・説教 ヨハネの福音書15章11-17節「友なる主イエスに招かれて」
2015.9.6
鴨下 直樹
少しの間、夏休みを頂いておりましたけれども、今日また、みなさんの顔を見ることができて、とても嬉しい気持ちでいます。この夏休みの間、私はいつも色々な教会の礼拝を見に行く機会としているのですけれども、今年は、群馬県にあります、私たちの群れの下仁田教会の礼拝に行ってまいりました。ですが、やはり下仁田教会の牧師も夏休み中ということで、井上牧師が説教をしにきておられました。井上牧師は、私たち芥見教会出身で牧師になられた方です。そして、その時井上牧師によってなされた説教はこのヨハネの福音書第15章1-17節からでした。
お休みをいただく前に、私はこの部分の前半のところ、主がご自分のことをぶどうの木と言われたところから説教しました。そして、今日は、その後半部分をと二度に分けたのですけれども、井上先生は、まさにこの箇所から説教されました。大変素晴らしい説教で、もう、聞いた話をそのままやろうかななどと思ったくらいです。その説教で、井上先生はぶどうの木のはなしをなさったのですが、そこでは、やはりこの地域の出身ということもあって、長良川沿いのぶどうを買って食べる機会がたくさんあったようです。そこで、みられたそうですけれども、ぶどうの木は幹の部分と枝の部分の境がほとんどわからないと言われて、キリストとわたしたちも、どこから幹でどこから枝かわからなくなるほどに一つとされるのだというメッセージをされました。前回、私は、ぶどうの木の幹は60センチくらいで、あとは枝ばかりだという話をしましたので、休みのあいだ、気になって、ぶどう園を見に行きました。すると、そこはぶどう酒のためのぶどうを育てているところなのですが、やはり、私が話したように幹は60センチくらいしかありませんし、はっきりと枝の部分と区別ができます。そこで、気づいたのですが、どうも、ぶどう酒用のぶどうの木と、果実を食用するぶどうの木とはどうも少し性質が違うようで、食用の方のぶどうの木は、井上先生が言われるようにどこまでが幹で、どこからが枝かよくわからないのだそうです。それを知って少しほっとしています。
井上先生はもうひとつ、「友」ということもその後半のメッセージで語られたのですが、まさに、それが、今日の個所の大切なテーマです。教会の中には子どもの名前にこの「友」という名前をつけておられる方が時々おられます。私たちの教会出身の舛田牧師も、ご両親がここにおみえになりますけれども、名前に「友」がついています。Kさんも子どもに「友」という名前をつけておられます。
そのようにクリスチャンの名前に時々「友」という字がつけられた名前を聞くことがありますが、実は、聖書の中で「友」という言葉はそれほどでてきません。けれども、このヨハネの福音書には何度か、この「友」という言葉がでてきます。K家にしても、M家にしても、たぶん、このヨハネの福音書からつけられたのではないかと勝手に想像しているのですが、いつかちゃんと聞いてみたいと思っているのですが、気になる方はぜひ、後で直接聞いてみてください。
このヨハネの福音書にはこのように書かれています。13節から16節です。
人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。
ここには、いくつかのことが語られていますけれども、私たちはここで少し驚くのは「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」という部分でしょうか。もちろん、そこでは、当然のことですけれども、主イエス・キリストが私たちのためにいのちを捨ててくださるということが前提となっています。
この「友」という言葉はギリシャ語で「フィロス」といいます。この「友」という言葉の動詞が「フィレオー」という言葉で、「愛する」と訳される言葉です。よく「友愛」という言葉で使われる言葉ですが、このフィレオーと聖書の中で一般に「愛」として使われている言葉「アガペー」という言葉がありますが、ヨハネの福音書の場合は、どちらもほとんど同じ意味で使っている言葉です。
主イエスはここで、主イエスの友となることと、主イエスを愛することとを、同じ意味で使っているのです。お互いを愛しているというだけで結ばれている関係のことを「友」という言葉でヨハネは表現しているのです。
今日もまた、娘の話をして申し訳ないのですけれども、3歳の娘、慈乃が時々友達のはなしをします。少しまえのことですけれども、「慈乃には一人しか友達がいないんだ」と少し寂しそうにいうのです。それで、「その一人は誰?」と尋ねますと「Y君!」と答えます。それで、私が、でも「幼稚園にもたくさんお友達がいるでしょ?」
と聞くと、幼稚園の子は友達ではないと答えるんです。親としては幼稚園で意地悪されているのかな、などと悩んでしまうところですけれども、はなしを聞いているとどうも、そういうことではない。本当の意味の友達と、幼稚園という限定された関係の中の友達とを、意識しているのか、いないのか分かりませんけれども、区別しているのです。最近は、慈乃には友達が二人いるといいます。「誰?」と聞きますと、「YくんとT子ちゃん!」と答えます。先ほども前で一緒にすわっておりましたけれども、三人とも教会で顔を会わせる同い年の友達です。私はこれを聞いて、案外子どもの方が「友」という言葉の本質をつかんでいるのかなと思うのです。
職場での同僚、学校のクラスメイト、そういうある枠の中で生まれる関わりをどうも、聖書は「友」とは言わないのです。お互いに、まったくの自由な意思で築き上げることのできる愛の関係のことを「友」と呼んでいるのです。
それは、少し考えてみるとわかることですけれども、主イエスが、私たちのためにいのちを捨てるというのは、そこに何かしがらみがあって、そうしないと後で問題になるからというようなことではなくて、まったくの自発的な愛から生じるものです。主イエスは、わたしたちのことを、そのように、まさに本人が望んで、私たちとの関係を作ってくださって、まさに、本当の友となりたいと私たちに近づいてきてくださるのです。
友という時に、やはり十代の学生たちは、本当に良い友と出会うために必死になっています。みなさんも、昔のことを思い返してくださるといいと思うのですが、本当に、友と呼べる関係をつくることができるのは、そんなに多くはありません。時間がたち、遠くに住むようになり、関係をつくることが難しくなると、それまでは良い友であったとしても、少しずつ離れて行ってしまうということを経験してきたのではないかと思います。
学生たちと話していても、感じるのは特に中学や、高校に入って、最初にドキドキする一番の理由は友達を作れるかどうかです。特に、女の子などは、周りで仲のよい友達ができはじめると、かなり焦ってしまうようです。人によっては、じっくり観察しながら、見極めてから友達になるというような子もあるようです。
今日の個所の16節にはこう書かれています。
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。
主イエスの方から私たちを見つけ出してくださったのだと書かれているのです。
この言葉は、信仰に入る時に、少し戸惑う言葉であるかもしれません。多くの方がそうだと思いますけれども、最初に教会にやってくるときにはかなり緊張するものです。最近ですと、まずホームページを読んで少し様子を調べるということをするのかもしれません。あるいは、教会に行ったことのある人に、教会がどんなところか聞いてみるとか、何かそこで恐ろしいことが行われていないか、たくさんのお金を請求されないか、一度入ったら、抜けでられなくなってしまうのではないか、いろんなことが気になります。ですから、まさに、自分の方で、よく考えて、慎重に選んで、教会に来る。そして、何回か話を聞きながらも、信仰を持つとどうなるのだろうかといろいろ考えながら、スーパーで何か高価な買い物をするときのような緊張感をもって、これをカゴにいれても大丈夫だろうかと思いながら、やっとのことで決断するというイメージがどうもあるようです。
けれども、聖書は、いや、主イエスは、あなたが選んだつもりになっているかもしれないけれども、そうではなくて、私の方であなたを選んだのだと言われるのです。
実は、この16節は、私にとってかけがえのない聖書の言葉です。まだ、私が二十歳の時の事です。私は工業高校の化学科というところで学びました。昔からあまり勉強もしませんでしたし、自分の将来のことについてあまりよく考えもしないで、プラスチックの樹脂をつくる会社に就職しました。牧師家庭でしたし、中学二年生の時に信仰をもって、クリスチャンとして歩んでいましたが、自分の人生については、仕事があって給料さえもらえればいいという程度にしか考えていませんでした。当時、まだ日本の経済はバブル経済と呼ばれていたころで、仕事はどれだけでもありましたので、毎日長い時間働いていまして、家には寝に帰るだけというような状況でしたので、給料はけっこうたくさんいただいていました。けれども、使い道がありません。私は当時、車が大好きで、会社に勤めて二年の間に3台、車を替えるというような車好きだったわけです。けれども、自分の給料明細をみながら、いつも、多くの部分が車のローンとガソリン代に消えていきます。自分の人生なのか、車のために生きているのだか良く分からないというような状況でした。それで、21歳の時ですけれども、だんだん、自分の人生はこれでいいのかと考えるようになりました。自分にはやりたいことはないのか、自分には夢はないのか。そんなことをいろいろ考えるようになっていた時に、私が行っていた木曽川教会の礼拝に、その日隣町の笠松教会から石川節子さんという方が証しにみえたのです。この方は、少し前に亡くなられたのですが、もともと宣教師になろうと志していたのですけれども、病のために人工透析を受けなくてはならなくなって、宣教師になることができなかったという方です。その方が、礼拝で、このみ言葉を読んだのです。
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。
その時まで、私は自分のやりたいことは自分で決めるのだと思っていました。自分の人生は自分のものだと考えていました。それが、いや、主イエスがもうあなたを選んだと言われている言葉に衝撃を受けたのです。すぐに、私は言い訳を考えました。いや、私にはまだたくさんの車のローンがある、これを返さなくてはならないではないか。そんなに自分の人生を神様に明け渡すことはできないと思ったのです。ところが、この後半です。
あなたがたが、わたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになる・・・
私はもうぐうの音も出ないほどに追い詰められてしまったのです。「神に選ばれた」という言葉はその時の私にとっては、神様のために働くということと同じ意味を持っていました。それ以前にも何度か、神様のために働くように促されているということに気づいていたからです。けれども、この言葉を聞いて、翌月私は会社を辞めました。ローンをたくさん抱えたままで、自分の人生を神様に任せてみることにしたのです。そして、色々なことを経て、今、この岐阜で牧師をしています。
主は、私たちを友と呼び、私たちを見つけて声をかけられるお方です。わたしがあなたを選んだ、わたしとあなたは友だと。わたしのぶどうの木につながりなさいと、主は招かれるのです。11節にはこうあります。
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。
あなたが喜びで満たされるために、わたしはあなたに声をかける。わたしはあなたと友となりたい。いや、もう選んだのだ。ここに生きる時に、あなたはわたしの愛に生きることを知るようになるのだ、と。
わたしたちの主は、わたしたちが喜びの中に生きることができるために、わたしたちをいつもご覧になり、そして、私たちに「友よ!」と語りかけてくださるお方なのです。
お祈りをいたします。