2015 年 5 月 17 日

・説教 ヨハネの福音書 12章1-11節 「マリヤの応答とユダの応答」

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2014.5.17

鴨下 直樹

 
 ゴールデンウィークも開けてようやく皆さんの生活も落ち着いてきたころでしょうか。私自身も、ここ数週間、ほかの教会に行かなければならないことがあったために、なかなか落ち着いてヨハネの福音書のみ言葉を聞くことができなくなっていて申し訳ない気持ちでいます。今日からいよいとヨハネの福音書の第12章に入ります。特に、今日の箇所からはヨハネの福音書は主イエスの十字架にかけられる一週間の出来事が記されます。これは、この12章から最後までですから約半分を、この受難週の出来事として記録していることになります。

 今朝はこの前に書かれていることを思い出していただきたいのですが、主イエスは、ラザロをよみがえらせた結果、ユダヤ人たちは主イエスを殺害する計画を立てました。今日の前のところ、11章57節に書かれていますのは、「イエスがどこにいるかを知っている者は届け出なければならないという命令を出していた」とありますから、人の目を避けるようにしてベタニアに入られたようです。そこで、晩餐を取ろうとしています。そこにはマルタとマリヤと、復活したラザロも一緒です。この部分ではラザロについてはそれ以上特に何も書かれていませんけれども、よみがえったラザロが主イエスと共に晩餐を囲むというのは、何でもない記事のようですけれども、まさにラザロが生きる者とされたのだということがここから読み取ることができます。

 また、その時、姉のマルタはそのために給仕をしていたと書かれています。ルカの福音書にしるされているマルタが給仕をして、マリヤが主イエスの話に耳を傾けたと言う出来事を思い起こさせるかのようなことが書かれています。おそれく、ここでは、まさに、給仕をするマルタと、主イエスに香油を注ぐマリヤという対比が描かれていると考えられます。このように、今日の箇所は色々な人々が出て来ていて、色々な視点で考えることのできる箇所と言えますけれども、今日の箇所は、ラザロやマルタにもまして、マリヤと主イエスの弟子のユダに焦点が絞られているところだと言えると思います。

 それで、はじめにまずマリヤの信仰についてここから見て見ることにしましょう。3節。

「マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった」

とあります。
 この一節の中にとても大切なことがいくつも記されています。ここに出てきますナルドの香油ですが、新改訳聖書には「三百グラム」と書かれていますけれども、もともとはあ「1リトラ」という単位で書かれています。新改訳聖書の注にありますように、この1リトラというのは、今でいうと328グラムにあたるということで、それで「三百グラム」としたようすが、その価値は後でユダが行っていますが、「三百デナリ」の価値がありました。この時代1デナリは、大人一日の労働賃金です。単純に一日の労働賃金が一万円だとすると300万円ということになります。一日五千円だとしても150万円です。それだけの価値のあるものということは、つまり、この1リトラの純粋なナルドの香油というのは、マリヤの全財産だったといっていいと思います。それを、惜しげもなく、しかもあろうことか、このヨハネの福音書ではその油を主イエスの足に塗ったというのです。たぶん、この時代も、今もそれほど変わりないと思いますけれども、普通香油をつける場所というのは、頭とか、体とか、手だとかにつけてその匂いを楽しむものなのだと思います。私はそのあたりのことは全く分かりませんが、普通足にはいくらなんでもつけないと思います。

 これはおそらく、このあと主イエスがなさった洗足と深く関わっていると思われます。先日の受難日の礼拝の時に、先立ってヨハネの福音書の13章に記されています主イエスが弟子たちの足をあらわれた、洗足のところから説教をしました。今年の年間聖句のカードにも、その洗足の絵を紹介しましたから、もう何度かこれについてはみなさんにお話ししました。主イエスが弟子たちの足を洗われるということは、主イエスがその人のすべてを受け入れてくださることのあらわれです。主イエスのへりくだりが、主イエスが弟子たちの足を洗われたことにあらわされています。そうであるとすれば、ここでマリヤが主イエスの足に香油を注いだことも、マリヤがまさに、自分の持っているものをすべて捧げて主イエスに与えるということをあらわしています。それは、まさにマリヤの最大限の主イエスに対する応答でした。まさに、このマリヤの行為の中に、私たちが主イエスを信じるという、その信仰の応答の姿があらわされているのです。

 しかも、マリヤはその足を手拭いでぬぐったのではなくて、自分の髪でぬぐいます。「家は香油のかおりでいっぱいになった」と書かれていますが、それがどれほど美しい光景で、またその匂いとともに、人々の心に深く記憶される出来事となったのです。それほど、美しい信仰の応答の姿がここにはあります。

ところがです。このマリヤのした出来事に口をはさんだ人がいました。イスカリオテ・ユダです。

「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか」

と5節にあります。ユダのこの言葉には、非常に現実的な響きがあります。ユダの言うことも一理あるといえるかもしれません。300デナリとなれば、どれほどのことができるだろうか。それを施しに使ったら、いったい何人の人がパンにありつくことができたことか。

この福音書はそれを

「しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである」

と書いています。
 このヨハネの福音書の記述は、ユダの動機はそんなに立派なものではなかったはずだとしています。もちろん、そうだったのでしょう。ここで、マリヤとユダの応答を比較しようとしているのです。ただ、その言葉だけみますと、そこにも大切な要素はあります。聖書は貧しい人に施しをすることを語っています。それを軽んじるわけではありません。また、主イエスのそのあとのお答えでも、決して、このユダの意見に対してそれは間違っているとも言ってはいないのです。

 ただ、そこで私たちが気を付けなければならないことがここに書かれています。ユダは、マリヤの信仰の応答を、信仰の応答としてみることができなかった。もったいないことをしたと、自分の考え方以外の信仰の応答を認めることができなかったのです。

 金曜日、私は名古屋の東海聖書神学塾で授業をしています。その授業の中で、一人の神学生が、塾で学ぶようになって献金についての考え方が大きく変えられましたと証ししてくれました。神学塾の入塾式の時に、神学塾の教師の一人が献金の話をしました。「私たちの神様は、お金を必要としておられるお方ではありません。すべては神様のものです。しかし、この神様は、私たちの信仰の応答を求めておられるお方です。」と語られるのを聞いて、気づかされたと言われました。そして、その先生は旧約聖書を教えてくださっている先生なのですが、この授業の中で、十分の一の献金について話されたのだそうです。十分の十、神様のものなのだということを教えられながら、その十分の一を捧げものとすることを通して、神は、それを信仰の応答とするのだと教えてくださった。それまで、その方は十分の一の献金をすることにいつも戸惑いを覚えていたのだそうです。いつも、どこかで惜しいと思っていたのだそうです。けれども、神様は、私たちの信仰の応答をまっておられて、そのささげものを通して、私たちの信仰の応答を喜んでくださるお方なのだということが良く分かるようになりました、とその方が言われました。

 マリヤの場合は、ここで十分の一を捧げたわけではありません。言ってみれば十分の十を捧げました。それが、マリヤの応答でした。それは、ユダがどうのこうの言う問題ではありません。その信仰の応答は、その人と神さまとの間のことで、誰かがどうのこうのいうべきことではありません。マリヤの応答は、自分のもっているナルドの香油をすべて主イエスに注ぎ、自分の髪でこの方の足をぬぐいたいと思った。そこにマリヤの信仰があります。

 私たちの応答も同じです。ある人は十分の一の捧げものを精一杯します。ある方は、それ以外の必要、会堂のため、今でしたら駐車場のために捧げる方がいる。それも、その人と神様との間の信仰の応答です。十分の一は大変だという方もあるでしょうし、十分の一の捧げものを信仰の応答とする方がいる。それぞれ、神さまとの関係の中で決めて、自分の応答として捧げる。それでいいのです。牧師も、教会の会計も、教会の役員も、それは十分ではないとか、それは多すぎるとか、そういうことを言う必要はないことです。

 その時の、それぞれの信仰の応答を、私たちは自分からすることが大切なのです。そして、それぞれの捧げものを、主は受け取ってくださる。ただ、そこで、自分の考え方を、人にあてはめることは気をつけなければならないのです。私たちはそのところで、実に間違いを犯してしまいやすいということに、気をつける必要があります。

 「油注がれた者」のことをメシヤと言います。新約聖書のギリシャ語でそれを「キリスト」といいます。マリヤは、主イエスに油を注ぐことをとおして、主イエスは、油注がれた者、メシヤとされます。それは、言ってみれば、このマリヤの応答をとおして、イエスはメシヤとして即位したということを、表しています。このマリヤの応答は、本人の信仰の応答という意味にとどまらずに、主イエスはメシヤなのだということを、ヨハネの福音書はここで明らかにしているのです。

 マルタは主イエスのことを「あなたは神の子、キリストです」と告白し、マリヤはここで、主イエスを「キリスト」「油注がれた者」としたのです。こうして、主イエスは、この二人の姉妹によって、主イエスが何者であるのかが明らかとされたのです。この主イエスは、こかから、まさに、油注がれたキリストとして、十字架の道を歩むその備えを、マリヤはここでしたのでした。

 そして、今日の箇所はその後のことも記されています。この席に、大勢のユダヤ人の群れがやってきます。「それはただイエスのためだけではなく、イエスによって死人の中からよみがえったラザロを見るためでもあった」と9節にあります。この信仰の家の中に、色々なひとたちが集まってきます。この姉妹の兄弟、ラザロがよみがえったということで、ユダヤ人たちは、ラザロも殺そうと相談するのです。

 主イエスの死が近づいてくるのです。忍び寄ってくるのです。しかし、主は、油注がれたお方として、聖書に約束された救い主、キリストとして、ますますご自分を明らかにしていくのです。そして、そこで、主は私たち一人一人に、それぞれの信仰の応答を求められるのです。もちろん、それは捧げものだけにあらわされるのではありません。主イエスが私たちの足を洗い、私たちを受け入れて、命あるものとしてくださる、その恵みに、私たちはそれぞれ応えるように、主はわたしたちに期待しておられるのです。

 お祈りをいたします。

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