2015 年 9 月 20 日

・説教 ヨハネの福音書16章4-15節「聖霊の示す真理」

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2015.9.20

鴨下 直樹

 
 今、私たちは主イエスの告別説教といわれる言葉を聞き続けています。14章から16章までで、主イエスは弟子たちに別れの言葉を告げておられます。特に、今日のこの短い箇所の中にも、何度も、私は去って行くのだという言葉が語られています。5節、「今わたしは、わたしを遣わした方のもとに行こうと」、7節「わたしが去って行く」「もしわたしが去って行かなければ」「しかし、もし行けば」とあります。10節にも「わたしが父のもとに行き」と言われています。もう、わたしは行くのだ、去るのだという言葉を弟子たちはどのような思いで聞いたことでしょう。主イエスと弟子たちが一緒に過ごした期間は3年であると一般にいわれています。このヨハネの福音書を読む限りですと、一年ほどの期間しかなかったような書き方になっています。一年であろうと、三年であろうと、寝食を共にし、実に中身の濃い時間を過ごした人との別れというのは心に大きな穴をあけてしまいます。どんな教師や牧師であってもなしえない、実に豊かなものを主イエスと共に生きた弟子たちは味わうことができたはずです。

 それで、主イエスは言われました。5節の後半部分です。「あなたがたのうちには、ひとりとして、どこに行くのですかと尋ねる者がありません」。もちろん、弟子たちは何度も主イエスに尋ねたのです。13章の最後のところではペテロがイエスに命がけで「あなたの行くところに私はついて行きます」と言いました。14章ではトマスが「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちには分かりません」と言っています。はじめのうち弟子たちは主イエスに尋ねていたのですが、だんだんと主イエスの行かれるところに自分たちはついていけないこと、そして、主イエスを失った後迫害があること、けれども互いに愛し合うことなどを主イエスから聞かされました。そうこうするうちに弟子たちは悲しみに支配されてしまったようです。ですから6節で主イエスはこう言われました。

かえって、わたしがこれらのことをあなたがたに話したために、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています。

 弟子たちにしてみれば主イエスと一緒に歩み、寝食を共にしながら、毎日慰められ、生きる望みが与えられ、これこそが人の生きるべき姿なのだということを味わってきました。そして、これから自分たちがどのような生き方をすることになるのかを心躍る思いで毎日過ごしていたに違いないのです。この主イエスと共に生きることが、自分の生きる喜びそのものだったのです。それが、ここに来て、急に主イエスが別れの言葉ばかりを告げられるようになってきたので、もう弟子たちには続けて主イエスに尋ねる気持ちが失われてしまうほど悲しみにくれていたのです。それは誰もがよく分かることなのだと思います。

 しかし、主イエスはそのような弟子たちに向かって語りかけられます。7節。

しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。

と。

 ここに「しかし、わたしは真実を言います」とあります。少しぎこちない訳です。新共同訳聖書では「しかし、実を言うと」という翻訳になっています。いつも、礼拝説教で親ばかぶりを披露しつづけておりますけれども、また三歳の娘の話をすることをおゆるしください。実を言うと、うちの娘は最近このフレーズが口癖になっているのです。幼稚園で誰かがいうのだと思いますが、腰に手を当てながら、娘が「実を言うとねぇ、これはねずみさんなんだ」とねずみのぬいぐるみを手にしながら言うのです。何か驚くようなことを話しながら「実を言うとこれはわたしがやったんだ」というのであれば分かるのです。たぶん、他の子どももそのように言っているに違いないのですが、その言い方がかっこよく映るのでしょう。
 「しかし、実を言うと」というのはそのように思いがけないことです。弟子たちは悲しみに支配されてしまって、主イエスに尋ねる気持ちさえ失ってしまっているところに、主イエスが「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる」と続けて言われるのです。そして、ここで言われているのは、新改訳が訳しているように、そこにこそ、主イエスの真実さが表されているのです。私たちが主とお呼びしているお方は、この世を去って行かれるのですが、それこそがまさに主イエスの主イエスらしさということが言えると思います。去って行かれるお方、死に葬られてしまうお方こそが、私たちの主イエスなのです。

 主イエスの言葉はそのまま続きます。

それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。

 私たちの主イエスは、この世を去られることによって主とあがめられるお方なのです。いつも使徒信条で告白しているとおりです。主イエスは「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座し給えり」と告白しています。

 ここで告白されているのは主イエスの別れです。主イエスの告別はまさに、ここで告白されているように、苦しみを受け、しかも、神からさえも見放されるという別れでした。けれども、そこで、私たちが気付くのは、この別れの苦しみをすべて引き受けて味わわれたのは、主イエスご自身であったということです。そして、このことが、私たちの救いの根拠となっているのです。

 「実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる」と主イエスが言われるのは、まさに、私たちの福音そのものなのです。というのは、「助け主」が私たちに与えられるからです。この「助け主」は14章16節で語られた「もうひとりの助け主」のことです。その時にも話しましたけれども、この言葉はギリシャ語で「パラクレートス」といいます。「助け主」と訳されたり、「弁護者」と訳されています。もともとの意味は「傍らにいて発言する人」という意味です。いつもそばにいて、私たちがひとりで戦うことがないように支えてくれる人という意味です。この「助け主」と訳されているこの「パラクレートス」であるお方が、私たちに与えられている「聖霊」なのです。

 この「聖霊」、「パラクレートス」は私たちをどのようにたすけてくれるかというと、8節にこうあります。

その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます

とあります。ここでまずでてくるのが「罪」についてです。教会にくるとすぐに耳にするのがこの罪という言葉です。罪とはなにかというと、そのあとの9節では「罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです」とあります。聖書が語る罪というのは、犯罪行為をしたということではありません。そうではなくて、主イエスを信じないことを罪と呼んでいます。そこからさらにいうと、主イエスを信じないということは、主イエスをお遣わしになった神を信じないということでもあります。神は、私たちが真理を知って生きるようになることを望んでおられる方ですから、私たちが神に意図されて造られた本来の人としての生き方を受け入れないと、結局は、神を悲しませる生き方、本来の人のあるべきではない生き方、つまり罪に生きるということになるわけです。

 この罪ということばは実に多くの人々のつまづきの元となる言葉です。それは、教会に行くと、身に覚えもないのに罪びと扱いされるからです。自分はそれほど悪い罪をおかしているという自覚を多くの人はもっていません。けれども、同時に自分の弱さ、自分の不完全さということを振り返ってみれば、それは多くの人がまた思い悩んでいることでもあります。子どもを見ていても思います。親のいう事をちゃんとやりたいという思いは子どもにもあります。けれども、自分の心の中から湧き上がってくる、親の言うとおりにしなくてもうまくいくのではないかというその気持ちを持て余すのです。そして、自分で考えてやってみる。たとえば、食事の準備ができると3歳の娘でも、自分も役に立つはずだという思いから、手伝おうとします。けれども、どのように持つとお皿のものがこぼれやすいかということはまだわかりません。だから、親は手伝わなくてもいいと言う。けれども、子どもは親の言葉よりも自分のできるという気持ちを信じてやってみる。すると案の定お皿の中身をこぼしてしまって親をいらだたせることになる。親の言葉に耳を傾けることができれば何という事はないのですが、親の言葉に耳を傾けるよりも、自分で思いついたことをやった方がいいように思うのです。

 聖書がいう罪というのはそれに似ています。主の言葉に耳を傾ければ何という事もなく事は前に進むのです。けれども、その言葉よりも、自分の考えの方が何とかなると考えてしまう。そうやって、神の思いではないことを行い、それでも耳を傾けず、どんどん頑なになって、行き着くところまで行くと、最後は開き直ってしまう。自分はどうしようもない人間なのだから仕方がないのだと。

 けれども、主イエスはその私たちにもっとも欠けている神の言葉に耳をかたむけるという行いの助けとして「助け主」を与えてくださるのです。傍らにいて、アドヴァイスを与えてくれる。その言葉の通り、私たちの傍らにいて、今はどうすればよいのかを教えてくれるのです。何が義なのか、何を神は正しいこととされておられるのか、どのように判断し、神がどのようなさばきを行われるのか。そして、自分の誤りに気づかせてくださるのです。
この聖霊が私たちの傍らにいてくださることによって、私たちはどのように生きることができるのかがわかるようになるのです。それで、この聖霊、助け主のことを、13節では「真理の御霊」というのです。

 先週の説教で、ものを考える時に絶対的真理と必然的真理と、そして、アディアフォラ、どちらでもよいことという判断の基準があるという話をしました。まさに、聖霊は真理の霊として、この物事を考えるときに何が真理であるかを考えさせてくれるのです。

 しかし、実は、私たちは普段、真理とは何か、ここで一番大事なことは何かというようにあまり考えていません。多くの場合の考え方はどうすれば損をし、どうすれば得をするのか、あるいは、どうすれば自分の気持ちが満足し、どうすれば面白くないのかで考えてしまうことが多いのです。今回の国会の安全保障の問題にしてもそうです。国益は何か、どうすれば近隣諸国の脅威から身を守れるか、どうすればアメリカとの約束を果たせるか、そういうことが判断の先にきてしまって、戦争をしないために日本が70年間大事にしてきた、「他者を傷つけないことを選び取る選択こそが、自分たちの将来を作る」ということを捨ててしまう決断をしたのです。

 この考え方は私たちの毎日の生活に様々な姿をとってあらわれます。どうすることが今っぽい考え方で、どうすることが古臭いのか。自分がよく見えるためには何を選び取るのか。そういう目先のことに心を奪われて、大事なことをどんどん疎かにしてしまう。それこそがまさに、人間の罪の性質で、それを助けるために主イエスは真理の御霊を私たちに与えて、私たちが主イエスを失ったとしても、考えることのできる力が与えられるようになるのだと言っておられるのです。

 聖霊は神の思いを私たちに悟らせます。聖霊は、私たちに決断する勇気を与え、私たちを自由にする、まさに真理の霊なのです。

 この霊は、父なる神がもっておられる、そして主イエスも持っておられるものを、私たちに知らせてくださるのです。それは、まさに神の御子を知り、神の考え方を知り、神の御思いに生きるようになる助けそのものなのです。

お祈りをいたします。

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