・説教 ヨハネの福音書14章25-31節「平和を与えるお方」
2015.8.9
鴨下 直樹
私たちは、この一週間に何度も平和ということばを耳にしてきました。この一週間は、一年の中でも最も平和が語られる季節であるということが出来ると思います。広島と長崎に原爆が落とされて今年で70年を迎えます。戦後70年の談話を今、首相がどのような言葉にするべきか検討しているなかでも、何度も平和国家という言葉が語られます。戦争のために、考えられないほど多くの犠牲が生まれることを私たちは経験してきました。そして、この国は、世界に戦争の悲惨さがどのようなものであるかを伝える使命を持つ国としての役割を果たしてきたといえます。私がドイツに居りました時にも、「日本に行ったことはないけれども、広島と長崎だけは知っている」という方々に何人も会いました。今、私たちはここで改めて平和とは何を指して言うのかということを考えさせられています。
今日、私たちに与えられている聖書は、こう語りかけています。
わたしは、あなたがたに平和を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平和を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。
と27節にあります。今、私が聖書を読むのを聞いて、新改訳聖書をお持ちの方は、あれと思われたかもしれません。新改訳聖書では「平安」と訳されている言葉を、私はいま「平和」と読み替えました。この言葉は聖書の中でもよく知られたギリシャ語で、「シャローム」という言葉です。挨拶にも使われる日常的な言葉でもあります。この言葉は、「平安」とも訳すことができますけれども、個人の心の状態を表す言葉に留まりません。ですから、はっきりと「平和」とする方がよいと思います。それで、平和として読んでみたのです。
主イエスはこの世が与えるのとは異なる平和を与えてくださるとここで約束しておられます。この世が与える平和とは何でしょうか。平和というのは戦争がない状態ということができるかもしれません。戦後70年間にわたって私たちの国も平和な国を築き上げてきました。そして、近年近隣諸国との関係が悪くなるにつれて、今私たちの国は、平和であるためにどういう国であろうとするのかを改めて問いかけられています。しかし、主イエスはそのようなこの世がもたらすのとは異なる平和について語られるのです。
主イエスがここで語っておられるのは、何よりもまず自分自身の死についてです。主イエスはこれまで、人と争わないというような消極的な意味での平和について語ってはこられませんでした。むしろ、積極的な愛に生きることを自ら示し、また教えてこられました。愛するというのは、相手の状況とは関係なしに、自ら腰を低くすることによって示される愛です。自らが犠牲を払うことに示されるものです。そして、その模範となって主イエスは愛を世に示してこられました。しかし、これからはそうはいかないのです。ここで語っておられる主イエスは、次の日には十字架にかけられて、殺されてしまうのです。そして、世界はまた、主イエスという愛の模範を失ってしまうのです。
主イエスがこの世界から失われてしまうということほど、世界にとって大きな問題はありません。これまでの、歴史上のどの人物とも比較できないほど大きなものをこの世界は失おうとしているのです。考えてみてください。もし、あなたの身近にいる誰かが、明日、この世界からいなくなってしまうと分かっていたとしたら、そこにはどれほどの悲しみが支配することになるのでしょう。原爆で亡くなった人たちのことを心に刻みながら70年が過ぎました。人が亡くなるということは大きな悲しみをもたらします。であるとしたら、この世界に人はどう生きるべきかを示されたお方が、明日、この世を去ろうとしておられる。そこで、人はこのお方の死を迎える前にはたしてどれほどの覚悟をしなければならないのでしょうか。
主イエスはここで、「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません」と、すでに18節で語られました。主イエスを失って路頭に迷うことがないように、主イエス自ら「もうひとりの助け主」を送ってくださって、それに備えてくださるとここで約束されているのです。先週も語りました、「もうひとりの助け主」です。主とおなじ、助け主、もともとのギリシャ語ではパラクレイトスと言われているお方が与えられるとあります。そのお方はこの26節では「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は」と言い換えられています。このお方は、「わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」とあります。このお方は「思い起こさせる」いう御業をもって、私たちを助けてくださるのだとここでは語られています。
主イエスがお語りになられたことを私たちに思い起こさせてくださるのです。主イエスを失っても、主が語られたことが忘れ去られないようにすることによって、この世界が混乱に陥らないようにしてくださるのです。「平和を失い、心騒がすことがないように、おそれに支配されることがないように」この聖霊は、主イエスが語られた言葉を、私たちの心にとめさせてくださるのです。
「思い起こす」ということは、何よりもまず、主イエスが何を語られたのかを知らなければ思い起こしようがありません。私たちは日曜にこうして礼拝に集い、み言葉を聞きます。み言葉を心にとめて、一週間歩もうとします。たとえば、先週、私たちは主の愛に生きるのだということを聞いて、家路についたはずです。そうすると、もうすぐに、教会を出るところから戦いが始まります。家を出てくる前に、家族と喧嘩をしてきた。あるいは、家に大きな問題がある。職場に、地域の人との間にいつのまにか壁ができてしまっている。そういう中で、どうしたら主への愛に生きることができるのか。主は聖霊を与えてくださるらしいのだけれども、それはどうしたら自分の生活の中で聖霊の助けを感じることができるのか。そうやって、また今朝、この礼拝に集いながら、主を愛して生きるということが自分の生活のなかで、何をもたらすのか。そういう生活の中で、主が語られたことを思い起こす時に、私たちはもういちど、自分の生活の場で、改めてみ言葉を聞くということが起こります。けれども、この聖霊の「思い起こさせる」という働きは、すでに聞いたことに留まりません。主のみ言葉はこんなにも私の生活の中で、意味をもっていたのかということを思い起こさせることもあります。まだ、知らないこと、まだ味わったことのないことでさえも、聖霊は、ともにいて、そのことを思い起こさせてくださるのです。
いつも、夏休みの間、水曜日と木曜日の祈祷会の時間は信徒交流月間ということで、信徒の方々が交代でみ言葉の分かち合いの時を持ちます。水曜日はK執事がお話してくださいました。いま教育部では毎日メールでみ言葉の配信をしていてくれています。『ローズンゲン』の聖句であったり、毎日、どんなみ言葉がとどくのかとても楽しみにしています。マザー・テレサの祈りの言葉がおくられてきたこともありました。そのようなさまざまな信仰の言葉を聞いて、ああ、主はこういうお方であったと思い起こさせられることがあるのです。Kさん自身、自分で聖句を選んで配信しているけれども、その中で自分の生活の中でみ言葉から支えられた証をしてくださいました。主が語られた言葉はそのように、私たちの毎日の歩みの中で、思い起こされながら、私たちが孤独に生きているのではなくて、主によって支えられて生きることができるように、この時から、今に至るまで、主は私たちを助け続けていてくださるのです。
木曜日の祈祷会では(私の妻の)愛が担当で、ノーバディーズ・パーフェクトで子育ての支援のために用いている方法を紹介しながら、参加しておられた方々と一緒に、信仰の歩みの中で課題にしていることを話し合う時を持ちました。そこで彼女も語っていましたけれども、一緒に課題にしていることを出していく中で、その課題は自分一人の問題ではなくて、同じ共通する問題を持っていることに互いに気付き、それを共通の土台にして、話し合いをすることで問題の解決の道筋を見出していくことができるようになります。そこで、一冊の絵本を紹介しました。『でんでんむしのかなしみ』という新美南吉の絵本です。少し前に皇后の美智子さんが講演で引用されたことで知られるようになった絵本です。この新美南吉という方は児童文学者と言っていいと思いますけれども、『ごんぎつね』とか、『手袋を買いに』といった童話を出している愛知県半田市出身の作家です。
この『でんでんむしのかなしみ』というのは、一匹のでんでんむしがあるとき、自分の背中の殻の中には悲しみがいっぱい詰まっているではないかと気が付きます。それで、慰めを求めて他のでんでんむしのところを訪ねては、「わたしは、もう生きていけません」と訴えます。自分の背中にはこんなにもたくさんの悲しみが詰まっているのだと話すのですが、訪ねたともだちは誰もが、わたしの背中にも悲しみがいっぱいあると応えるのです。そうして、みな悲しみを背負って生きているのだとしたら、自分は自分の悲しみを背負って生きていかなければならないのだと気づいたところで話は終わります。
クリスチャンであろうと、クリスチャンでなかろうと、人にはみなそれぞれに悲しみを抱えています。人にそれを訴える人もいれば、じっとこらえている人もあります。また、国家には国家の問題があります。日本には日本の悲しみがあり、他の国には他の国の悲しみがあります。自分の悲しみ、自分の悲惨さ、自分の受けた苦しみにしか目がむかなくなってしまいますと、もうやっていかれないという嘆きが生まれてきてしまいます。それは、個人であろうと、国家であろうと同じことです。そして、その自分の悲しみに留まってしまうところには、解決は失われていってしまいます。けれども、相手もまた同じように悲しみを抱えているのだということに気付くことは、自分だけが悲劇の主人公であるように思い込んでしまうところから人を救い出すのです。
主イエスは「あなたがたにわたしの平和を与えます」と言われました。主イエスが与えられる平和は、そこからさらに深い相手への理解へと人を導きます。相手を理解し、その人を受け止め、その人のために犠牲を払う事ができるように、主の愛が私たち自身を支えてくださるということを思い起こさせるのです。私は孤児ではない。そして、あの人もまた主に捨てられてはいない。主はこの悲しみを訴える人々の世界の中で、積極的に平和を築き上げる道があることを示し、そのための助け主をもお与えになられたのです。
そして、主はこのところの最後でこう語られたのです。31節です。
立ちなさい。さあ、ここから行くのです。
と。私たちは礼拝で祝福を受けて、派遣の言葉を聞いて、また家路につきます。主は私たちを立たせ、私たちが行く所に、私たちを送り出されるのです。「わたしはあなたがたを孤児にはしません」「わたしはあなたがたに平和を残します」「心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません」主はさまざまな励ましの言葉を語りかけて、私たちを信仰の歩みへと導かれるのです。私たちはこの世界に平和を築き上げるために、主から祝福を受けて、ここから出かけることができるように支えられているのです。私たちを送り出してくださる主が、助け主であられる聖霊と共にあなたがたの傍らにいてくださいますように。
お祈りをいたします。