・説教 ヨハネの福音書7章40-52節 「この方がキリストなのか?」
2014.12.7
鴨下 直樹
先週の金曜日に私とマレーネ先生が教えております東海聖書神学塾のクリスマス会が行われました。今年一番早いクリスマスの祝いをいたしました。毎年のことのようですけれども、ずいぶん神学生たちもリラックスをしながら、楽しい催しを準備しておりました。クリスマスというのは、主イエスの降誕をお祝いするのですから、どのようにお祝いすることが、主のお生まれを祝うことになるのか。キリストを祝うのにふさわしい祝い方というものがあるのではないかと改めて考えさせられました。私は例年参加しておりませんでしたので、本当に20年ぶりに神学塾のクリスマス会に出席したのですが、礼拝をした後で、食事会になります。ゲームをしたり、讃美歌をうたったり、劇をしたりと、ずいぶん賑やかに楽しんでいたのですが、最後に降誕劇をいたしました。その劇はところどころセリフを面白おかしくしていたまではまだよかったのですけれども、だんだん悪ふざけが過ぎていきまして、ふざけすぎた劇になってしまったのです。
クリスマスというのは、「キリスト」という言葉と礼拝するという言葉の「マス」が一つになった言葉です。キリストを礼拝するという意味です。そこでは、当然キリストがどういうお方なのかということを知ることはとても大切です。そういうもっとも大切なことを教える神学校で、他のテーマでユーモアを交えるならいざ知らず、キリストの降誕劇を神学生たちがふざけていたのでは、キリストを知る礼拝は成り立たないと私は思うのです。キリストがあまりにも小さくなってしまっているのです。
今、ヨハネの福音書のみ言葉を順に聞き続けています。先週は、「わたしが生ける水だ」と主イエスが仮庵の祭りの最後に宣言なさったところから話しました。聖書には、実にたくさんの箇所で、この人々の渇きを癒す、生ける水のことが語られてきたのだということも、ずいぶん丁寧に話しました。その主イエスの言葉を聞いていた祭りの人々は、この主イエスの宣言をどのように聞き取ったのか。その反応が書かれているのが今日のところです。
そして、そこで、主イエスの語られる言葉を聞いた人々の中に「この方はキリストだ」と受け止める人たちが出て来たのです。それが、今日私たちに与えられている聖書のテーマです。「この方はキリストなのか?」そのように今日の説教のタイトルを付けましたけれども、これがそのままこの箇所のテーマなのです。
「キリスト」という言葉には、この時代の人々は非常に大きな希望を抱いていました。旧約聖書のいたるところに訳されていたお方、やがて来られるお方を「メシヤ」あるいは「キリスト」として待ち続けてきたのです。「メシヤ」というのは旧約聖書のヘブル語で「油注がれた者」という意味です。この時代、王様や、祭司や預言者という神様の働きにつく人々は特別に油が注がれてその職務に就きました。ですから、この「メシヤ」あるいは新約聖書のギリシャ語では「キリスト」という言葉になるのですが、この「キリスト」のことを、神がこの世にお送りくださる神の御業を完全におこなってくださる「救い主」として、人々は長い間待ち望み続けてきたのです。そして、ある人々はついに、この「イエス」というお方が「キリスト」なのではないかと信じる人々が出てきたのです。
けれども、どうやって本物であるかを見分けなければなりません。そこで、人々が考えたのは、旧約聖書にはキリストが来られるという預言の言葉が沢山あります。その言葉を思い出してみながら、照らし合わせてみればいいだろうと考えたのです。
このクリスマスの季節に必ず読まれる聖書の箇所ですけれども、ミカ書5章2節にこういうみ言葉があります。
ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。
こういう聖書の言葉がありますから、ユダヤ人たちは多くの人々がそのことを知っていましたので、このヨハネの福音書に書かれているように
キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る、と聖書が言っているではないか。」
という42節のような言葉がでてきたのです。
みなさんでも、何かを調べたいと思うときには、すぐに誰かに聞いたり、最近ではインターネットで調べると思います。この食べ物は大丈夫か。いただいたけれどもどうやって食べたらよいのか。もちろん、そういった日常的な疑問ではなくて、これは、あのキリストがこのイエスという人なのかということを調べようとしているのですから、慎重を期したはずです。
もちろん、この時にいたイスラエルの人々がクリスマスの物語を知っていたわけではありません。ルカの福音書が書いているとおり、主イエスが生まれたのは、当時の皇帝アウグストが住民登録をせよという勅令を出したために、マリヤとヨセフはダビデの血筋であったのでベツレヘムを訪ね、そこで、御子がお生まれになったのでした。これは、クリスマスを祝う人であれば誰でも知っていることですが、当時の人々は知りません。しかし、当時、ヨセフとマリヤがガリラヤで生活していたことを知っている人がいたので、イエスの出身はガリラヤであると、このような書き方がされているわけです。
そして、ヨハネの福音書はここで分裂が起こったと記しています。群集の中からかなりの肯定的な意見が出て来たのです。そして、45節と46節です。
それから役人たちは祭司長、パリサイ人たちのもとに帰って来た。彼らは役人たちに言った。「なぜあの人を連れて来なかったのか。」役人たちは答えた。「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」
この部分はあまり気にしないで読み飛ばしてしまうところですけれども、実に色々なことが書かれています。ここで、祭司長たちは、自分たちのところにイエスを連れて来るようにという命令を役人たちにしたということがまず書かれています。「祭司長たち」の「たち」が誰のことを指しているのかは色々な意見があるようですけれども、ユダヤ人の最高指導者たちの判断がここに記されています。少なくとも、このユダヤ人たちの最高指導者たちは、イエスを捕えるという判断を下したのです。ところが、この後のところには、そのために使わされたはずの役人たちがこれを拒んだと書かれているのです。理由は、「あの人のように話した人は、いまだありません」とあります。ここに書かれている「あの人」という言葉は、「あの人間」という言葉です。
クリスマスに人となってお生まれになられた「あの人」、あのお方の言葉に触れて、こんな言葉を語る人に今まで会ったことがないと思い、この人を捕えてはいけない。たとえ命令に背くことになったとしてもと思ったということです。
ヨハネの福音書はその冒頭でこのように書き出しました。
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
そのように1章の1節から5節に記されています。このお方が、主イエス・キリストなのだとヨハネはこの福音書の冒頭に記しました。主イエスは、神のことばそのもの、この世界を創造したことばで、いのちのことばで、このかたのいのちは光となる。それが、この福音書の最初に記されたことです。
そして、ヨハネはこの7章のここにきても、同じテーマを繰り返しています。この主イエスはキリスト、この方は人にいのちをあたえる生ける水となるお方、そして、このお方の言葉は、人を光に包み込む。この役人たちは、主イエスの言葉を聞いて、この主イエスのひかりに包まれたのです。
昨日、いつも月に一度行われているぶどうの木の句会で一つのクリスマスの詩を紹介しました。「光の産声」という題がつけられた詩で、手塚久子という方の詩です。
光の産声 手塚 久子
不思議な星に導かれて 三人の賢者が 急いだように 羊飼いたちが 急いだように
二千年前と同じ夜わたしたちは闇のなかで その時を待つ
ひたすら祈り求める心は 貧しい馬小屋をたずねあてる
そこには 母マリヤとヨセフが寄り添い 幼子が眠り給う
この闇の世から 夜明けまえのひととき 地を震わせた 御子の誕生
やがて血まみれた嬰児殺害 たくさんの母たちの嘆きの声は 十字架へと続く道
いま ベツレヘムの夜から わたしの闇を貫いている沈黙
闇がどんなに深くても はるかなる御手に導かれる夜 み子の前に 急ごう
高価なおくりものはないが 天使たちと声を合わせうたおう
すべてを超える神に栄光 みこころにかなう人々に平和
いのちへの希望と感謝をこめて いまこそ 御子の誕生を 告げ知らせよう
少し長い詩ですが紹介させていただきました。この詩人はずっと闇の中にいます。何があったのかは分かりませんが、このクリスマスの季節に、私たちもこの闇の中でクリスマスを待っているのだと歌いだします。 そして、クリスマスこそが闇に光が生まれた時だと歌って、しかし、すぐそのあとでベツレヘムの二歳以下の子供たちが当時のヘロデ王に虐殺された出来事を思い起こしながら、クリスマスの後もずっと闇がこの世界には続いている。けれども、そのような闇がどんなに深かったとしても、御子の前に急ごうと言います。
クリスマスに来られたキリストは闇の中にいる人々に光をもたらすお方なのだから、そのお方がお生まれになられたから会いに行こうと詩人は言います。そして、この詩の最後には「いのちへの希望と感謝をこめて、いまこそ御子の誕生を告げ知らせよう」という言葉で結ばれています。自分は闇の中にいたのに、光を急ぎ求めていたのに、自分もこの御子の光に照らされて、今度はこの光をみんなに知らせに行かなくてはという思いにまで変えられて行っているのです。詩のタイトルは「光の産声」です。闇の中で沈み込んでいたこの人は、クリスマスの光に包まれて、みんなにも伝えに行きたいと産声をあげたのです。
昨日の句会でもお話ししたのですが、ピーター・ブリューゲルというオランダの画家が描いた「ベツレヘムの戸籍調査」という絵があります。以前も一度お見せしたことがあります。この絵は、ベツレヘムに人口調査のために旅をしてようやくベツレヘムに到着したマリヤとヨセフを絵の片隅に描いています。絵自体は、冬の田舎に、突如ヘロデ王がもたらした命令のため大忙しになった村の姿を描いています。みんな、目の前のことに必死になっている人々を描いています。目のまえにあることをすれば、その先には、いつか希望があるのだとでも云うかのように。けれども、その希望は誰の目にも留められていない片隅に描かれたマリヤの胎の中にまだ秘められています。
クリスマスに、光が来たのです。闇の世界に光が来たのです。それをお祝いするのがクリスマスです。そして、それを待ち望むのがアドヴェントです。目の前に光が来ているのにもかかわらず、多くの人々はそこには目を留めず、自分の目先の幸せを追い求めてしまっているのです。
しかし、その光にふれたならば、何をおいても、このお方を喜んで受け止めたらいいのです。たとえ、偉い人が命じたとしても、それに逆らってまで、役人が主イエスを受け止めたようにです。
ここに、もう一人ニコデモという人物が出てきます。祭司長たちは役人の判断を見て「おまえたちも惑わされているのか」と言います。また、主イエスを受け止めようとしている人々のことを、このユダヤ人指導者たちは言うのです。「律法を知らないこの群衆は、のろわれている」と。自分たちは分かった気持ちになっている人々の姿があります。これが、今日の多くの人の態度なのかもしれません。キリスト教を信じるなど間違っている。聖書は信じるに値するとは思えないと。そして、自分は何かを知ったような思いで批評するのです。けれども、ここに出て来たニコデモは言います。
「私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか。」
51節です。
このニコデモは3章で出て来たユダヤ人指導者のひとりです。主イエスにかつて訪ねたことがありました。そのニコデモが自分の仲間であるユダヤ人の宗教的な指導者である人々に、ちゃんと調べたのか、その人から聞いたのか、その人を知ってから判断したのか。何となく、あるいは好き嫌いで判断していないか、そう問いかけるのです。
この方はキリストなのだろうか。この方は私の闇から私を救ってくださるお方なのだろうか。そのように問うのであれば、その人を知らなければ何も始まりません。そして、その方のもとを訪ねる時に、そのお方を礼拝する時に、そこからあなたにとっての光の言葉が響いているのかもしれないのです。それは、他人任せにすることができません。もし、目の前に光が来ているのに、自分のことに夢中で気付かない、あるいは、人の判断にたよって、この光の言葉を聞き損ねてしまうとすれば、それほど残念なことはないのです。
主は、私たちを闇から光へと導くために、クリスマスにお生まれになられたお方なのですから。
お祈りをいたします。