2015 年 3 月 15 日

・説教 ヨハネの福音書10章22-30節 「永遠のいのちを与えるお方」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 15:57

2015.3.15

鴨下 直樹

 

先日ある方からこんな電話の相談を受けました。来年から学校で旧約聖書続編付きの聖書を使うので、それを買い求めるように言われたのだけれども、この旧約聖書続編というのはどういったものなのでしょうかというのが、その方の質問でした。この旧約聖書続編というのはいったいどういうものなのか、多くの方も気になっておられるのではないかと思います。

私たちの教会の多くの方は礼拝で新改訳聖書を使っております。中には新共同訳聖書といいますけれども、カトリックとプロテスタントの聖書の専門家が一緒に協力をして翻訳をした聖書ですが、この聖書をお使いの方もおられます。この新共同訳聖書は、今多くのミッションスクールなどで使われております。この聖書はカトリックと一緒に訳したことと関係するのですが、カトリック教会がこの旧約聖書続編と言われているものを正典と同じように扱うために、新共同訳聖書では従来の旧新訳の聖書と、それに続編を付けたものとの二種類が取り扱われています。いわゆる福音派と言われる教会、私達もこれに属しておりますけれども、普段この続編についてはまるっきり取り上げませんので、聞いたことがない方がいても不思議ではありません。

少し説明をしておきますと、旧約聖書はマラキ書で終わっています。そして、新約聖書、特に主イエスの誕生までの間、約400年間、聖書にはこの間の出来事が記されておりません。この旧約聖書の続編と言われるのは、この400年の間、それを「中間時代」といいますが、この間に記されたいくつもの書簡が収められています。特に、何か怪しげな書物が含められているという訳ではありません。この時代の資料としてむしろ非常に重要な記録がいくつもおさめられていますので、もちろん、私たちはこれを他の正典と同じようには扱いませんけれども、読む分には非常に面白いものです。

その中でも、特にマカバイ記というものがありますが、ここには、イスラエルがアレキサンドロスというマケドニアの王の支配の後に、アンティオコス・エピファネスというシリアの王がエルサレムを占拠します。この時のユダヤ人たちの戦いの記録がここに記されています。このアンティオコス・エピファネスという名前は1月8日にエピファニーと呼ばれる日があります。キリスト顕現祭と言われている日ですけれども、この神の顕現、神がこの世に現れたというエピファニーという言葉を自分の名前にした人です。名前からしてすでに自分は神の再来であるのだと現した人物でしたから、イスラエルへの迫害は大変厳しいものでした。この前のアレキサンドロス王、私達になじみのある名前はアレキサンダー大王として知られていますが、このアレキサンドロスなどは、信仰の自由を認めた人です。しかし、このエピファネスは徹底的にユダヤ人を迫害します。たとえば、エルサレムの神殿ではユダヤ人たちが汚れているとした豚をいけにえとして捧げさせたり、あるいは、割礼を禁止します。割礼を子供にほどこした親を殺害するという徹底ぶりです。そして、戦争の時はユダヤ人は安息日には働かないことを知って、安息日に戦争をしかけて、千人を殺害します。そこで、ユダ・マカバイという人物が立ち上がって、このアンティオコスからエルサレムを奪い返します。

よく表彰式などの時に使われる曲で作曲家のヘンデルが作りました「ユダス・マカベウス」というオラトリオの凱旋の音楽を聞いたことがあると思います。この曲は、讃美歌にもなりまして「いざ人よほめまつれ」という讃美歌で、私達にも非常になじみの深い曲です。

 

なぜ、牧師は説教の時に、聖書続編の話をするのかと不思議に思われる方があるかもしれませんけれども、この続編と呼ばれているものを読んで、聖書の背景をしることはとても重要な意味を持っています。

と言いますのは、今日のヨハネの福音書10章の22節からエルサレムで「宮きよめの祭り」があったと記されています。それこそ、新共同訳聖書では、「神殿封建記念祭」となっています。実は、この日は、マカバイ記に記されています、ユダ・マカバイが神殿を取り戻した記念日、つまり「宮を清めた日」なのです。今でもこの祭りは続いていまして、「ハヌカの祭り」として祝われ続けています。

 

さて、この宮きよめの祭りの時に、ユダヤ人たちは主イエスにこう尋ねました。24節

それでユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。」

ここで、はっきりと主イエスがキリストなのかどうかをユダヤ人たちは問いかけています。イエスとは何者なのか。実は、この前の部分7章から10章のこの前の部分までで、このヨハネの福音書はそのことをひたすら描き続けてきました。7章からこの前の10章21節までは仮庵の祭りの出来事です。この祭りの間に、主イエスはご自分が何者なのかをずっと語り続けてこられました。ですから、主はここで続いてこう答えられました。25節26節。

イエスは彼らに答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行うわざが、わたしについて証言しています。しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。

私の羊でないものは、私の言葉を聞き取ることができないのだと、主はここでお答えになられたのです。なぜ、主の言葉が届かないのか。なぜ、彼らは理解することができないのか。それは、ユダヤ人たちがここで思い描いていたのは、まさに、宮きよめをしたユダ・マカバイのような姿を、主イエスから見ることができないからです。

この時代、多くの人々が待ち焦がれていたのは、あのアンティオコス・エピファネスの迫害から神殿を取り戻して勝利したようなメシア、キリストがもう一度現れるのだと信じて疑わなかったのです。かつてシリアの支配を打ち破ったように、今度もまたローマの手から独立して、ユダヤ民族が解放されることこそが、キリストの御業だと思っていたのです。

 

今、受難節を迎えています。あの二週間後、棕櫚の主の日を迎えます。この日、イスラエルでは、ホサナ、ホサナと棕櫚の葉を手に持って、叫びながら騎馬にまたがってエルサレムに入場したかつての英雄を思い描きながら、祭りをしていました。ユダ・マカバイの面影を多くの人々は思い描いていました。しかし、ご存じのように、主イエスはこの日、子ろばにまたがってエルサレムに入場なさいました。そして、この日から、私達はその週のことを受難週と呼び、主イエスがいよいよ十字架にかけられる日だということを心に刻みつけるのです。

主イエスはマカバイのような勇ましい英雄としてエルサレムに入られたのではなく、子ろばにまたがる柔和な王としてご自身を示されました。強敵から人々を解放する英雄としてのメシアではなく、自らの羊を養い、導く羊飼いとしてご自分を示されました。

29節で主はこう言っておられます。

わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。

と。この言葉は新共同訳では少し違う翻訳になっています。「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、誰も父の手から奪い取ることはできない」。

新共同訳を見ますと、主イエスは父から与えられた偉大さがあると書かれています。どんな偉大さなのだろうかと、どうしても考えます。父なる神が主イエスに与えられた偉大なものとは何か。新改訳聖書は、父なる神そのものが偉大だと訳しています。

主イエスは棕櫚の主日に、マカバイのような偉大な王としてご自分を示されたわけではありません。では何を偉大と語っておられるのかというとその前の部分に書かれています。

わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。

28節。

わたしは彼らに永遠のいのちを与える。そして、主イエスが偉大なのは、その与えられた永遠のいのちを誰からも奪い取らせない。それこそが偉大だと語っているのです。

マカバイは確かに一度はシリアの手からイスラエルを解放しました。しかし、その後に、ローマが来て、イスラエルはまた、支配者の手に落ちてしまったのです。

けれども、主イエスは、私たちを救ってくださる。永遠のいのちを与えてくださる。主イエスを信じて、洗礼を受けた神の民を、主イエスは他の何者かに奪い取らせることはしない。わたしと父は一つとなって、あなたのいのちが滅ぼされることがないように、そのいのちを守り通すのだと、主は言われるのです。

 

先週の木曜日、ドイツからタベアさんが来て、コンサートの時を持ちました。日本の有名な歌手の歌を、信仰の歌に変えて、歌ってくれました。私達がドイツに住んでおりました時に、私達に家を提供してくれたクラウスさん、(いつも、私達は普段はファーストネームで呼び合うので、普段はクラウスと呼んでいるのですが、)彼が、日本のレコード会社から版権を取って、歌詞はクラウスさんが作ったと聞きました。非常に直接的な、心に語りかける賛美です。恋人たちの愛の歌が、神の愛を讃える歌となって、タベアさんはドイツのその年に出て来た新人のアーティストのロック&ポップス部門で3位になりました。

けれども、歌手になるつもりはないというんです。今は大学で外国人にドイツ語を教えるためのマスターコースで勉強しています。だから、語学学校の先生になるつもりなのかと思ったらそういう訳でもありません。エジプトに宣教師として働きに行くつもりなのだそうです。なぜかというと、私達に永遠のいのちを与え、この私たちを決して奪い取らせることはないと言ってくださる主イエスを伝えたいと思っているからです。

今日も、この礼拝に一緒に集っていてくださいますが、午後はまた別の教会でコンサートを行う予定です。今回日本に来たのも、そうです。この主イエスを少しでも多くの人に知って欲しいと願っているからです。

 

主イエスはわたしたちに永遠のいのちを与えてくださる。永遠のいのちとは何のことでしょうか。それは、たとえ、その国が他の国に支配されてしまったとしても、そのような地上の国に支配されることのない、神の国に生きる者とされるということです。ギリシャやシリアやローマに次々に支配されても、それは国土が支配されたということでしかありません。しかし、この主イエスは、わたしたちのいのちそのものを支配し、私達が決して神から引き離されてしまうことがないように、そのいのちを、まさにご自分のいのちをかけて、守り抜いてくださる。それが、わたしたちが主とお呼びしているお方、まことのメシア、まことの救い主なのです。

私たちは、この主イエスに永遠のいのちを与えられて、神の御手の中で、確かな平安の中に生きることができるのです。

 

お祈りをいたします。

 

 

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