2015 年 2 月 1 日

・説教 ヨハネの福音書9章1-34節 「大人の信仰」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:47

2015.02.01

鴨下 直樹

今日の説教題を大人の信仰としました。どういう意味だろうと思われた方があるかもしれません。教会の前を自分で通り、掲示板に掲げられている説教題を見ながら、これを見た町の人はどんなことを考えながらこれを読むのだろうかなどと考えました。

「大人」と言う時の一つの明らかな意味は「自立した」という意味です。自分で自分のしたことの責任がとれるということです。先週礼拝のあとで、Mさんから今イスラム国で拘束されている後藤健二さんのために祈り続けてきました。あれから一週間たちました。今朝、私たちは先ほどの祈りにもありましたけれども、悲しい知らせを聞くことになりました。後藤さんは、ご自分で初めに映像で、自己責任で行くのだと話しておられました。そのために、テレビやインターネットでも初めの頃は自己責任だというようなことがずいぶん言われていました。けれども今回の出来事は自分で考えられる限度を超えております。私たちはそういうなかで、自己責任、大人として行動するということの意味を突き付けられる一週間であったということができると思います。

まさに、今日の聖書の中でも、「大人」という言葉が出てまいります。盲人が主イエスによって目が開かれるようにされました。大勢の人々はこの目の見えない人を街中で見ていたはずです。心を痛めていたはずです。中にはこの人に施しをした人があったかもしれません。しかし、この人が癒されると人々は癒されたことを喜ぶのではなくて、誰が癒したのかという議論になってしまいます。そして、ついには両親まで無理やり引きずり出されて、どうして見えるようになったのかと問いかけられるのです。そして、いわば苦し紛れに言った言葉が23節の言葉です。

「あれはもうおとなです。あれに聞いてください」

と答えるのです。

明らかに、ここで語っている意味は、「自分で判断できるおとなですから、あれに聞いてください。私たちは関係ないのだと答えたのです。両親であるにも関わらず、自分との関わりを否定するかのようにして、あれは自分で責任を取れるのですから、私とは関係ないのですと言っているのです。

今、世の中がニュースにくぎ付けになりながら問いかけられています。「自己責任」というのはどういうことなのかと。そして、その中の多くの人々が、そこでそれは自分には関係のないこと、関わりを持ちたくないという意味で、自己責任だという言葉を使っていることが、少なからずあるのだということを考えなければなりません。

そこにあるのは、目の見えなかった人のことを可哀想だと思っても、それが、自分の生活と関わりがでてきそうになると、あの人と私は何にも関係はない。その人はもう大人で、自己責任ですべてやったことなのだから。だから、私の生活に介入しないでほしいと言っている、この盲人の両親や、ここに出て来るパリサイ人たちと同じことになっているということに目を向ける必要があるのだと思います。

と言いますのは、22節にこのように記されています。

彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである。

少し説明をする必要があるかもしれません。この時代に生きたユダヤ人たちが会堂から追放されるというのは、今後何か起こった場合には法的、あるいは、共同体の保護をうけることができなくなるということを意味しました。強盗や物獲りに襲われる、家畜の水場、さまざまなものをみんなで管理しながら助け合っていた時代です。ですから、そういった社会保障を失うということは、そのまま死と生活が直結することを意味していました。土戸清というヨハネの福音書の大変すぐれた研究科がおります。その方が、この時代の背景をかなり詳しく説明してくれているのですけれども、この時代、ユダヤ人たちは自分たちの生活のための制度を整えるために、紀元80年代にユダヤ人たちはヤムニアで宗教会議を開きました。実は、この少し前のことです。紀元66年から70年にユダヤ人たちは独立戦争を試みます。そして、そこで敗れてしまいまして、ユダヤ人たちは国を失ってしまいます。紀元70年にローマによってエルサレムが陥落してエルサレムにありました神殿も崩壊してしまいます。それで、エルサレムにありました宗教議会、サンヘドリンと言いますけれども、この議会をヤムニアという小さな村に移します。この時代、70年から115年頃のようですけれども、ユダヤ人の中に二人の宗教的な指導者がおりました。ヨハン・ベン・ザッカイとラバン(ラビの長という意味だそうです)・ガマリエルです。この二人はユダヤ人たちを非常にうまくまとめていたので、当時のローマ帝国はユダヤ人の指導者たちに任せたほうがいいと言うことで、この人々のすることを黙認します。そして、この時代、このサンヘドリンの宗教会議の聖書解釈だけが正統的なものとみなすという既成事実が作り上げられたのだそうです。

それが、今日の聖書箇所と関わっているのですが、土戸先生によると、この時代、ユダヤの会堂で唱えられた十八祈祷というものがありまして、その一つ一つを祈るたびに、みなでアーメンと唱えたのだそうです。その12番目の祈りにこういう祈りがあるのだそうです。

「背教者たちはいかなる希望もありませんように。その傲慢な支配は速やかに、私たちの時代より根絶されますように、根こそぎ無くなりますように、キリスト者たちと異端者たちは一瞬にして滅ぼされますように。いのちの書から彼らは抹殺され、また義なる者とともに、彼らが記録されることはありませんように」。そう唱えると会堂ではみなが「アーメン」と言ったのだそうです。

それが、今日のところの22節に出てきています、「イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである。」は、そういうことが背景にあったのだそうです。

ですから、この盲人の両親にしてみればいつも会堂で祈っていて、アーメンと言っていた事柄が、自分の息子の身に降りかかってきたということは、自分たちがユダヤ人社会から締め出されるという危険をふくんでいたのです。

そして、もう一つ問題があったようなのですが、それは、どうも主イエスが目を癒される時に、「地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って」と6節にあります。しかし、どうもこれをしたのが安息日であったと14節に書かれています。

今日の箇所にはこの盲人への事情聴取が行われています。10節で、「あなたの目はどのようにしてあいたのですか。」とはじめに問われます。そこで、この人は主イエスが泥を目に塗って、シロアムの池に行って洗いなさいと言われたと答えます。

すると、この日は安息日なのだと告げられると、15節でこう答えます。「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです」と答えるのです。

すると、このあたりから今までユダヤ人と書かれていたのが、だんだんパリサイ人たちというように書き換えられていますが、パリサイ人たちはこう答えます。

「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ」

事情聴取はまだ続きます。17節。「あの人が目をあけてくれたことで、あの人を何だと思っているのか。」彼は言った。「あの方は預言者です」そして、両親が呼び出されて来て、先ほどのような会話になっているのです。

もうお分かりかと思いますが、これはまさに裁判がここで始まっているのです。目が見えるようになった人を巡って、そのことをだれ一人として喜ぶのではなくて、この出来事から癒されたこの人に対して、なぜ、あなたは「癒されてしまったのだ」と問いかけているのです。

自分の生活の外側にいたときは、人はそれを簡単に拒むことができます。他人事のように非難することもできます。しかし、自分の生活の中に主イエスをめぐる出来事が入り込んでくると、人々は必死になって、これに抵抗します。そして、目の前で起こった目が見えるようになったという事実を、何とかしてなかったことにしようと慌てふためくのです。

けれども、主イエスの御業は、私たちの生活の中に入り込んでくるのです。

24節から34節は最後の裁くパリサイ人と裁かれている目の見えるようになった人との対話がしるされています。この部分は大変面白く書かれています。

パリサイ人たちが言うのです。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」すると、彼は答えます。

「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」25節です。

そして、もう一度どのようにして目が明いたのか尋ねますと。この人はこう答えます。「もうお話ししたのですが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのです。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」

見事と言うほかない切り替えしです。すると、パリサイ人はこう宣言するのです。

「おまえもあの者の弟子だ」と。

この人は事実を答えただけでした。けれども、結果として、あなたは主イエスの弟子なのだと、パリサイ人が認めて告白をしてしまうのです。こうなると会話はどんどん進みます。そして、この人は、自らの口で、この方こそが神なのだと告白して、堂々と追い出されてしまうのです。

先ほどまで目の見えない哀れな病める人であったのに、ここでは、見事にパリサイ人たちと論争を終え、自らの信仰を宣言して、会衆から追い出されることをも恐れないで、どうどうと追い出される人へと変えられているのです。これはもう見事としか言うほかないほどの変わりようです。

先日の祈祷会で主イエスの弟子というのはどういう者のことなのかということが話し合われました。今日の17節にもありますけれども、預言者とはどういう者なのかという議論がきっかけでした。今、祈祷会でエリヤとエリシャの生涯を学んでいます。先週、ちょうどエリヤがエリシャに自分の外套をかけて後継者に任命したところでした。そこから、主に仕える人、弟子とはどういう者のことかという話になったのです。

主イエスの弟子たちはすべてを捨てて従って行きました。弟子というのはすべてを捨てて従っていく者のことで、自分は主イエスを信じて十分の一の捧げものもしているけれども、すべて捨てろと言われると出来ない。だから、自分は弟子とは言えないのだとある方が言われました。

多くの方が考えることなのだと思います。自分の家も、家族も捨てて主に従ってどこへでも行く。それが弟子なのであって、自分の分を残したままで従う自分の信仰は十分とは言えないとそう感じるのだと思います。

今日の説教題を大人の信仰としました。ここで、この癒された人は、ここからまさに大人として生きることが強いられます。ユダヤ社会から追い出されているという状況に最初から立たされます。もちろん、大変なことが沢山あるのだと思いますが、主と共に生きるなかで、いろいろなことを学ばされながら、生きることになるのでしょう。けれども、はっきりしていることがある。それは、見えるようになったということです。主とともにある生活、生き方が見えるようになったのです。そして、生きる中で、さらに見えてくる歩みでもあります。

大人の信仰というのは、主とともにある生活が見えるということです。その状況が厳しかったとしても、自分はその道を歩むのだと生きる。後藤健二さんもその一人です。そして、私たち一人一人もそうです。いきるところは違います。生活するところは違います。求められていることも違います。しかし、主が共にいてくださる生活が見えている。財産を捨てても大丈夫だと見える人もいるでしょう。妻と家族を国に残して旅立つということが大丈夫なのだと見えるひともいるでしょう。キリスト者ではない夫に仕えながら、教会生活を続けることができると見ながら歩む人もいるのです。あの人のようでないから、自分はダメなのだと、人との比較は意味がありません。ただ、主と共にあって歩むのみです。

その生き方の中に、私たちは自分の生きる道を見出していくのです。何が見えているのか、それは一人ひとり違っていいのですが、主はこのかつて目の見えなかった人にしてくれたように、私たちにもしてくださるのです。そして、神と共に生きることの確かさを、私たちに思い描くことができるようにしてくださるのです。

お祈りをいたします。

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