・説教 ヨハネの福音書8章48-59節 「栄光を与える父」
2015.01.18
鴨下 直樹
神戸の震災から20年がたちました。この震災の時、わたしは神学生で岡崎教会に住み込みながら、教会実習をしていた時です。地震の夜、もう夜の12時を回る頃でしたけれども、宣教師のベルンス先生と、何ができるかと話し合いました。そして、同盟福音の教会に献金の依頼をして、集めたお金で救援物資を調達して、神戸に運ぶことを決めました。夜中に全教会にファックスを流しました。翌日、礼拝後に各教会から集まった献金の金額を報告してもらいまして、そのお金をもとに救援物資を買い集めます。地元のパン工場や、薬局も協力してくれたためにパン5000食、食糧、衣料品、衣類、考えられるものを教会員で手分けして買い、トラックに載せて、教会の方々が神戸に向かいました。最初は一日だけのつもりが、次々にお金が集まり、ボランティアが集まり、何ヶ月かにわたって、ボランティアと物資を送るシステムができました。私も、二回目の物資の配達と数日のボランティアをしてきました。行先は、あの倒れた高速道路のすぐ先の芦屋です。
当時、神学生の私は岡崎の日曜日の説教の奉仕にあたっていました。一緒に行ったのは当時芥見教会の神学生だった井上さんです。できるかぎりギリギリの時間まで神戸にいたために、戻って来たのは土曜日の夜中で、結局説教の準備をする時間が全くもてませんでした。帰りの車の中で、そのことを井上さんにお話しすると、井上さんも芥見で礼拝説教にあたっているとのことで、二人で勝手に明日の礼拝はそれぞれ交代して、私が芥見教会で、井上さんが岡崎で、以前した説教をするということになりました。実は、わたしはその時が初めて芥見教会に来た時でした。ですから、わたしは芥見で初めて説教に来てから、ちょうど20年たったのだと思い起こしておりました。20年前、廃墟同然であったあの神戸も今ではそんなことを感じさせないほど美しい街になりました。
20年という年月が過ぎるのを早く感じるとともに、それだけの年月を通って、先週成人を迎えた方もあります。先週成人式を迎えた方は、あの神戸の震災の時を知らないのかと、そのこともまたとても不思議に思うのです。
人は生まれて20年たち、二十歳になりますと、もう大人、成人したと言われます。自分で考えて、自分で判断できる年になったのだと。先週、娘が三歳の誕生日を迎えました。成人になるまで無事に育ってほしいと親としては願いますけれども、同時に、大人となるために何を教えなければならないのか、大切なことをしっかりと身に着けてほしいと心から願っているのです。20年という年月の間には、実に様々なことが起こります。震災のような予想もしない大きな災害に見舞われることもあります。保育園や、小学校、中学、高校と学ぶ中で、色々な知識を身に着け、生活習慣を身に着け、一人で生きるために大切なことを親の元で学んでいきます。
先週もお話ししましたけれども、主イエスは父と子の関係の中に自由があるのだとお語りになられました。それは、師と弟子との関係とも言われています。親の元にいて、大事なことを学ぶその中にこそ自由があり、その時に聞く、上からの言葉、権威ある言葉こそが、その人が自由に考えて行動するための土台になるのだと語りました。
もちろん、主イエスはそのようにお語りになりながら、その上からの言葉、父の言葉、恩師の言葉として語っている言葉は、実は神の言葉のことだと分かるようにお語りになられました。この、私たちを生かすために、私たちがまさに、大人として、どのような災害が身に降りかかろうとも、動揺しないでしっかりとした土台のうえに自由な生活を築き上げるために、この神の言葉を聞くことがどうしても必要なのだとお語りになられたのです。
私たちを真実に生かす神の言葉こそが、私たちのいのちを支えるものとなるのだと主は知っておられるので、そのようにお語りになるのです。
さて、しかし、このような主イエスの言葉を聞き続けていたユダヤ人たちは、最初は好意的に主イエスの話を聞いていた人もいましたが、だんだんと話を聞いていくうちに、次々に疑問がでてきたようです。
今日の箇所は、冒頭の48節で、ここまでの主イエスの話を聞いていたユダヤ人たちが主イエスにこう言います。
「私たちが、あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれていると言うのは当然ではありませんか。」
どうも、主イエスの話を聞いていた人たちは、主イエスはサマリヤ人で、悪霊につかれていると言い出したのです。というのは、この前のところで、主イエスがユダヤ人たちにあなたがたが父としているのはイスラエルの父アブラハムなのではなくて、悪魔だと言われたからです。先日の成人式も、多くの新成人が「今日からは自由にふるまうことができるのだと」と考えて羽目を外してしまった人たちが何人もいたようです。もちろん、今に始まったことではありません。毎年、毎年、同じようなニュースがこの季節になると流れます。もう、二十歳になったのだから自由だ、誰からも支配されることはない、誰からもとやかく言われる筋合いはないと思い込んでしまう人が出て来るのです。そうやって、「自分の思うままに生きることこそが自由なのだ」と考えるところに、まさに悪魔に付け入るスキを見せてしまいます。主イエスはユダヤ人たちに、あなたがたの父は悪魔だと言われたのは、まさにそのような人間の持つスキを見事に言い当てた言葉でした。ですから、ユダヤ人たちは、主イエスに、あなたがたは「悪魔の子だ」と言われて、ユダヤ人たちもあなたこそ「悪霊につかれているのだ」。もう、子どものケンカのように向きになって言い返しているのだと読むこともできます。
けれども、ユダヤ人たちの側からすれば違う見方もできます。
わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。
と42節で言われました。自分のことを、神だと名乗る人のことを、今でもそうだと思いますけれども、何も怪しまずに受け入れる人などおりません。しかも、このユダヤ人たちとの対話を見て見ますと、そう考えたのは52節に理由が書かれています。
「あなたが悪霊につかれていることが、今こそわかりました。アブラハムは死に、預言者たちも死にました。しかし、あなたは、『だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を味わうことがない。』と言うのです。
アブラハムは死にました。預言者たちも死にました。けれども、わたしのことばを守る者は死ぬことはないのだと、誰が語ることができるのか、気が狂っているとしか言えないではないかと、ユダヤ人たちは言うのです。ユダヤ人たちの語る言葉は実に筋が通っています。
主イエスを信じてもいいような気持になっていた人々が、話を聞いていくにつれて、あまりにもむちゃくちゃな話しぶりについていくことができなくなったというのは、無理もないのです。
しかも、ユダヤ人たちは、主イエスのことをサマリヤ人だと呼びました。これは、かつてイスラエルの国がダビデ王の時にはまだ分裂していなかったのですが、息子たちの代になって国が二つに分裂してしまいます。南ユダと北イスラエルです。今、祈祷会でエリヤの生涯を学んでいますが、このエリヤは北イスラエル、後にサマリヤと呼ばれるところで働いた預言者です。イスラエルはかつて12部族でしたが、分裂してから南ユダにはユダ族と、ベニヤミン族、そして他の10部族は北イスラエルとなって国の袂を分かちます。そして、北イスラエルはエリヤの時もそうですけれども、国の王が近隣の諸宗教を取り込んだために、イスラエル人たちが大切にしてきた神の戒めを軽んじ、近隣の異邦人と結婚し、また、異教の神を礼拝するようになります。それで、ユダヤの人々は、かつての北イスラエルを、サマリヤと呼んで、差別し、自分たちこそが真の神の教えを守る生粋のユダヤ人なのだという思いを募らせていったのでした。
ユダヤ人たちは主イエスの振る舞いを見ていて、これはサマリヤ人のすることで、悪霊につかれたもののすることだと結論づけたというのは、今で言えばとてつもない大きな差別意識を持っていたことの表れですけれども、実際にユダヤ人はそのように考えることによって、ユダヤ人の存在意義を見出してきたのです。ユダヤ人は、このように自分たちは神から特別に守られ、大切にされ、信仰を守り通して来た神の民だという自負がありましたから、それを捨てて他の神々を礼拝し、異邦人と結婚して神の戒めを軽んじたサマリヤ人を軽視したのも、そういうこれまでの歴史がその背景にあったためです。
ユダヤ人たちの視点から考えてみれば、可笑しいのはイエスのほうなのであって、まさに、このお方は「サマリヤ人で悪霊につかれた者」と判断をする以外にもはや考えられないほどに、主イエスの語られることに耳を傾けつづけることはできなくなってしまったのでした。
ずいぶんたくさんの説明をいたしましたが、この箇所で問われているのは、今のところからも分かるように、ユダヤ人たちは主イエスに対して、ある判断をくだしたということでした。これは、25節で主イエスに問いかけた「あなたはだれですか」という問いの結論と言ってもいいものです。
主イエスは、「あなたはだれですか」との問いに、すでに答えておられます。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」と12節で答えておられます。また、7章の仮庵の祭りの時には「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(38節)と言われました。五千人の給食の時には、「わたしはいのちのパンである」ともお語りになられています。
しかし、主イエスが語られたことは正しく理解されません。今日のところでも、話は「父とは誰のことか」が議論の中心になっていきます。
先程もあげましたけれども、52節で彼らは言います。
「あなたが悪霊につかれていることが、今こそわかりました。アブラハムは死に、預言者たちも死にました。しかし、あなたは、『だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を味わうことがない。』と言うのです。
アブラハムも、預言者たちも死んでしまっているのに、あなたの言葉を守るなら、その人は死なないと言う。ですから、53節でこう続きます。
あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのですか。そのアブラハムは死んだのです。預言者たちもまた死にました。あなたは、自分自身をだれだと言うのですか」。
ユダヤ人たちはとても整理された話しぶりをしています。その通りなのです。まさか、あなたは自分をアブラハムよりも偉大で、自分はその前からいたなどとでも言う気ですか。そういうならば、おかしくなっているとしか言えないと言うのです。
それにたいして、主イエスはこう答えられました。54節
イエスは答えられた。「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光はむなしいものです。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。この方のことを、あなたがたは『私たちの神である』と言っています。
主イエスの答えもまた実に整理されています。わたしは、自分はすごい人物なのだと大言壮語してそう語っているのではないのだと言われるのです。人は自分の栄光を求める時には、自分で自分のことを賞賛してみせます。しかし、栄光というのは、自分で自分をほめるところに与えられるのではなくて、「わたしに栄光を与えるのは、わたしの父なのだ」と主は言われたのです。
もう、今年に何度年間聖句について話したのか分からないほどですが、私たちに与えられている年間聖句にこう書かれています。
「キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。」ローマ人への手紙15章7節
キリストが私たちを受け入れてくださったことによって神の栄光が現された、とこのみ言葉は語っています。実際、主イエスの十字架による死は、主イエスの栄光のお姿ではありませんでした。むしろ、この地上からみれば敗北者の姿です。失敗者、落伍者の姿です。
十字架にあこがれる人などおりません。十字架は死刑の道具です。人を殺すための手段です。十字架が栄光だとは言えないのです。しかし、主イエスは、人を赦すために、人を受け入れるために、人の罪を身に受けて、言い訳をすることもなく、一人で十字架の死に耐えてくださいました。こうして、主イエスは神からも、人からも捨てられて完全に孤独な存在として、死にました。
一人の人間の十字架の死、そこに栄光などあるはずもないのです。しかし、神は、この主イエスの十字架を通して、人を受け入れ、人を赦し、人を愛するしるしとして、私たちに指示してくださいました。すでに示された神の愛の行為として、私たちはこの十字架を見ることができるようにされました。そして、神は、この主イエスの十字架を通して、人を愛されたことを、受け入れてくださったことを、私たちに伝えてくださったのです。
そのことを知って、この神の愛の業を受け取るときにだけ、この神の愛の業である十字架に光が射すのです。これは、神が私を愛してくださった証拠、わたしは本当に受け入れられ、神に捨てられることはないのだと確認することのできるしるしとなりました。そして、神はその時、栄光をお受けになる。人は神をほめたたえ、神の御業を感謝するようになるのです。
主イエスに与えられる栄光というのは、まさに神の忍耐と、犠牲の十字架によって明らかになるのです。
主イエスは58節でこう言われました。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」
もう、詳しい説明をしませんが、わたしことが神そのもの、神の意思のあらわれそのものなのだと宣言をなさいました。この「わたしはいるのです」という言葉は少し翻訳するには無理のある言葉です。もともとの言葉は「わたしはです」という言葉です。英語でいうと、「I am」という言葉、ドイツで言うと「Ich bin」という言葉です。本当はその後に何か続きませんと文章になりません。「I am なになに」、「Ich binなになに」、「わたしはなになにです」ではじめて意味が通じます。これは、こういいうふうに言うこともできます。「わたしはある」、「わたしはなる」、「わたしは存在する」とも言えるし、「わたしは何にでもなれる」という意味にもできます。そして、この言葉はそのまま、神ご自身を表す言葉として理解されてきました。ですから、ここで、主イエスはかつて「わたしはある」と語られた、あの神、そのものなのだとここで宣言をしておられるのです。
そして、この主イエスの高らかな宣言の言葉を聞いたとき、ユダヤ人たちは手に石をもって投げつけようとしたと59節に書かれています。もう、自らを神と同一視したこの男をこのままにしてはおけない、ほうっておくわけにはいかない。この男こそ、死罪に値する罪人だと判決を下したのでした。
思い返してみますと、このヨハネの福音書の第8章は初めに姦淫の女の裁きの場面から始まります。この時お話ししましたけれども、これは鉤かっこの中にくくられていて、この話は後から挿入された物語であったと言いました。けれども、こうして8章を振り返ってみますと、姦淫の罪を犯した女を裁くときに、彼らはみな手に石を持っていました。しかし、「あなた方のうちで罪のない者が最初に石を投げなさい」と言われ、皆、自分も罪人であると気づかされて一度は捨てた石を、彼らはもう一度握りしめ、その石は今度は主イエスそのものに向けられることになったのだという流れで書かれている構造がお分かりいただけるのではないでしょうか。
人はみな、自分自身の正義を持っています。自分が自由に生きられる道を求め、自分が栄光を受ける道に進もうとしています。しかし、主イエスはそのように生きる人の前に立ちふさがって、あなたの正義とは何か、あなたの自由とは何か、あなたは自分のために生きているのではないか、その生き方は、はたして神が願っている生き方なのかと、それまで問題意識を抱いていなかった人々の前に立ちはだかってくるのです。そして、人はある決心をする。そうだ、この男を殺してしまえばいいのだと。この男の言う言葉を聞かなければいい、そうすれば自分の好きにできるではないか。
実際のところ、クリスチャンであろうと、牧師であろうと、私たちが罪を犯す時には、いつもそのようにして、神の意志に目を向けないことにし、主イエスの意思を殺し、神の言葉にふたをし続けているのです。これこそが、罪です。人は主イエスと出会うなら、誰もがその罪を見つめることにどうしてもなるのです。
そうです。わたしが主イエスを殺したのです。私たちはいまでも主イエスを十字架にかけ続けている。神の言葉の与える自由を未だ、十分に味わえないでいるのです。だからこそ、父のもとに、神のみこころの中に生きることを学び続ける必要があるのです。そして、神がまさに、主イエスの十字架と復活に、私たちの喜びと平安を備えてくださったことを知り続けていくことになるのです。
お祈りを致します。