2015 年 1 月 25 日

・説教 ヨハネの福音書9章1-9節 「神の業が現れるために」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:39

2015.01.25

鴨下 直樹

ヨハネの福音書の9章に入りました。この9章は生まれつきの盲人が主イエスによって癒されたことを巡ってなされた出来事が記されています。冒頭の1節でこう記されています。

またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた

何でもないようなことですけれども、この部分にすでに「主イエスはどのような思いでこの生まれつきの盲人を見られたのか」ということを、これを読む私たちにも問いかけています。というのは、続いてこう記されています。

弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」

こういう箇所を読みますと私などは少しドキドキしてしまいます。ここで、この会話が目の見えない人の耳に直接聞こえてしまったのではないか。そんな心配を持つのです。目の見えない方というのは、耳の発達がずいぶん違います。以前私が神学生の時に奉仕していた教会で目の見えない方がおりました。当時はまだ礼拝説教をカセットテープで聞いておりましたけれども、この方は高速で再生できる持ち運びのできる特別なカセットプレーヤーを持っておられて、説教のテープを高速で再生して数分で聞いてしまうのです。私はそれを聞かせていただいたときに、まるっきり聞き取れません。私が「この速さでわかるんですか」と聞きますと、「普通でも本を読む時に声を出すスピードでなんか読まないでしょ。目で読む時はずっと早いはずです」と言われて深く納得したものです。目の見えない方は音を聞き取る能力と鼻で匂いをかぐことに優れている方が多いと聞きます。

ですから、もし、この時の会話がこの目の見えない人に聞こえたらさぞかし傷ついたのではないかと考えてしまうのです。それくらい、弟子たちは無神経にこの人を見ていたと思います。

けれども、ここで弟子たちが質問している内容そのものは私たちにも良く分かることです。この人の目が見えないのには何か理由がある。特に、「因果応報」などと言いますけれども、この人の罪のせいでこうなっているのか、あるいは両親や、祖先の罪でこうなっているのでしょうかと、弟子たちは尋ねたのです。みなさんもよくご存じのことだと思いますけれども、聖書にはこの「因果応報」を認めるような記述がいくつか書かれています。

先日も祈祷会で出エジプト記の34章を読みました。ちょうど読んだところにもこのように書かれておりました。6節と7節です。

主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」

このように恵みは千代までも保たれるけれども、咎は三代、四代と続くと語られているのです。ですから、弟子たちも因果応報ということに疑問を持ちながら主イエスに問いかけたわけではありません。因果応報、先祖の罪が子に受け継がれることは当然のように理解していました。ですから、質問は、この原因はだれにあるのかということだけに関心があったのです。どこかで、この問いかけは他人事としての問いです。この人の耳に入ったらどれほどこの人を深く傷つけることになるかなどということには、弟子たちの思いは至らないのです。

そして、これは、弟子たちだけではなくて、私たちもこの弟子たちとさほど大差はないのではないかと思うのです。というのは、この人はこんな話を耳にすれば傷つくだろうということは思いやることができたとしても、この盲人の抱えている闇を私たちは見ようとはしていないと思うのです。

私が神学生の時のことですけれども、いつも夜の祈祷会にこの盲人の方が来ておりました。その日は私が聖書の話をする当番になっておりまして、最初の司会もいたしました。その当時、その教会では聖歌を使っていたのですが、わたしはそこで聖歌451番の「神なく望みなく」を選びました。ご存知の方もあると思いますけれども、その讃美歌はこういう内容です。「神なく、望みなく、さまよいし我も、救われて、主を褒むる身とされたり。われ知るかつては目しいなりしが、目明きとなり神を褒む、今はかくも」

私は歌いながら、すぐに聖歌のタイトルのところに、鉛筆でバツ印を付けました。この方のいる前でこの聖歌を選ぶことのないようにしないといけないと思ったからです。

いまはこの「めしい」という言葉は差別用語ということで使わなくなりました。聖歌も新聖歌に変わりまして「めしいなりしが」のところは「われ知るかつては目みえざりしが」となっています。この聖歌を歌いながら、この方を傷つけてしまったのではないかと思ったのです。

この方の抱えている悲しみを私は知りません。ですからそこに触れないほうがよいと思ったのです。ところが、これには後日談があります。何かの記念の集会をしたときに、この方が、私の一番好きな聖歌は451番とご自分で言われたのです。これは、私の歌だと言われたのです。しかしながら、私にはすこし疑問がありました。「かつては目が見えなかったけれども、今は見えるようになった」とこの賛美は歌っているのです。けれども、あなたの目はまだ開いていないではないか。まだ目が見えるようになったわけではないのに、どうして、そのように喜んで歌うことができるのかと不思議に思ったのです。私はその方に尋ねました。どうしてこの歌が好きなんですか、私は、傷つくことがあるといけないと思って選ばないようにしていましたと告げると、不思議そうな顔をしてこう言われました。「私達はみな一緒でしょ」と。私のその時の衝撃は忘れることができません。そうだったと気づかされたのです。自分はどこかで見えてると思っているのだと、そのときに気付かされました。私も見えていないのだ、この人と、私との間に何の違いもないのだということに、改めて気づかせられたのです。

私も、この弟子たちも何にも違っていないのです。自分は見えていると思っている。だから、この人はなぜ、見えないのか、誰の罪なのかと問うているのです。けれども、まさに、その罪ゆえに、私たちは見えなければならないものを見ていないのだということに気付かないでいるのです。

そういう意味で言えば、因果応報ということも、自分の罪であるがゆえに、見なければならないものが見えないということは言えるかもしれません。しかし、もちろん、主イエスはここで因果応報ということをはっきりと否定しておられます。弟子たちの質問に対して主イエスはこう答えられました。

イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです

3節です。

この説教のために何年か前にこの芥見教会にも来ていただきました加藤常昭先生の説教を読んでおりました。そこに、ある教会での伝道集会でのことが書かれていました。土曜の夜に伝道集会がありまして、そこで説教をなさいました。その説教の後で、少し時間があるからということで質問を受け付けることになったのだそうです。そうすると、一人の婦人が「因果応報ってありますか」と明るい声で質問されたのだそうです。元気な声だったので、加藤先生はキリスト者だと思ったそうです。そこで、われわれの信仰には因果応報はないと、かなり丁寧にいくつかの聖書を開いて説明をされました。後で、その教会の牧師に聞いてみるとその方は新来会者だということでした。そして、その翌日の日曜日もその教会の礼拝で加藤先生が説教をしました。説教が終わって、帰りに玄関で帰られる方に挨拶をしていると、昨日質問をされたご婦人がにこにこしながらやって来て、「洗礼をうけます」と言われたのだそうです。それで、その教会の牧師に話して、昨日教会に来たばかりで洗礼を決意するには早すぎると思いながら、牧師とゆっくり準備するようにすすめられたのだそうです。その時に、「それにしてもなぜそんなに早く決心をなさったのですか」と加藤先生が質問しました。すると、その方は、「実は先ほど先生がお説教をしている間、ぐっすり眠れたので」との答えがかえってきたそうです。まさか、説教でぐっすり眠られたので信仰の決心をしたというのは今後もないだろうと加藤先生は思われたそうですけれども、それにしてもなぜなのかともう一度尋ねると、こんなことを答えられたそうです。実は、自分の家族と友人は因果応報ばかりを教える宗教団体に属している。ところが、このご婦人だけがそれを受け入れていない。しかも、家族の中に不幸が続いた。すると周囲の人はあなたのせいだと言う。あなたが先祖の供養もしないでいるからだと言う。しかし、その方はそれを受け入れることができない。それからとれもつらくて二年間ほど眠ることができなかったということでした。ところが、昨晩加藤先生が「因果応報はない」と言われて安心して眠ることができた。そして、日曜の朝も説教を聞きながらまた安心して眠ることができた。もちろん、加藤先生はこれを聞かれて、説教の間ずっと眠っていたわけではないだろうと思われたようです。それにしても、因果応報ということがどれほど人を苦しめているかと改めて考えさせられたと語っておられるのです。

主イエスは言われます。その人の目が見えないのは「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」と。人には様々な闇があります。生まれたときから病を患っているということがあるでしょう。あるいは、自分の育った環境が厳しい環境でということもあるでしょう。あるいは、環境は整って生まれて来たのにも関わらず、人知れず苦しむことがあったということだってあるのです。人からはうらやましがられる生き方に見えたとしても、自分としては大きな闇を抱えてきたということだってあると思います。なぜ、こうなってしまったのか。親が悪い、周りが悪い、環境が悪い。育った地域が、我が家の経済状況が、いや自分が犯してしまった過ちもあるかもしれません。この世にはそのように誰もが様々な闇を抱えて生きています。そして、多くの場合、それを人に打ち明けることもできないまま、なぜこうなってしまったのかと、一人で闇を抱えながら嘆いていることがあるのです。

主イエスは続いてこう言われました。4節です。

わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。

興味深いことに、ここで主イエスは「わたしたちは」と言われました。実は最近のいくつかの聖書の翻訳では「わたしは」となっているものが多いのです。ここだけ「わたしたち」となっているのは不自然なのです。聖書のもとになっている写本の中にも多くのものが「わたし」となっているものがあるのです。けれども、そうは言っても、私たちに与えられている聖書は「わたしたち」となっています。これは、主イエスおひとりの言葉ではないと、古くからそのように読まれてきました。つまり、直接的にいえば、この福音書を書いたヨハネの教会、そこにいた多くの弟子たちも含まれていると読まれてきたのです。「わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません」主イエスおひとりが、闇から解き放たれて、昼の世界に生きているのではなくて、教会の人々もその闇の世界を打ち破って生きるように招かれている、そのように教会は読み続けてきたのです。

ここでもそうです。主イエスの弟子たちには闇があります。目の見えない人の心を思いやる心が欠けているのです。自分は大丈夫だと思っているのです。これは、私のことではない、自分は、ここでは苦しんでいない。これは、この人の闇だ、この人の家族が抱えている闇、それは仕方がないことだと思っている。それは、この人が抱えるべき闇なのであって、それは私が負うことではない。そう考えながら、自分の闇についてはことさらに大事に抱えて、この私の悲しみは、私の闇は誰にも分からないのだと、自分の闇を自分で大きくして、それを理解してくれない周りを非難することで自分を保とうとしてしまうところが私たちにはあるのです。

けれども、主は言われるのです。「私たちは、主イエスを遣わしてくださった光の神のわざを行う。光の中に生きる。昼の世界に、神が支配してくださるところに生きたらよいのだ」と主イエスは私たちに語りかけて、私たちを昼の光の中に生きようと招いてくださるのです。

そして、主イエスはそう言われながら、地面につばきをして、そのつばきで泥をつくられました。そして、その泥を盲人の目に塗って「行ってシロアムの池で洗いなさい」と言われました。この「シロアム」というのは「遣わされた者」という意味だとここに書かれています。そこで、この人は見えるようになるのです。目が開かれて、闇から解き放たれたのです。神が与えてくださる光を味わうのです。私が神学生の時に、盲人の方に言われたように、誰もが、このお方と出会うことによって、その人の闇を取り除かれるのです。因果応報という闇、自分は仕方がないのだと思い込まされてきた闇から、主イエスは私たちを自由にするのです。シロアムの池まで行って、目を洗う姿はまるで洗礼を受けようとする姿だと、かつて古代の教父、教えの父と書きますけれども、アウグスティヌスが言ったそうです。まさに、加藤先生が言われた因果応報で苦しんでいた方のように、わたしたちも、神に遣わされた方のところに行くことによって、私たちは光を、神がもたらしてくださる昼の光を味わることができるようになるのです。この主イエスと共にいるならば、私は闇に支配されてなどいないと言うことが出来るようになるのです。

なお、目が見えることからは癒されていなくとも、なおも、自分の身にふりかかっている闇の状況が変わらずにそこにあるのだとしても、神がそこで、私たちの目を見えなくしているものを、闇を取り除いてくださるのです。

「神のわざがこの人に現れるために」と、主イエスは言われます。主は、闇に生きているものをご覧になられて、その人自身に神のわざが現れるようにしてくださるのです。この目の生まれつきの盲人の人になさったように、私が出会った目の見えない方になさったように、加藤先生が出会われた因果応報で苦しんでいた方になさったように、私たちにも、神の光を、昼の明かりを見ることが出来る者としてくださるのです。

お祈りを致します。

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