2015 年 5 月 24 日

・説教 ヨハネの福音書12章12-19節 「エルサレムに入城される主のお姿」

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2015.05.24

鴨下 直樹

 
 今日は、ペンテコステの主の日です。私たちに聖霊が与えられた、ことを思い起こす主の日です。中部学院大学のチャペルで説教してきたときに、大学の先生から来週はペンテコステだけれども、教会で何かしますかと聞かれました。讃美歌でペンテコステの曲を歌うくらいですとその時答えたのですが、そのあとで、もう一度、今日の聖書箇所を読み直しまして、ああ、ペンテコステの礼拝の説教にふさわしい聖書箇所だと少しほっといたしました。

 今日は、エルサレム入城のところに入ります。教会歴でいえば、主イエスの受難を覚えるレントの期間の、いよいよ受難週をむかえる主の日のことを「棕櫚の主日」と呼びます。主イエスがエルサレムに入場なさる時に、人々が手に手に棕櫚の葉を掲げて「ホサナ、ホサナ」と主イエスを迎え入れました。ですから、ある意味では受難週の時に、この箇所を読むのであればまさに、ぴったりということになると思います。いったい何がこの出来事、ペンテコステにふさわしい個所なのでしょうか。少し、そんなことを心にとめてくださりながら聞いていただければと思います。

 このエルサレム入城の出来事というのは、すべての福音書に記されています。ですから、なんとなく、どの福音書も同じことが書かれていると勝手に思い込んでしまうところがありますが、このヨハネの福音書は、ほかの福音書と特に異なっているということができます。というのは、このエルサレム入城の出来事がラザロの復活ということに深く結びつけられているからです。ここで、イスラエルの人々は主イエスがエルサレムに入場されるのを大歓声で迎え入れ、そのために今日の箇所の最後の19節のところでは、

パリサイ人たちは互いに言った。「どうしたのだ。何一つうまくいっていない。見なさい。世はあげてあの人のあとについて行ってしまった。」

と記しています。それほどまでに、人々の心が主イエスに集中してしまい、もはや、「我々以外はみな主イエスの仲間だ」と言わなければならないほどに、人々は主イエスのエルサレム入城に熱狂したと記しているのです。それは、ラザロの復活の出来事を通して、人々の関心が主イエスに傾いたためだと、ユダヤ人たちは理解したのだと記しているのです。

 以前、一度話したことがありますが、表彰式の時に使われる歌で、聖歌の「いざ人よ褒めまつれ」という曲があります。もともとの曲は、作曲家ヘンデルがつくったオラトリオの「ユダス・マカベウス」という曲です。主イエスがこられる約200年ほど前、当時大帝国を築いたシリア王のアンティオコス四世エピファネスに対して、ユダヤの中からマカバイ家の英雄たちが戦いを挑み信教の自由を勝ち取りました。その時、エルサレムに凱旋してきたマカバイ家の英雄たちを、民衆は大歓声で迎え入れました。軍馬に乗って、その時は入城したのですが、人々は興奮しながら歓呼の声で迎え入れます。その時のことを曲にしたのが、このヘンデルの「ユダス・マカベウス」です。あの曲がその後で表彰式などでつかわれるようになったように、まさに、勝利を讃える歌です。あの曲がまるで後ろで流れているかのような、凱旋の情景が、主イエスのエルサレム入城の時の人々の熱狂ぶりをあらわしているのです。

 この主イエスがエルサレムに入城なさった時も、まさに、その時のような歓呼の声で人々は迎え入れたのです。まるで、戦いの凱旋のように、人々は主イエスに向って「ホサナ、ホサナ」と叫び、手に手に棕櫚の葉を持って、主イエスを迎え入れました。

ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。

と12節にあります。詩篇118篇の25節と26節の言葉がもとになっています。

 25節以下にこうあります。

ああ、主よ。どうぞ救ってください。ああ、主よ。どうぞ栄えさせてください。主の御名によって来る人に、祝福があるように。

この「ああ、主よ。どうぞ救ってください」という言葉が、「ホサナ」という言葉です。この詩篇118篇は続く27節では

「主は神であられ、私たちに光を与えられた。枝をもって、祭りの行列を組め。祭壇の角のところまで。

とあります。こういった詩篇を背景としながら、王が凱旋してエルサレムに入城される姿を思い起こしながら、それをここで再現しようとしているようなのです。

 そのように読んでいきますと、私たちはここで何ともいえない複雑な気持ちになります。というのは、そこにいたパリサイ人たちがねたむほどに圧倒的な人気でエルサレムに入城なさった主イエスのお姿が、このヨハネの福音書では浮き彫りにされています。しかし、私たちは、この主イエスの人気は一体なんだったのかと思えるほど、その一週間後にはみんなで手のひらを反して、十字架につけろと叫ぶ姿を目の当たりにするのです。人々はまさに、大いなる勘違いといっても言い過ぎではないと思いますけれども、勘違いを抱えたままで、まるで王の凱旋行列であるかのように、主イエスを迎え入れるのです。そして、主イエスはそのことをゆるしておられる。

 まるでそのことをあらわすかのように、主イエスはそのような大きな勘違いをしながら主イエスをまるで王の凱旋かのように迎える中、おひとり、ろばに乗ってエルサレムに入城しておられる。まるで、ろばだけが知っていると言っているかのようです。

 しかし、まさに、この大いなる勘違いこそが、人の罪の姿を明らかにしていることに、私たちは目を向ける必要があります。今、祈祷会で、エリシャの生涯の学びをしています。二週にわたってシリアの将軍であったナアマンの癒しのところを学びました。ナアマンは、新改訳の第二版では「らい病」、第三版では「ツァラアト」、新共同訳では「重い皮膚病」と訳されています。今、この病はらい病ではないだろうということがずいぶんはっきりしているので、翻訳を変える試みがなされていますが、「重い皮膚病」とするのがいまのところ一番良いと思われますので、「重い皮膚病」と言いますけれども、この重い皮膚病を患っていたナアマンはイスラエルのエリシャのところに病の癒しを求めてやってまいります。ところが、ナアマンは、有名なエリシャ先生が自ら手を置いて癒してくださるだろうと思っていたのですが、エリシャは直接顔も合わせず、使いの者を通して、ヨルダン川で七回身を浸しなさい。そうすれば癒されるからと聞かされて、腹を立てます。思っていたのと違うのです。自分の国にはもっときれいな川があると言って、はじめ怒って帰ろうとするのです。ところが、僕たちが一生懸命になだめて、何とかヨルダン川に行かせます。そして、そこで、癒しを経験します。

 その学びの時にも話したのですけれども、このナアマンのように、私たちは神に何かを祈り求める時に、自分が祈り求めた形で、その祈りがかなえられるのだと思い込んでしまうところがあります。そして、自分の思っているとおりにならないからといって、怒って教会を離れていく、神から離れてしまうということが起こってしまう。けれども、ナアマンの場合もそうですけれども、神の側には癒す準備ができている。ただ、ナアマンの思ったようにではないだけの事。神には神のなさり方があります。考えてみれば当たり前のことなのですけれども、私たちは思い込みが強くなってしまいますと、その自分の思い込みに支配されてしまって、神が備えていてくださる祝福を頂きそこなってしまうことが起こってしまう。そして、神は私を愛してくださらないと考えたり、この神はいないのだと考えてしまう。もし、そうだとしたら、それほど残念なことはありません。

 私自身のことを振り返ってみても、ナアマンと同じあやまちを犯しました。献身の召命が与えられた時に、私はそれならばはじめにイギリスのケイパンレーという聖書学校のボランティアスタッフとしてまずイギリスに行って、そこで色々なものを学んで、その後で、東京にあるキリスト教大学に行こうと考えていました。けれども、結果、イギリスに行ってすぐに強制送還されることになってしまいました。イギリスで新しい生活をするのだと思い込んでしまっていた私には、はじめ、神はなぜそのようなことをなさるのかと理解することができませんでした。それは、人前にもでられないと思うほどかっこ悪いことだと考えた私は、当時、根尾山荘に半年住み込んで山の麓にある会社に半年通いながら、毎日、なぜ自分はこんなかっこ悪い経験をしなければならないのかと神を責めたものです。神様のために仕えてやるのに、神のために良いことをするためにイギリスに行くはずだったのにと、自分の側の都合しか考えることができませんでした。そして、しばらくたってようやく、自分の考えの過ちに気が付いたのです。私が考えなければならなかったのは、自分の都合ではなくて、神が何を考えておられるか、なのではないのかと。

 ここで私たちが本当に見なければならないのは、主イエスはここで「ろばにのっておいでになられた」ということです。周りで群衆たちが大騒ぎをしていようと、それは、本当は何の関係もないことです。まわりの大騒ぎに気持ちをとられて、見るべき本当の主イエスのお姿を見誤ってしまうのではなく、自分たちの期待したものが、人の姿を見てどんどんと確信していくということは確かに起こることですけれども、わたしたちに必要なことは、主イエスをしっかり知る、あるいは、主イエスのお姿をしっかり見る必要があるのです。

 まさに、そのことをあらわすように、ここに興味深いことが記されています。
15節。

恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。

続いて16節をお読みします。

初め、弟子たちにはこれらのことがわからなかった。しかし、イエスが栄光を受けられてから、これらのことがイエスについて書かれたことであって、人々がそのとおりにイエスに対して行ったことを、彼らは思い出した。

とあります。

 ここにゼカリヤ書9章9節の言葉が紹介されています。主イエスがゼカリヤ書で記されたろばに乗って来られる王だということが、はじめ弟子たちには分からなかった。とあります。群集たちだけが思い違いをしていたのではなくて、弟子たちも分からなかったというのです。けれども、あとで、分かるようになった。それは、主イエスについて書かれたことなのだということを「思い出した」とここにあります。

 このヨハネの福音書の14章26節にこういう言葉が書かれています。

しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

 弟子たちが後になって、つまり、主イエスの十字架と復活と召天の後のペンテコステの時に、聖霊があたえられるようになって、はじめて、主イエスがかたられたことがどういうことだったのかを思い起こすことができるようにされたのだということがここに記されています。

 今日は、ペンテコステの主の日です。私たちは私たちに聖霊が与えられていることを思い起こす時です。けれども、そこで、私たちが本当に思い起こすのは、私に確かに聖霊が与えられているということではなくて、私に与えられている神の約束は、私たち自身が思うような形で与えられるのではなくて、まさに、神の時に、神のなさり方で私たちに与えられるのだということを、もう一度思い起こすのです。

 私たちは、神から救いが与えられています。神からの恵みが与えられています。神からの罪の赦しがあたえられています。そのことのしるしとして私たちには聖霊が与えられています。この聖霊によって、私たちは神の御業を思い起こすことができる者とされるのです。自分の思いではなく、神の御思いはなんであるかを忘れてしまいそうになる時にも、神は聖霊を通して私たちに気付かせてくださいます。こうして、私たちは、この聖霊によって、主がどのようなお方であるかをしっかりと見るまなざしを与えられるのです。

お祈りをいたします。

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