ヨハネの福音書11章17-27節 「よみがえりの主」
2014.4.5
鴨下 直樹
イースターの朝を迎えました。先ほど、この礼拝に先立って朝食を共に頂いて聖餐の時を持ちました。主のよみがえりの朝を、共にみなで喜び、また祝いたいと願ったからです。イースターは主の復活を祝う日です。それは、主イエスがよみがえられたので嬉しいというだけにとどまらず、主イエスが死に勝利されたことが、喜びの知らせそのものだからです。
このイースターの朝、私たちに与えられているのはラザロのよみがえりの出来事です。今日は先週に引き続いてヨハネの福音書の第11章17節以下です。もちろん、本来は1節からラザロのことが記されておりますので、1節から読んだほうが適切だと思います。
先週もお話ししましたが、ラザロはマリヤとマルタの兄弟だとここに記されています。しかも、ここではラザロのことを「あなたが愛しておられる者」と書かれています。愛する者が病に倒れ、その知らせを聞きながらも主はなおもそこに二日とどまられました。そして、今日のところで、主がラザロのところを訪られたのはこの17節を見ますと「ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた」と記されています。墓に入れられてから四日というのは、完全に死んだということを表しています。今でも人が死んでも埋葬をするのには24時間以上たっていないといけないという決まりがありますが、この時代は3日間は葬りをすることができませんでした。というのはその間に息を吹き返すことがあったからです。
私も子供のころに、父が葬儀をしておりまして、葬儀の最中に棺の中で息を吹き返した方の話を聞いたことがあります。もちろん、その話も私が生まれる前の話ですから50年ほど昔のことです。今はそういうことはないと思いますが、聖書の時代は今から二千年も前のことです。三日おいて様子を見るということをしたとしてもおかしくはないでしょう。(もっともこういった話を説教でいたしますと、あまりにも印象が強いためにこの話だけ覚えて帰られる方があるかもしれませんので、そのことであまり思いめぐらさないで、続いて説教に集中していただければと思いますが・・・)
人が死んで四日たつということは、今のようにドライアイスもありませんから腐敗がはじまります。当然、もう葬儀と葬りを終えています。19節を読みますと、「大ぜいのユダヤ人がマルタとマリヤのところに来ていた。その兄弟のことについて慰めるためであった」とあります。愛する者をみとった者に慰めを告げるために、人々がマルタとマリヤを訪ねてきていました。すると、20節で「マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った」とあります。慰めを告げに来る人々の中から離れて、一人主イエスのもとに向います。
私たちはいつもこのマルタとマリヤの姉妹のことを考えるとすぐに、マリヤは主イエスのもとにいてみ言葉を聞き、マルタは忙しく働いているという印象を持ちますけれども、ここではそうではありません。マルタのほうが主と共にあって慰めを求めたのです。そこで、マルタは主イエスに向って語りかけます。
「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
21節です。
ここでマルタは何を主に言いたかったのでしょうか。「あなたのせいで私の兄弟は死んでしまったのです。あなたがすぐに駆けつけてくださらなかったので・・・」という非難だったのでしょうか。それとも「あなたは奇跡を行うことがおできになる人なのに、あなたがいてくださらなかったばかりに」と主イエスの奇跡ができることをここで表明しているのでしょうか。
みなさんも同じような経験をされることがあると思いますけれども、親しくしている方が亡くなられて、慰めに駆けつける時、大きな悲しみに包まれている方になんと声をかけてよいのか分からないというもどかしさを味わうことがあるのではないかと思います。特に牧師をしておりますと、人の死に立ち会う時に、本人もそうでしょうし、家族の方もきちんと向かい合って私と言葉を交わします。私はその時に、できるかぎり相手の言われる言葉を一つも聞き漏らすまいと思いながらお聞きします。死に直面するご自分の思いを口にされたり、あるいはみとりをするご家族のその方に対する思いであったり、実にさまざまな言葉をそこで聞きます。その言葉の中に、その方の生き方が見えてきます。信仰が見えてきます。
「主よ。もしここにいてくださったなら私の兄弟は死ななかったでしょうに」という、このマルタの言葉は、「主が死に際して共にいてくださるならば、ラザロはきっと支えられたでしょうに」という意味であったのではなかったかと、私なりに想像するのです。もちろん、そうではないのかもしれませんが、マルタが慰めの言葉を語りに来る人々の中を抜け出して主イエスと向かい合って兄弟ラザロの死に直面した自分の心情を訴えるとしたら、きっとそのような思いで、慰めをもとめたのではなかったかと想像するのです。
けれども、もう少し見てみますと、この私の読み方は違っているのではないかと思わせるマルタの言葉が記されています。
今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」
ここまで来ると、マルタがどのような思いで主イエスと語っていたのかということが少しずつ見えてきます。マルタは信じていたのです。主イエスが来てくだされば、兄弟ラザロは癒されると。しかし、主イエスは来て下さらなかった。マルタは真剣に主イエスが来てくださることを願っていました。それは、ただラザロが一緒にいてくだされば支えられただろうということではなくて、今でも信じている。あなたが神にお求めになれば何でも神はあなたにお与えになると。
主イエスは悲しみの極みにいるマルタの言葉を聞きながら、ここにはっきりとした信仰の言葉を聞き取ります。それで、主イエスは言われたのです。
「あなたの兄弟はよみがえります。」
と。23節です。すると、マルタは答えます。24節
「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」
昨日、まだ三歳の娘と昨年の秋に死んだ飼い犬のアメリのことで話をしました。子どもがこんなことを言いました。「アメリは今天にいるけれども、なおしてもらったら戻ってくるんだよ」と。私は答えました。「いや、アメリは戻っては来ない。でも、きっと私たちが死んだときに天で会うことが出来る」と。しかし、そう言いながら考え込んでしまいました。
犬が天国にいるかどうかということについてではありません。それは、誰にも分らないことです。そうではなくて、いつも、私は天での再会の希望は福音ではないと語っている人間です。それは、あくまでもおまけのようなものであって、天での再会そのものが福音ではありません。そして、また、まだ3歳の娘に死後に望みがあることを語ることを教えることよりも、今、私たちは復活の希望によって喜びに生きる者とされていることを、どうやって3歳の娘に教えることができるのだろうかと考えてしまったのです。
これは、教会でも時折問題になることです。教会に子どもが通って、親に何を聞いて来たのかと聞かれた時に、「死んだら天国に行けるんだって」と聞いて、親が子どもを教会に行かせるのをやめさせたというのです。死後の世界の希望とを子供に教えるよりも、もっとその前に教えるべきことがあると思うのは当然のことです。しかし、特に私たち福音派と呼ばれる教会は、そのことを語ることをどちらかと言えば強調してきてしまいました。
マルタはここで「終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえるのを知っております。」と答えます。主イエスの十字架と復活の出来事の前からそのような信仰はすでにイスラエルの人々も抱いていました。しかし、そこで主イエスはマルタに言われます。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
主はこの25節と26節で何と語り掛けておられるのでしょうか。主イエスはここで「死んだのちも人は永遠に生きることを信じますか」と問いかけてはおられません。死後の世界があることを信じるか。そんなことを主イエスはここで語られてはいないのです。主は、「わたしはよみがえりです。いのちです。」と言われました。わたしはいのちそのもの。わたしを信じる者は、死に支配されることはなく、たとえ死んでも生きると宣言なさったのです。
それは、死後に希望があるということではなくて、まさに、今、死の悲しみに直面しているマルタに主イエスは語り掛けられたのです。わたしを信じる者は、死の悲しみに支配されることはない。なぜなら、生きる者とされているからだとおっしゃったのです。
昨日、ぶどうの木句会がありました。毎月、第一週の土曜日の朝に行われている俳句の会です。いつもそこで5分程度の短いお話をいたします。昨日はそこで、マタイの福音書の第27章46節の、あの主イエスの十字架の言葉を読みました。
三時ごろ、イエスは大声で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。
と書かれています。
このみ言葉を聞くとどうしても考えざるを得ないのは、主イエスはご自分で「わたしはよみがえりです。いのちです。私を信じる者は死んでも生きるのです」と言われたのに、十字架の上では「どうしてお見捨てになったのですか」となぜ叫んでいるのかということです。私たちがここで心にとめる必要があるのは、主イエスは確かに十字架の上で神に見捨てられながら死んでいかれました。昨日の句会でもお話ししたのですけれども、神にむかって「どうして私をお見捨てになられたのですか」と叫ばなければならなかったのは、完全なる絶望に支配されたということを意味します。私たちは、それこそ、マルタのように愛する者の傍らに立ちながら、自分の無力を突き付けられている時でも、主イエスがおられる、神が働いてくださると信じることができるときに、その悲しみの心は支えられます。神を信じていない者であっても、神がいるならば助けてほしいと祈ることができます。けれども、主イエスはその一切の望みを捨てられて、何の希望も、支えもないなかから死んでいかれたのです。けれども、その主イエスの十字架の死は、ただの個人的の死の体験というわけではありませんでした。主は死を突き破られて、三日の後、そうこのイースターの朝によみがえられたのです。主は、こうして、あの十字架の上で、人がうけるはずのすべての痛みと苦しみ。絶望を引き受けられ、神からさえも見捨てられて死を味わられたのでした。
主イエスは言われました。「わたしを信じる者は死んでもいるのです」と。この言葉はたとえば口語訳聖書では「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」と訳されていました。ここでは「たとえ死んでも」と、このもともとの言葉のニュアンスをこうしてしっかり表現しているのです。死ぬということがここでは協調されています。つまり、人は死なないようになるのではなくて、たとえ死んだとしても生きる者となるのだということがしっかり書かれているのです。主イエスを信じた者は死ななくなるわけではありません。主イエスも死んだのです。死に支配されたのです。しかも、神からさえも捨てられるという死の絶望を味わわれました。けれども、この主イエスはこうしてよみがえりの朝、私たちは新しくこの主の言葉を聞くことができます。
「わたしはよみがえりであり。いのちである。わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きるのです」と言われた主の言葉がこの言葉のとおりに、今私たちに向って迫ってくるのです。それは、死んだのちにも安心して生きられるという将来の希望にとどまらず、今、この死からよみがえられた主イエスを信じることによって、わたしたちは今、この世にあっても将来迫りくるであろう死を恐れることなく、まさに神の御前に生きる者とされている喜びに生きることができるのです。
マルタは答えました。
「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」
と。このマルタの告白は、まさにこの時代を生きるための信仰の告白を意味していました。というのは、あの盲目の人が癒された時に、会堂から追い出されたように、主イエスを信じるということは、それまでの自分たちの生活を支えてくれていた共同体から追い出される危険があることを意味していたからです。けれども、マルタは自分の生活と、主イエスと共にある生をはかりにかけるのではなく、このいのちの主を信じることを選び取ったのでした。それは、ラザロが死からよみがえらされる前の出来事です。奇跡をみて信じたのではなく、主イエスの人格に触れて、いや、主イエスにその心を触れられてマルタは死に支配されることのないいのちの主であるイエスを信じたのです。
今日はイースターです。主イエスのよみがえりの朝です。私たちはこの朝、この世にあって私たちの日常を決定的に喜びに満たしてくださる主イエスのよみがえりをともに喜びましょう。わたしたちは、この死に勝利された復活の主によって、この世にあって確かにいのちに生きる喜びを与えられているのです。主イエスを信じる者の中に、この喜びはあたえられるのです。
お祈りを致しましょう。