ、などという言葉を聞くと、どうしてそれが自分ではないと言い切れるのかという不安が出てきてしまいます。

私自身、この加藤先生の説教を読みながら、もう一度改めて、私たちはそういう厳しい誘惑の前に立たされていることを覚えなければならないということを知らされました。ある説教者は、これは、主イエスの荒野での誘惑の場面の、最後の誘惑と同じことが問題になっている箇所だと言いました。悪魔は、主イエスを誘惑します。「わたしを拝むなら、この世界を与えよう」と。私たちは知っている必要があります。主イエスも誘惑と戦われたお方なのです。そして、人々がご自分から去っていく中で、同じことが問われています。私を拝んでほしい、私の願いどおりにしてほしい、そうしたら、あなたを信じてもいいからと。これは、悪魔の願っていることなのです。この願い事が、主イエスを苦しめているのです。

私たちも、そのことに気付かないで、自分が願ってることを叶えることが、主イエスのすべきことなのだ、それならば主イエスを信じてもいいとするならば、その時、私たちは主イエスの思いから遠く離れてしまっているのです。

こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。

と66節にあります。主イエスを信じて、信仰の歩みをしているように見えても、いつのまにか、私たちは自分が神になって主イエスを仕えさせたい、自分の願いどおりに働く便利な神を持ちたいと考えてしまうとすれば、それは、もはや主イエスと共に歩むことは出来なくなってしまうのです。それは、主イエスの弟子の歩みではなくなっているのです。

主イエスはそういう戦いの中で、弟子たちにお尋ねになられました。67節以下です。

そこで、イエスは十二弟子に言われた。「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」

すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」

ここに、ペテロの信仰告白の言葉があります。ペテロは主イエスから離れず、あなたは永遠のいのちのことばを持っていると告白します。

けれども、私たちは知っています。このペテロの信仰告白も完全ではないと。マタイの福音書のほうでは、主イエスは信仰告白をした後で、「さがれ、サタン」と言われてしまうのです。

私たちが主イエスに対して完全な信仰に生きることが難しいことは、聖書を見ていくと良く分かります。私たちはいつまでたっても罪人のままです。少しはましになったかと思えても、まだまだ、色々な思いが心の中から湧き上がって来て、何度も、何度も「あなたも悪魔の人だ」と言われたり、「下がれサタン」と言われなければ気が付かないこともあるのだと思います。 けれども、私たちの神、主は私たちを運命論によってどこかにしばりつけておられるようなお方ではありません。ペテロにも、イスカリオテのユダにも何度も何度もチャンスを与え、悔い改める機会を与え続けられたのです。そして、私たちにも、主はおなじように、毎日毎日語り掛けてくださるのです。私たちが罪を犯してしまう時、私たちが、自分の生活、肉体のこと、地上の生活のことだけに心奪われることは何度もあるのです。それこそ、毎日、そういう過ちを犯し続けてしまうのです。しかし、主はその私たちに霊を与えてくださり、その霊によって私たちに何が良いことで、何が間違ったことなのかを悟らせてくださいます。そして、この聖霊が私たちにいのちを与えてくださる確かな土台となるのです。

私たちは、弱いのですが、神は完全なお方です。そのお方が、私たちに救いを与え、永遠の御国まで私たちを招いて下さるのですから、このお方に支えられながら、信仰の歩みを全うできるよう、真実に歩みたいものです。

お祈りを致します。

コメントはまだありません

まだコメントはありません。

この投稿へのコメントの RSS フィード

現在、コメントフォームは閉鎖中です。

HTML convert time: 0.181 sec. Powered by WordPress ME