2015 年 9 月 13 日

・説教 ヨハネの福音書15章18-16章4節「信仰の戦い」

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2015.9.13

鴨下 直樹

 
 この水曜日から祈祷会でレビ記を学び始めました。レビ記というのは、おそらく聖書を読み始められた方が、創世記と出エジプト記を何とか読み終えた後で、最初にぶつかる壁になる場合があります。こまかな戒めの規定がいくつも書かれていますので、レビ記で挫折してしまったという方の話をよく聞きます。けれども、注意深く読んでいきますと、なかなか面白い箇所です。神がどれほど細やかな配慮をしていてくださるのか、ご自身の民がどのように生きることをねがっておられるのか、そういう神の心をつかみとることのできる箇所です。この水曜日と木曜日の学び会に比較的多くの方が集ってくださったことを嬉しく思っていますけれども、これからすこしずつ丁寧に学んでいきたいと思います。先週は最初でしたので、レビ記というのがどういうことを目的として書かれたのかという話をしたのですが、一言でいうと「聖さ」です。主はご自身の民に聖くあることをねがっておられることが、レビ記を読んでいきますと分かってきます。この「聖い」という言葉は、その時もすこし説明をしたのですけれども、私たちがイメージする「聖さ」というのは、「純粋」とか「ピュア」、汚れがないということを連想しがちですが、「違う」という意味で理解してくださるとよいと思います。主は、ご自分の民に、この世の人とは違うことを求めておられる。ですから、「聖い」というのは、「この世のあり方とは違う」という意味です。

 今日、私たちに与えられている箇所は、この「世」があなたがたを憎むということが書かれています。19節にはこうあります。

もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。

 旧約聖書に記されている神の民であるイスラエルも、主イエスの弟子も、まさに、主からこの世の者とは違う者、聖い者として召し出されます。だから、世はあなたがたを憎むのだと主イエスは言われているのです。

 この19節の冒頭に「あなたがたがこの世のものであったなら」とあります。新共同訳聖書では「あなたがたが世に属していたなら」となっています。こちらの訳はもう少しこのことをはっきりと訳していますが、主イエスを信じる者がどこに所属しているか、帰属という言葉を使った方がいいかもしれませんけれども、わたしたちはどこに属しているかというと、主なのだということを、ここで主イエスははっきりと宣言してくださっています。先週の箇所でいえば16節「わたしがあなたがたを選んだ」ということと深く結びついています。

 主イエスを信じるということは、主イエスに選びだされて、まさに、主イエスを遣わされた主なる神に属する者となります。そうなると、その時からこの世に所属しないで、この世とは違う生き方、聖い生き方をするようになります。けれども、この世界では他の場合もそうですけれども、この自分と違うということに対して寛容ではありません。自分と同じかそれとも違うのかという二者択一を迫ります。そして、自分とは違うということが明らかになりますと、それに対して攻撃する癖のようなものが私たちにはどうもあるのです。

 この自分と違うものを攻撃したくなってしまう癖のことを、このヨハネの福音書は「憎む」という言葉で表現しています。「愛する」の反対語として出て来る言葉です。

 昨日も、私は毎週金曜日に名古屋にあります東海聖書神学塾で神学塾に入った一年目の方々のために入門クラスという授業をしているのですが、そこで、絶対的真理、必然的真理、どちらでもよいこと、という三つの判断基準のはなしをいたしました。何かを考える時に、聖書を基準にして考えることが大切だという話をしているのですが、そのためには、まず聖書の中にはこれは確かなこととして書かれている絶対的な真理というのがあります。それは、私たちの都合で判断することはできません。たとえば、神は三位一体であるとか、主イエスの贖いによって救われるのだということは、私たちは確かなこととして信じているわけです。

 それ以外に、聖書を読んでいくと必然的にそういう答えになるというものがあります。たとえば、教会政治が監督制なのか会衆制なのかというのは、それぞれの教会の立場や歴史でことなります。それは、それぞれの立場で考えていくと、聖書は必然的にそのように言っているというように判断できる部分です。私たちの信仰で判断をするときにも、このことが明確になっていると確信をもって決断することができます。

 けれども、問題は「どちらでもよいこと」というのがあります。宗教改革者のカルヴァンの流れにある教会はその時代、聖書に書かれていないことはダメだと考えました。反対にルターは聖書に書かれていないことはしてもいいことだと考えました。この両者には大きな開きがあります。このどちらでもないこと、アディアフォラといいますが、私たちの毎日の多くの決断はこのアディアフォラなことをどう考えるかという決断ばかりです。それは、ひとによってことなります。どちらでもよいことなので、必死になることも本当はないのですけれども、さきほど言ったように、私たちは人と自分が違うということに対して憎しみを抱いてしまう性質がありますから、この部分で人と衝突してしまうことが多いわけです。

 神学校でも話したのですけれども、その時に相手の違いを受け入れられれば教会のなかで難しくなってしまう問題のほとんどは解決するはずなのです。いや、教会の中だけではありません。他の人との関係であっても同じです。たとえば、今、町に出ますと、至るところでデモをやっています。憲法の解釈を変えようという今の安倍首相の考えに対して多くの人たちが反対しています。それは、それこそ、絶対的なこと、あるいは法律から照らし合わせても必然的に、今の与党のしようとしていることは憲法に違反する問題があるとして立ち上がっている人々が沢山いるからです。そういう場合は戦う必要があるわけです。けれども、たとえば、今日の昼ごはんはラーメンにするかカレーライスにするかということは、本当はどちらでもいいことです。けれども、自分はカレーを食べたいと言ったのに、ラーメンを選択するとは何事だと言って、結局自分の意見が軽んじられたと言って腹を立ててしまう。けれども、よく考えてみると、それはどちらでもいいことでしょというように考えることができなくなってしまうわけです。

 もちろん、ここで主イエスが語っておられるのはどちらでもいいこと、アディアフォラなことではありません。主イエスを遣わされたお方は父なる神で、主イエスを愛することは、父なる神を愛することになる。それは、絶対的な真理です。だから、その主にふさわしく生きるように、この17節の言葉で言えば、「あなたがたは互いに愛し合うこと」だと主イエスは言われました。そのように生きることを主イエスは求められたのです。けれども、人は、この主イエスによって示された生き方を認めることができない。これは違うと感じる。あるいは、この主イエスの示す生き方は、自分のこれまでの生き方を否定するものとなると感じるので、これを憎むようになったということなのです。
 16章の2節にはこういう言葉が記されています。

人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。

とあります。
 このヨハネの福音書がまとめられたのは紀元100年頃と言われています。そのころはもうすでにエルサレムの神殿は破壊されて、ローマによる教会の迫害の時期を迎えていました。ですから、この時代にすでに、この2節の言葉は現実味を帯びた言葉として、人々の心に響いていたと考えられます。

 実際に、このローマによってキリスト者たちが迫害されたことは、当時ローマ皇帝を神と崇めるようになっていましたから、キリスト者たちは「無神論者」と呼ばれていたと、このころの記録にあります。ローマ皇帝を神と信じない者は、無神論者だというわけです。そして、キリスト者たちは会堂から追放され、激しい迫害が待ち構えていました。

 わたしの書棚の中に祈りの本ばかり集めてあるところがありますが、その中でも私がとても大切にしている本のひとつに「殉教者たちの祈り」という小さな本があります。いのちのことば社の本です。もう15年以上前にだされたものです。それは小さな本ですが、殉教の死を遂げた彼らがどのような迫害の中でどのような祈りを祈ったのかが、びっしりと記されています。この中にアンテオケのイグナティウスの祈りを少し紹介したいと思います。このイグナティウスは紀元35年から107年ごろの人とされています。その人の説明書きにはこう記されています。

シリアにあった地域の司祭。シリアのキリスト者に対する迫害により捕えられ、処刑のためにローマに連行された。途中、いくつかの手紙を小アジアの教会に書き送ったが、その中で教会の本当の姿や差し迫った殉教について思い巡らしている。獣の歯牙にさらされた後、ローマの闘技場で死を迎えたと考えられている。

 まさに、このヨハネの福音書が記された時代の教会の指導者であったひとです。このイグナティウスの祈りはこういう祈りです。

何がなされなければならないのか、私は知っています。やっと今、弟子としても歩みを始めました。いかなる力、見えるもの、見えざるもの、私がイエス・キリストに達することを妨げることがないように。たとい火や、十字架や獣との格闘が来ようと、骨肉が引裂かれようと、よこしまな者による拷問にかかろうと、ただ、イエス・キリストに達することが、我がものとなりますように。

 迫害による殉教を目前にして、イグナティウスはキリストのようになることを祈り求めました。「キリストに達することが、我がものとなりますように」というのは、殉教の死を主のようにむかえることができますようにという祈りです。

 このヨハネの15章、16章は主イエスの告別説教です。主イエスもまた殉教に直面しながら、人を愛するようにと語りながら、それゆえに、殺されること、十字架につけられることによって、愛を示されました。だから、あなたがたも迫害されることがある、人から理解されないことがある、いや、理解されないどころではない、憎まれる。けれども、それは、わたしも受けたことだから、あなたがたも受けるだろうと、死にさいして言われているのです。憎まれ、迫害される。それは確かなことだと。けれども、主は言われる。
26、27節。

わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです。

 わたしたちはどちらでもよいことに生きているわけではありません。私たちは真理に従って生きるのです。そのことは聖霊が私たちに教えてくださる。そして、そのことをあなたがたはあかしするのですと主は言われます。この「あかしする」は、やがて、「殉教する」と同じ意味を持つようになりました。このヨハネの福音書が記されたときにはすでに、「あかしする」というのは「殉教する」と同じ意味をもっていました。

 主イエスを信じたいと思う。そうすると、家族で反対される。独身の場合、結婚できなくなると言われることもある。家族で同じ考えでいられなくなるのは残念だと家族に言われる。さまざまな困難がある。迫害されることがある、キリスト者であるということで、憎まれてしまい、正しく理解されないことがある。けれども、主を証しすること、その結果がたとえ殉教という結果になったとしても、この信仰の戦いに生きる。そのような厳しさがある。

 もちろん、それほど難しくない場合もあるかもしれません。家族が好意的に受け取ってくれるという場合もある。キリスト者だということで信頼されるということもないわけではありません。けれども、そういう好意的な反応も、きっとどこかでだれかの証しがあったことによるのです。自分の知らない誰かが、自分の生活の場所でキリスト者として生きた。それが、証しとなって、その後のキリスト者の歩みを作り上げていくのです。

 主は私たちがこの世の人々と敵対し、争いあうために、キリスト者を選びだしたのではありません。そうではなく、この世の人とは違う生き方、聖なる生き方、つまり、互いに愛することができる、自分と違う考えの人であっても受け入れ、認め、愛することができる生き方へと私たちを招いてくださっているのです。そして、そこで、キリストが証しされていくのです。

お祈りをいたします。

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