2015 年 1 月 4 日

・説教 ヨハネの福音書8章21-30節  「互いに受け入れないながら」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:22

2015.1.4

鴨下 直樹

2015年のためのローズンゲンによる年間聖句

「キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。」(ローマ人への手紙15章7節 新改訳)

新しい年を迎えました。先日の元旦礼拝で私たちは今年の年間聖句のみ言葉から説教を聞いています。先日の元旦礼拝の後で、二人の長老からある提案がなされました。もう一度、今度の4日の礼拝に同じ聖書箇所から説教して欲しいという提案です。一年の間、この年間聖句を心にとめるためにも必要だというのです。また、F長老は、同じ説教というよりも別の視点も含まれればなおよいと言われました。みなさんもご存知のとおり、教会の月間予定と共に配られております礼拝細目で一月の礼拝の説教者と説教題、讃美歌、奉仕者などは前もってすでに印刷して告知されております。ですから、一週説教をずらしますと、讃美歌から何から何までずれてしまいますので大変なことです。ですから、予定を簡単に変更することはできません。ただ、同時に長老方が言われることも大変大切なことだと思っておりますので、できるかぎり、年間聖句も心に留めつつ、今日はこの私たちに与えられているみ言葉に耳を傾けたいと思います。

しかし、そうは言うものの、実は今日私たちに与えられているヨハネの福音書の聖書箇所というのは分かりやすい箇所ではありません。何度か申し上げておりますように、わたしはあまりこのヨハネの福音書を得意としておりません。言い訳じみたことを新年早々に言うことをお許し願いたいのですが、話の筋を読み解くことも簡単ではないのです。実は、長老方が「元旦説教をこの礼拝でも」と言われた時に、元旦と同じ説教をしてよいのであれば渡りに船と、思ったくらいです。もちろんそういうわけにもいきませんから、少しこのヨハネの福音書の内容を見て見たいと思います。

主イエスはここで、「わたしは去って行きます」と言われました。しかも「わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません」と言われました。ですからこの話を聞いた人たちは「自殺するつもりなのか」とこの言葉を聞いて答えます。それほど、主イエスが何について話しておられるのか分からないのです。けれども、ここで主イエスが語り掛けられておられる内容を見て見ますと、実にこの部分は厳しいことをユダヤ人たちに問いかけておられます。というのは、この箇所で三度にわたって「あなたがたは自分の罪の中で死にます」と語り掛けておられるのです。21節、そして24節に二度、この言葉が語られています。そのように言われて、続いてユダヤ人たちが主イエスに答えたのは「あなたは誰ですか」という問いかけです。ここは、ユダヤ人と主イエスの対話が記されているところですが、ユダヤ人たちはここで、自分に向かって語られている言葉の内容について受け止められなかったのです。

主イエスはここで、「あなたがたは自分の罪の中で死にます」と三度語り掛けられました。三度も言われたということは、それだけここで主イエスが言われた言葉は強調されているということです。そのことについて、よくよく考えてほしいということに違いないのです。

そこで、あらためて大切なのはこの冒頭の21節の言葉です。

「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます。わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません。」

と主は言われました。

今日みなさんに、今年の年間聖句のみことばの書かれたカードを配っております。そこにドイツのカトリックの司祭で画家のジーガ・ケーダの描いた洗足の絵が描かれています。実は、このヨハネの福音書の13章は、主イエスが弟子たちの足を洗われた後の33節でこのように書いています。

子どもたちよ。わたしはいましばらくの間、あなたがたといっしょにいます。あなたがたはわたしを捜すでしょう。そして、『わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない。』とわたしがユダヤ人たちに言ったように、今はあなたがたにも言うのです。

と書かれています。この主イエスが洗足をなさったことが記されているヨハネ13章で主イエスがかつてユダヤ人たちに語られたとされている箇所が、今日、私たちに与えられているみ言葉なのです。

主イエスはここで、ユダヤ人たちにも語られたように、弟子たちにも同じことを語られました。今日は丁寧に説明することができませんので結論だけ言いますと、それは、主イエスがこれからなさろうとしておられるのは、人がついてこられるようなわざではないのだということを語ろうとしておられるのです。

その業とは何かといいますと、それがまさに今年の年間聖句に挙げられているローマ人へ手紙15章7節にある「キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい」というみ言葉に示されているのです。

主イエスは洗足において、弟子たちの足を洗われました。ジーガ・ケーダの絵には弟子のペテロの足を洗う主イエスの顔が何とも言えず悲しげに描かれています。なぜ、主イエスはそんな悲しげな顔で弟子の足を洗っておられるのかというと、人を受け入れるということは、それは自分のいのちを捨てなければならないほど厳しいことだということを、この画家は描こうとしているからです。

そして、それゆえに、ここで、主イエスはその道は険しいものなので、この時もペテロに向かって、「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります」(ヨハネ13章7節)と言われたのです。

主イエスはここで人に問いかけておられるのは、私たちがこの世にいのちを与えられ、やがてこのいのちの尽きる時に、「あの人は自分の罪の中で死んでいった」と言われないですむ生き方ができるのかということを問いかけておられるのです。三度も語りかけながら、あなたは何のために生きているのかということを、問いかけておられるのです。人がどれほど傷つこうが、そんなことは構いやしない、自分が良ければそれでよいのだと生きてはいないのかという問いです。

そして、そう問われたユダヤ人たちは、そうおっしゃるあなたは一体誰なのですか、あなたは何者で、あなたはどう生きると言われるのですかと、問い直した。それが、今日の箇所なのです。

これは、私たちが今年一年どうこうするということなのではなくて、私たちの人生そのものを問う問いかけです。自分の幸せを求めて生きる。そこには、もちろん悪い意味はないはずなのです。けれども、「わたしの幸せ」ということにこだわり続けるうちに、大切なことを見失っていくことになることを知っていなければなりません。

難しい話はできるだけしないようにしたいのですが、ここでユダヤ人たちは、自分たちは聖書の戒めに従っているから、自分たちは大丈夫だと考えていたのです。もっというと、自分はクリスチャンだから大丈夫と考えているのと近いものがあります。もう、自分は大丈夫なのだという思いが、主イエスがここで語られていることを理解できなくされるのです。

「キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい」

このローマ人への手紙の年間聖句を私たちは今年一年かけて学び続けたいと思っています。主イエスは、弟子の足を洗われました。弟子たちを受け入れてくださいました。足の汚い弟子を、心の醜い弟子を、やがて主イエスを裏切って見捨てて逃げてしまうような不完全な者を主は受け入れてくださいました。そして、ご自分が愛した人々によって十字架につけられて、殺されてしまったのです。私たちはそのようにして受け入れられたのです。

だから、私たちも互いに受け入れあうべきなのだとこのみ言葉は語り掛けるのです。つまり、キリストのように、それが自分を犠牲とすることがあってもというとてつもなく大きな犠牲を、主は求めておられるということなのです。

しかし、受け入れるというのはどこまで受け入れたらいいのでしょうか。うちに、間もなく三歳になる子供がいます。今、毎日、そのわがままと戦い続けています。子どもがい言うわがままをすべて受け入れ続けていたら、きっととんでもない性格の人間になってしまいます。ダメなものはダメだと教えなければなりません。けれども、ダメな事柄についてはダメだと言ったとしても、子ども自身を受け入れていなければなりません。そこで起こっている事柄と、子ども自身の人格とを同じに考えてしまってはいけないのです。

主は私たちを受け入れてくださいます。罪を犯す弱い私たちを受け入れてくださいます。けれども、罪はうやむやにはなさいません。私たちの中にある弱さ、醜さ、さまざまな神を悲しませてしまう思いの私たちを主は受け入れてくださって、そして私たちを新しく生まれさせてくださるのです。私たちが変わることができるように助けを与えてくださるのです。

私と罪とを分けて考えておられるのではなくて、まず、罪のある私を受け入れてくださったのです。何も変わらないかもしれないというリスクを含んだままの私たちを、主は受け入れてくださるのです。そして、主の愛に触れ続けていくうちに、主のみ言葉を聞き続けていくうちに、主の聖霊が与えられていくうちに、私たちは少しずつ変えられていくのです。

主はそのように非常に忍耐深く、時間をかけて私たちを見守り、支え続けて、愛してくださるのです。だから、私たちもその主にならって、同じように人を受け入れるのです。まず、その人そのものを受け入れる、そして、忍耐しつつ、祈りつつ、愛をもって関わりつづけていくとき、神は何かを行ってくださるはずだと信じるのです。

そのために、主イエスは父なる神から遣わされたのです。主はまず、その模範となってくださったのです。

主イエスにとってもそれは厳しい思いであったに違いありません。ですから、私たちも、これを私たちに与えられたみ言葉として心に留めつつ一年かけて学びたいと思います。互いに受け入れることを、自分を犠牲とすること、そうすることによって、私たちは、自分のいのちが罪に死ぬ生き方なのではなくて、主の愛を学ぶ生き方へと変えられて行くのです。

そして、私たちがそのような愛に生きることを通して、神に栄光が現される、神が私たちの生き方を、誇ってくださるのです。あなたの生き方はそれでよい、そう生きることこそが、わたしの喜びなのだと、他の誰でもない、神ご自身がその生き方を喜びとしてくださるのです。

お祈りをいたします。

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