・説教 ヨハネの福音書7章53-8章11節 「主イエスへの挑戦」
2014.12.14
鴨下 直樹
先ほど司式者が読みました今日の聖書の箇所をお読みになりながら、みなさん、少し不思議な思いを抱かれたのではないかと思います。今日の聖書の箇所は鉤かっこでくくられているのです。これは何だろうと思いながら、読まれる聖書に目を留められたのではないかと思います。これには少し説明が必要だと思いますので、最初にそのことをお話しします。
私は名古屋にあります東海聖書神学塾で新約聖書緒論という授業を受け持っています。そこで、最初に新約聖書の成り立ちについて教えるのですけれども、聖書は沢山の写本が発見されていますが、一つもオリジナルの聖書は発見されておりません。発見された写本の古いものでも約四世紀に書かれたものです。写本といいますのは、昔は印刷技術がありませんでしたから、大切な書物は書き写して広まっていきます。あるいは、何度も読んでいるうちにボロボロになってしまいますので、何人もの写字生と呼ばれる人が書き移すわけです。そうしますと、少しずつですけれども誤字や、後でわかったことを書き加えていったりしまうので、全く同じ写本というものも存在しないわけです。それで、聖書の研究科はできるかぎり聖書のオリジナルに近いものを見つける作業をいたします。そこで、発見された数々の写本を比較しながら、より古い時代の写本に書かれたものがオリジナルに近いだろうということで、「本文」(ほんもん)を確定していく作業をします。これを本文批評といいます。
そういう聖書研究の結果、今日の箇所は古い代表的な写本には入れられていないので、これはヨハネの福音書には最初は書かれていなくて、後の時代になって書き足らされたものであることがはっきりしてきたのです。それで、この箇所は他の聖書の箇所と同じように扱うことはできないのではないかと考えて、鉤かっこの中に入れられるようになったわけです。ですが、もうこの箇所は長い間、ヨハネの福音書として親しまれてきました。そして、この箇所をヨハネの福音書に残しておくか、外すべきかということをその後の教会会議で決定いたしまして、聖書の中にそのまま残されることになったのです。
今日の聖書の内容はそれほど複雑な話ではありません。姦淫の罪の犯した女が連れてこられます。旧約聖書のレビ記20章10節にこういう戒めがあります。
人がもし、他人の妻と姦通するなら、すなわちその隣人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も必ず殺されなければならない。
そのほかにも申命記22章22節以下にも姦淫を戒める戒めがあります。この戒めにてらしますと、この姦淫の女は死刑です。それは言い訳の余地がないほど明白に聖書は禁じています。ところが、そのような性道徳の罪を犯した者を主イエスがお赦しになりました。実は、この聖書の箇所はヨハネの福音書の中に写本の問題以上に、この内容から見ても、聖書に入れるのを考えるべきではないのかと考えられたのです。そういう意味でも、この箇所は問題になった箇所でもあるのです。
と、いいますのは、罪は罪です。今でもそうですけれども、お金の問題と、性の問題というのは、世の中はそれほど寛容ではありません。こういうスキャンダルを探すためにマスコミは必死になって探しています。そして、こういうニュースは毎日なくなることもない、今でもお昼のワイドショーを騒がしています。それだけでなくて、そういう週刊誌が今なお売れ続けているというのは、それだけ多くの人々がそこに関心を集めているからです。そういう罪を犯したことが公になりますと、世間はこれ見よがしにたたきます。
私たちもそうです。人の犯した罪、過ちを見つけますと、みんなでよってたかって攻撃するという醜さがあるのです。
今日の箇所もそうです。この姦淫を犯した女を主イエスは赦されたそうだが、本当にそれでいいのか。そうすると、神の正義は一体どうなってしまうのか、どこで、人は正しく生きることを学ぶことができるのかと考えます。そういう意味でも、この箇所が聖書に入れられるべきなのかということが長い間議論されてきたのです。そして、幸いにも、この箇所はヨハネの最初の写本には書かれてはいないことは明らかだけれども、聖書にそのまま載せておくということが、16世紀のトリエントの公会議という会議において決定されました。その後でも、1897年に当時のローマ教皇の名においてヨハネの福音書に残すことが決定されます。まだ、今から120年ほど前のことです。それほどまでに、この箇所は教会の歴史の中で物議を醸しだしてきたのです。
何が問題なのか、もう一度考えてみたいと思います。主イエスのところに、姦淫の罪を犯した者が連れてこられます。すると、律法学者とパリサイ人とが主イエスにこう問いかけます。
「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたはなんと言われますか。」 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。
と4節から6節に書かれています。なぜ、この問いが主イエスを告発することになるのでしょうか。律法に書かれていいることは明確なのです。律法に従うなら、死刑です。ですから、主イエスがそのように答えると、主イエスに心を寄せ始めている人々は、主イエスはパリサイ派の人々や律法学者のように、聖書を使って人を縛り付ける寛容のない、愛のない人という印象を与えることになるのです。けれども、この姦淫の女を赦すならば、明らかに律法に違反することになりますから、それで、主イエスを告発することができるようになる。そういう問いでした。
しかし、主イエスはここで何をなさったのかというと、
しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。
のでした。6節の後半です。そして、続く7節と8節にこうあります。
けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。
ここでいつくかのことに注意をとめる必要があります。主イエスはこのいきり立つ人々が姦淫の女を裁こうとしている中で、「指で地面に書いておられた」とあります。これは、自分はこの議論に加わるつもりはないという意思の表れです。
みんなで、罪を犯した人を目の前にして、声を張り上げながらこの人のこれは間違っているのだ、これが罪なのだ、こういうことはすべきではないのだと、みんなが批評家になってそれぞれでが自分の正義に酔いしれている人々の中に、主イエスは加わるつもりはないということなのです。
そして、その時、私たちはこの地面に指で書いておられる主イエスのお姿をしっかりと見つめる必要があるのです。私たちは人の失敗を見つけると、こぞって責め立てたくなります。ひょっとすると人のした過ちよりも、自分の正しさを主張するために自分の正義に酔いしれているのかもしれません。
特にそれは、教会の中でたびたび起こります。例をここであげるつもりもありません。牧師も、長老も執事も、長年教会に来ている人であろうとその誘惑に打ち勝つことは困難なようです。私のなかにもそういう弱さがあることを認めざるを得ません。「ほらみろ、わたしの言った通りではないか」、「あの人のこういう発言で自分はどれほど傷ついたか」、色々な感情をそこに持ち出して来て人の過ちを攻撃します。「キリスト教会」が「切り捨て教会」になる。そうなると赦しはどこかにいってしまいます。そして、そこから聞こえてくるのは、神様は正しいことを望んでおられるはずだという声が大きくなっていくのです。けれども、そこで、主イエスにも同意してもらいたくて、振り向くと主イエスは自分の側にはいなくて、別のところで地面に字を書いておられることに気付く。これが、何を意味するのかを、私たちは本当に学ばなければならないと思うのです。
そして、主イエスは口を開くのです。「あなたがたの中で罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と。石を投げる気まんまんの人たちに、主イエスはそう言われました。主イエスは、正義感にあふれた人に、人の悪を、失敗を責め立てようとしている人に、問いかけるのです。「あなたにその罪はないのか」と。
主イエスはかつて山上の説教でこう語られました。
『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。
マタイの福音書5章27、28節です。主イエスは姦淫の罪を犯してもいいのだなどとは言ってはおられません。「石を投げたらいい」と言うのです。罪は罪です。もっと言うならば、神が問われる罪は、運悪く見つかってしまった場合だけが罪となるのではなくて、心の中で思い描いた時から、もう同じ罪を犯していることと同じだと言われるのです。間違えてならないのは、ここで主イエスは罪を問わないのではないのです。今日から姦淫の罪は解禁になりましたということではありません。人の罪を問うて、それを自分で裁きたいのなら、自分にその資格があるかどうか自分に問うてみるがいいということです。あなたにその資格があるのか。もっというと、こういうことです。ここで捕えられていること姦淫の女はあなたなのではないのか。
彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。
と9節にあります。この主イエスの問いの前に、すべての人が自分を振り返ることになったのです。
私たちが、毎日の生活の中で、誰かに腹を立てている時、憤っている時、批評家になっている時、そこには、主イエスは一緒にはおられないということを、私たちはしっかりと受け止めなければならないのです。主イエスはそこに加わるつもりはないのです。
石を投げられると思いながらびくびくしていたかもしれないこの女は、一人ずつ去って行くのをどのような思いでいたのでしょうか。「助かった」ということだったのでしょうか。自分を裁けるものが誰もいないことに気付いて、せいせいした気持ちでいたなどということは考えられません。「あーよかった」と思っていたなら、そこで、この女もこの場から離れたことでしょう。女はそこに留まりました。何故か。裁くことのおできになるお方が、まだそこにおられるからです。
10節と11節。
イエスは身を起して、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪をおかしてはなりません。」]
主イエスが問いかけられました。「あなたを罪に定める者はなかったのですか。」彼女は言います。「だれもいません。」自分の目の前にいる人を、この女はどのように見たのでしょうか。人々が、自分を振り返りながら、自分の罪に気付きながら去って行くのを目の当たりにしていたのです。このお方は人々を裁いておられるということが分かったはずです。ということは、このお方は、自分を裁くことがおできになる方だということも同時に気付いたことでしょう。ここで、主イエスはこの女に言うのです。「わたしもあなたを罪に定めない。」
これは、主イエスも罪を犯しているので、その資格は私にもないという意味ではありません。そのように読むことはできません。このお方は、罪を裁くことがおできになるのです。けれども、この主イエスは、ここで、この女に赦しの宣言をするのです。
女が悔い改めたからではありません。真実の裁きがなされるところに、本当の赦しがあるのです。罪をこの女に認めさせたがゆえに、主イエスはこの女に赦しを宣言なさったのです。そして、言うのです。「行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」と。
「行きなさい、今からは決して罪を犯してはなりません。」この言葉はこの人にはどのように響いたことでしょうか。本当の赦しを味わったのです。ひょっとするとまた、罪を犯してしまったのでしょうか。そうであるかもしれません。私たちと、この女とは何も違いがないのです。自分が殺される寸前のところまで行って、救いを経験したのです。
きっと、あとでこの女は知ることになったに違いありません。この時、自分を赦されたお方が、あの時、自分に石を投げなかった人々の手によって十字架にかけられたことを。
ヨハネの福音書の8章の最後にもそのことが書かれています。「彼らは石を取ってイエスに投げようとした」と。自分に向かうはずの石が主イエスに向けられ、そして、主イエスは殺されたのだと。人を裁くことのおできになるお方が、人に裁かれて殺されてしまったことを知ったに違いないのです。
そうです。私たちは誰もが、この姦淫の女と同じなのです。私たちも主イエスによって救われ、今からは罪を犯すなと言われて救いを経験したのです。けれども、気が付くと、自分も石を持って、人に投げつけたい思いに支配されてしまっているのです。
それほどに、私たちは自分の与えられている救いに、目が留まらないのでしょうか。主イエスは今も、私たちの傍らにおられます。ひょっとすると、傍らで指で地面に何かを書いておられるのかもしれません。そのお方は赦しのお方であることを、私たちは忘れてはならないのです。
お祈りをいたします。