2015 年 2 月 8 日

・説教 ヨハネの福音書9章35-41節 「見えないものを、見る信仰」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:53

2015.02.08

鴨下 直樹

今日の説教題を「見る信仰」と告知しておりましたけれども、週報を作るときに「見えないものを見る信仰」と改めました。「見る信仰」も面白いと思ったのですが、少し言葉が乱暴な気がしたので直しました。けれども、「見えないものを見る」というのも、言葉だけを聞きますとやはり乱暴な言葉です。見えないものを見ることなど普通は出来ません。

みなさんも子どもの頃、理科の実験で顕微鏡を使った時や、反対に望遠鏡で宇宙を見た時などに興奮を味わったことがあることと思います。普段、私たちの肉眼では見えなくても、特別なレンズを通してみると、見えないものを見えるという経験をします。

今ヨハネの福音書の9章を学んでいます。この9章は盲目の人、目の見えなかった人が、目が見えるようになったことを巡っての出来事が記されています。そういう意味では、この目の見えなかった盲目の人は、見えるようになるということに憧れを抱いていたに違いありません。自分の知らない世界がある。まだ、味わったことのない「見える」ということに心惹かれていたに違いないのです。

日本に何度も足を運んでくださったルドルフ・ボーレンというドイツの神学者がおります。芥見教会で何年か前に加藤先生を講師にお招きしたことがありますが、この加藤先生がドイツの神学大学におられた時に、このボーレン先生と一緒に説教学を教えておられたこともあって、私も出席しておりました説教塾という牧師たちの説教の研修の場で、ボーレン先生が講演をされたことがあります。通訳は加藤先生がなさいました。

もう二十年も前になりますが、東京と名古屋でこの講演が行われましたので、私も直接ボーレン先生の講演を聞くことができました。その時になさった講演が後で本になりまして「憧れと福音」というタイトルがつけられました。今でも書店で買うことができます。とても素晴らしい本です。日本をとても愛した人で、何度も日本に足を運ばれました。そのときなさった講演でこんなことを言われました。「人間の中には一つの憧れへの思いが眠っています。それは、自分ではない人格、まだそれになっていない人格、しかしそうなりたいと思っている人格を求めています。おそらく、すべての憧れの思いのなかに潜むのは、自分自身が変えられる思いです」

この講演はその後で色々なところで語られるようになりました。多くの気づきを日本中の牧師たちが与えられたのだと思います。

今日のヨハネの福音書の九章に出て来る目の見えない人だけではありません。誰もが、変わりたいと言う憧れをいただいて生きているのだと思います。連日、テレビのニュースで見る世の中を騒がせている人たちの中にも、この思いはある。人を殺してしまう。覚せい剤に手を出してしまう。自分でしたいたずらをインターネットに流してしまうような少年でさえ、自分は変わりたいのだという自分の心の中にある叫びがそこに見て取れます。

ここで、目の見えなかった人は、主イエスに癒されて、まさに別の人格になったかのような大胆さを見せてくれます。前回の終わりのところでお話ししましたけれども、この目が見えるようにされた人は、外に追い出されてしまいます。会堂から追い出されるということは、生活の保障がなくなるということを意味していました。けれども、この人はそれを受け入れて出て行ったのです。

そして、今日のところは、この後の出来事が記されています。35節にこう書かれています。

イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」

ここを読むと驚きを覚えるのですが、ここで目の見えるようになった人は、大胆にもユダヤ人たちのところから出て行ったのですが、主イエスに従って行ったというのではなくて、主イエスのほうから、追い出されたこの人を探し出してくださったと書かれています。

見えるようになったこの人の新しい人生のスタートを、この人はどのように考えていたのか、それは想像する以外にありません。もちろん、主イエスのところを訪ねたと思いますけれども、ここで、主イエスのほうからこの人に声をかけたのだと書かれているのは、とても大切なことだと思います。主イエスが、この新しく生きるようになった人に目を留めていてくださるのです。それが、ここに書かれている「見つけ出した」という言葉の意味です。主が見ていてくださるのです。

このヨハネの福音書の第九章で、主イエスはご自分のことを、「わたしが世にいる間、わたしは世の光です」と紹介しています。5節です。実はこの言葉は、この9章を理解するために、このことはとても大切な意味を持っています。というのは、この「見つけ出される」ということと、主イエスの光に照らされるということは同じ意味があるからです。

これは、信じるということも同じ意味だと考えてくださっていいのですが、自分で主イエスはこういうお方なのだと見つけ出したというのではなくて、主イエスに見出されて、主イエスの光を受けて、その光の中に生きるようになったのです。

先日もある神学生と話しておりまして、その方がどのようにして信仰に導かれたのかを聞いておりました。聞きながら、自分の身に降りかかった経験談を色々と話してくれるのですが、いっこうに主イエスとどのように出会ったのかということが見えてきません。その中で、その方が何度も口にした言葉があります。それは、「イエス様を100%信頼して救われる」と言ったのです。私が、君は主イエスを100%信じているのかと聞き返しますと、いや、自分は不完全な者だから完全に信じることはできないと言います。では、信じていないのかと聞き返しますと、いや、信じていますと答えます。かなり、長いやりとりをしました。その方も自分の信仰が疑われていると思ったのかもしれません。そして、ついに、私は主イエスから信仰を頂いているのですと言いました。それで、それならば、100%信じているなどという言い方はやめなさいと言いました。大切なことは、自分のほうがどれだけ信じているかということではなくて、主イエスに見出されている、主イエスの放つ光に包まれているということが大切だからです。

というのは、ここでも、主イエスはご自分が見出されたこのかつて見えなかった人にこう尋ねました。「あなたは人の子を信じますか」。少し人の子という意味を説明する必要があるかもしれませんが、マタイの福音書、マルコ、ルカの福音書それぞれに「人の子」という表現がでてきます。その場合は、旧約聖書に約束されていた「来たるべきお方」という意味があります。けれども、ヨハネはこの「人の子」という言葉を、そのような意味とは違う意味で使っています。まさに人として生きておられるお方が、この世界の救いの裁きの権限をもっておられる神なのだという意味で使っています。

ですから、この主イエスの問いかけに対して36節

その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように」

と答えます。すると、主イエスはこう言われます。37節。

イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」

主は、あなたはまさに、救いをこの世界にもたらし、人として生きておられる神そのものをもう見たのだと言われました。あなたはもう見ている。あなたは、他の人が見えていないものが、私と出会っている間にもう見ているではないかと、その人の中にある信仰を主イエスが見出してくださっているのです。

そして、この人は「主よ。私は信じます。」と答えます。信仰の告白がこの人の口からでるようになさったのです。

主イエスはこのように、人に光をあたえ、見えるようにしてくださいます。神が与えてくださる救いとは何かを見えるようにしてくださるのです。実際的に、ユダヤ人の会堂から追い出されて、生活の支援がなくなってしまったとしても大丈夫だという、これからの生活が見える。主イエスの光に照らされて、この方とともにいることによって私は神の救いをうけることができるのだということが見える。そのような、これまで見ることができなかった、目に映るものだけでなくて、見えない神と共にある生き方までもが見えるように、主イエスはこの人に光を与えられ、そして、主イエスを信じる信仰を与えられたのでした。

「はい、信じます」という言葉は、それを「はい、たしかに貰いました」と同意したということです。つまり、信仰というのは、自分が疑いなく100%信じれたということなのではなくて、神のご真実、それこそ、100%神の真実ということ以外のなにものでもないのです。神が光をそそいでくださるのです。神が信仰を与えてくださるのです。神が真実を行ってくださる。そのすべての神の御業を、受け取ることができるようにしてくださることを、教会では信仰と呼んでいるのです。

主イエスは言われます。

「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」

これこそが、人の子と言われた主イエスの御業なのです。見えるようになりたいと憧れをいだいていた者に、見えるように、本当に見るべきものが見えるようにしてくださるのが、主の御業なのです。

この物語の最後に、またパリサイ人が出てまいりまして、主イエスに問いかけています。

「私たちも盲目なのですか。」40節です。

主イエスは答えます。

「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」

何を言っているのか、わからないような気がしますが、それほど難しいことを言ってはいません。パリサイ人たちは、自分たちは見える、自分たちは神の御思いがなんであるのか知っていると言っているのです。本当は見えていないのに、本当はわかっていないのに、ここに幸せな生き方がある、ここに救いがある、こうすればうまくいくのだと誇っている。しかし、あなたがたは見えてはいない。それこそが、罪なのだと。

これは、パリサイ人に限ったことではないのです。テレビでも、書籍でも、インターネットにでも、私たちの周りには、こうすれば人生はうまくいくのだと言って、まるで自分たちは見えているのだと嘘ぶくもので満ち溢れています。

こうすればしあわせになれる。こうすれば健康になれる、こうすればお金持ちになれる。こうやれば老後は安心して生きることができる。まるで、そういう生き方がすべてであるかのように、健康で、お金があって、長生きできれば、それこそが人の救いなのだと、私たちの周りの世界は、救いではないものをさぞ素晴らしいものであるかのように思いこませています。そして、多くの人々は、そのようなものを手にいれることに必死になってしまっています。しかし、それは、見えているのか。本当に見えているのかと、主イエスは問いかけておられるのです。

この世界の光だとこの世が高らかに宣伝するものの中に、真の光があるのではありません。ただ、主イエスの光に、主イエスに見出されることの中にのみ、まことの光があるのです。

お祈りをいたします。

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