2015 年 1 月 11 日

・説教 ヨハネの福音書8章31-47節 「あなたに自由を与えるもの」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:29

2015.01.11

鴨下 直樹

2015年を迎えまして一週間がたちました。私事で恐縮ですがこの一週間とても目まぐるしく一週間を過ごしました。週明けから教団の役員会に出席いたしまして、水曜日の夜には娘が救急で病院に運ばれました。そのために祈祷会を急きょ休会にしまして、病院に行っておりました。幸い大変なことになりませんでしたけれども、その後で体調がなかなかもどらなかったのですが、今は「はしか」で全身に発疹が出ております。木曜は祈祷会をいたしまして、翌日の金曜に名古屋の神学塾で入塾説明会の準備と来年度のまた新しいカリキュラムの作成をしておりまして、夜遅く戻り、昨日は朝、新しく家を建てられる方の定礎式をしまして、その午後には招待されておりましたコンサートに行き、まるっきり説教の準備をする時間を取ることができません。何か言い訳じみた言葉で説教を始めているのですけれども、今週の説教題を「あなたに自由を与えるもの」としました。自分自身でその言葉を思い返しながら、自分に与えられている自由とは何かということを考えさせられる一週間となりました。

今日の説教の箇所は本来でしたら38節で区切るのが一般的ですが、あろうことか47節まで選びました。いつも説教の時はできるだけ丁寧にそれぞれの節を追うようにして説教をしているつもりですけれども、昨年の暮れから今年にかけて、丁寧に聖書の解き明かしに時間をかけることができておりません。先週も半ば強引に年間聖句の説教を織り込みました。ですから、このヨハネの福音書の8章の話についていくことが難しく感じておられる方があるかもしれません。それはお許しいただきたいと思います。今日も、長い箇所を選んでおりますけれども、丁寧にここから解くことはできません。

ただ、今日の聖書の箇所に「真理はあなたがたを自由にします」というとてもよく知られた箇所が出てまいります。キリスト教系の大学にこの言葉を記しているところはいくつもありますし、それこそ国会図書館にもこの言葉を少し変えた言葉が掲げられております。多くの人の心に留まる言葉がここで語られているのです。真理を知ることこそが、私たちに自由をあたえるのだと、大学での学びに励んだり、読書に励みながら、そうした努力が私たちに自由を与えるのだと、広く受け止められています。それは、とても大切なことです。

そこで、主イエスがなぜそのような今でも多くの人の心をとらえている言葉をお語りになられたのか、少し見て見たいと思います。大切なことは、前回、あまりふれることができませんでしたけれども、30節で「イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた」と書かれています。主イエスは仮庵の祭りの最後で、ご自分のことを「わたしは生ける水である」と言われ、「わたしは世の光だ」と語られました。そして、「あなたがたはわたしが行く所に来ることは出来ない」と言われました。先週もそこから今年の年間聖句の説教をいたしました。主イエスが行く所、それは、ご自分を犠牲にすることによって、人を受け入れられる道を歩まれるのだと、お話ししました。その話を聞いていたユダヤ人たちに「あなたがたは自分の罪の中で死ぬのだ」と三度も宣言なさいました。そして、その話を聞いて、主イエスを信じる人々が起こったのです。今日のところでは、その主イエスを信じた人々に主イエスが語り掛けておられるところです。

「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

主イエスはそのように語られました。つまり、主イエスの語られる言葉に留まる時に、あなたがたは真理を知るようになり、主イエスの言葉によって自由にされると言われたのです。

主イエスを師として、その言葉に従い、弟子として生きる時に、自由を得るのだと言われたのです。

そうしますと、そこで少し立ち止まって考える必要があります。誰かの弟子になる時に、そこに自由があると私たちはあまり考えていないのではないかと思うのです。昨日もコンサートに行きました。池辺晉一郎という指揮者のコンサートでした。「池辺晉一郎と初笑い」とチラシには書かれておりました。コンサートでどうやって笑わせるんだろうかと思っておりましたら、私の友達を呼びたいと思うと言われて、私たちの教会の長老でもある古川秀昭さんが出てまいりました。古川さんは岐阜県では岐阜県美術館と名物館長ということになっておりますが、実は高校の同級生で、大学も同じだったそうです。この池辺さんも、古川さんもそうだと思いますけれども、かつては誰かに師事しておりまして、師匠から手ほどきを受けて音楽なり、芸術を身につけていきます。けれどもそういったいわゆる弟子の時代というのはたいてい、早く、それこそ自由にやれるように独り立ちして、自分の思うままの作品を作りたいと考えるものだと思うのです。しかし、主イエスはここで、自由というのは師匠の元で、弟子として歩む中にあるのだと言われたのです。

このヨハネの福音書の主イエスとユダヤ人たちとの議論はなかなか興味深いものですけれども、こう言われて、ユダヤ人たちは「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません」と切り返しています。33節です。私たちはすでに自由に生きているのだと答えたのです。この「アブラハムの子孫だから自由なのだ」というユダヤ人たちの言葉には、かつては、エジプトで私たちの先祖は奴隷生活を強いられていたけれども、今は自由の民となったのだから、私たちはすでに自由を味わっていると答えました。これには少し説明が必要かもしれません。ユダヤ人の歴史というのは、その後も、何度も神に背いたために、近隣のアッシリアだとかバビロンによって奴隷状態を強いられますし、この主イエスがおられた当時には、ローマに支配されています。ですから、今なお奴隷状態ではないかとも言えるのですけれども、ユダヤ人たちは幸いなことに、エジプトでの奴隷生活以降、捕囚を経験したり、ローマの支配の中にあっても、彼らは神を礼拝する自由を持ち続けておりました。そして、それはユダヤ人たちの誇りだったのです。ですから、私たちは今、こういう時代の中にあっても自由を味わっているのだと胸を張って答えることができたのです。

しかし、主イエスはこのように答えたユダヤ人たちに向かって、「あなたがたは罪の奴隷ではないか」と言って、35節にこう言われます。

奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。

主イエスはここで、息子こそが自由を味わっているのだと言われました。先ほどの師匠と弟子の関係の中に自由があるというのを、ここでは、父と子の関係の中にこそ自由があるのだと言われたのです。これも、私たちは首をかしげるところかもしれません。今週成人式が行われます。私たちの教会でも、二人の人が成人式を祝います。成人式というのは、いよいよ二十歳になって、大人と認められる。親から解放されて、自由にこれからは自分の決断で生きることができるようになるのだと考えています。誰もがそう考えています。そして、今日からあなたがたは自由になるのだ、と言ってお祝いするのです。

しかし、主はここで、自由というのは、実は父と子の関係の中にこそあるのだと言われたのです。というのは、奴隷に自由はないけれども、子どもにはその家の中で自由にふるまうことが許されているのだと。

成人を迎える方にも、もうすでに自分は成人だと思っておられる方々にも聞いていただきたいのですけれども、自分はもう大人だ、自由だなどと思って、何でも好きにできるのだと考えていても、そこで、罪に支配されてしまう。何がよいことで、何が間違ったことなのかを考える力を失っていく。そして、自分の好きなこと、自分のしたいこと、と考えていくうちに、正しいことをすることができなくなって、その罪の支配の中で、自分が飲み込まれてしまうことになるのです。

ユダヤ人たちは言います。「私たちの父はアブラハムだ」と。しかし、主は「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行いなさい」と言います。39節です。ところが、44節では「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです」と語ります。

自分は自由だ、自分は何でもできるという考えに支配されることこそが悪魔の子となっている、欲望の奴隷となっているのではないか、それを自由とは言わないのだ、と主イエスは言われるのです。そうではなくて、まことの父の子どもは、父の言われたことに従う、それは不自由に感じることなのかもしれないけれども、実にそこにこそ自由があるのだと主は言われるのです。

それが、最後の47節に書かれていることです。

「神から出た者は、神のことばに聞き従います。」

父なる神の子であることの中に自由がある、父なる神の言葉に聞くことこそが私たちを生かす真理なのだ、と主イエスは言われるのです。

私たちを生かす自由はどこにあるのか、それは、私たちを自由に生きてほしいと願っておられる、主イエスの父なる神のみ言葉に耳を傾けるところにこそあるのです。そのために、主イエスの弟子となって、その教えの中に身を置くこと。その時に、私たちはどう考え、どう決断するのかということが分かってくるのです。

それは、おそらく芸術の道でもそうであるはずです。支持している師匠が基本を教えてくれます。それは、とても退屈で、魅力的には見えないかもしれません。あるいはそこには決まり事がいくつもあるのかもしれません。けれども、そういうことをコツコツと身に着けていくことによって、何をすることが道を踏み外すことになり、どうすることが美しくないことになるのかを修練していくと同時に、自分のものにしていくのです。そして、そのような基本といわれることを身に着けてしまった時に、人は大きな可能性を手に入れるのです。本来、大人になる、認められて免許皆伝を与えられるというのは、そういう地道な努力が身について、ようやく認められるようになるものです。

ところが、そういうものも知らないままに、身についていないのに、体だけ大人になったから大人の振る舞いをしたい、人にとやかく言われたくないので自分の気にいるようにしたいとふるまっていく時に、人は自分に自信を失ってしまって、人の顔色を見ながらおどおど生きるか、あるいは、罪に飲み込まれて、放縦な生き方をしてしまうかしかなくなってしまうのです。

主イエスは言われます。「真理はあなたを自由にします」と。「私の言葉はあなたを自由にします」。「わたしに着き従って来るならば、あなたは本当のあなたのあるべき姿を知ることができる、だから、わたしについてきなさい」と主イエスはわたしたちに語りかけてくださるのです。主の弟子であり、父の子であることこそが、私たちの自由となるのです。主の言葉に聞き続けることこそが、本当の私を発見させてくれるただ一つの道なのです。

お祈りをいたします。

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