・説教 ヨハネの福音書16章15-24節「悲しみから喜びへ」
2015.10.4
鴨下 直樹
先週の日曜日、私たちは教団の日を共に祝いました。私は先週、みなさんと共に礼拝を祝うことは残念ながらできませんでしたけれども、午後に教団の日の集いが稲沢教会で行われ、そちらで一緒に教団の日の祝いをいたしました。四年前から、この教団の日の集いを地区別の主催にいたしました。そのために、その地区の教会の方々は本当に大変な準備をして、どのようにしたらこの日を一緒に祝うことができるのかと考えながら毎年のことですけれども、大変素晴らしい集会を計画してくださいます。今年は、稲沢の教会に270名以上の方々が集まったようで、懐かしい方々と一緒に教団の日を祝う礼拝をするというというのは本当に嬉しいものです。
特に、今年は講師を招きました。大学生の伝道をするKGKという団体がありますが、このKGKの副総主事をしておられる大嶋重徳先生が説教をしてくださいました。非常に情熱を込めた説教をしてくださり、エレミヤ書からですけれども、主に喜んで仕えていきましょうと語ってくださいました。私もずいぶん色々なチャレンジを受けました。来年はこの同盟福音の宣教が始められて60年を迎えようとしています。そういうなかで、もう一度地域に伝道していくことの大切さを共に心にとめていきたいと思っています。
先週の祈祷会でも、この芥見教会の伝道も来年で35年になるのではないかということを話していました。来年何か記念集会でもするかどうかという意見もありましたが、やはり40年がいいのではないかと思っています。そこでつい口に出したのですけれども、「荒野の40年」というテーマがいいのではないかと言ってしまいました。40年というと、まずやはり出てくるのは聖書の中では患難を示す数字です。40年の宣教は大変であったということをやはり表現するべきなのではないかととっさに思ったからです。けれども、もちろん、まだそれまでには5年あります。その間に主の再臨がないとも限りませんし、その間にもまだまだ色々な歩みがあるはずです。一言で、それを「荒野の40年」という言葉でまとめることもできないなと思います。
今朝、私たちに与えられているみ言葉は、主イエスが「しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます」と弟子たちに向かって語りかけられたところです。もう何度も、主イエスはご自分がこの地を去ることを語り続けておられます。けれども、この主イエスが弟子たちに向かって語り続けてこられたことは、弟子たちにはまだはっきりと何を意味するのか、分かってはいなかったようです。それが続く17節にありますが、弟子たちは互いに、主が何を言っておられるのか、これはどういうことなのだろうと、語り合っていたとあります。主イエスが去って行かれるということが理解できなかったのです。弟子たちはもはや直接、主イエスに尋ねることもできないほどに、悲しみに支配されてしまったようです。そこで、主イエスはそのような弟子たちが抱いている悲しみをとてもよく理解してくださいました。21節ではその悲しみ、苦しみをこんな言葉で表現されています。21節。
女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。
とても興味深い言葉です。
みなさんも人生の中で様々な悲しみや苦しみ、痛みを経験されることがあると思います。その苦しい時間、困難を経験する時というのはとても時間を長く感じるものです。たとえば病になる。検査をしなければならないと医者に言われる。そうすると、その間の時間というのは、不安で、不安で仕方ありません。誰かが、そんなに心配しなくてもいい。自分も経験したけれどもと、自分の体験をもとに慰めようとしても、多くの場合はそれでも不安が消えるなどということは起こりません。自分とその人は同じではありませんし、どの病気も同じようになるというようには思えないからです。
主イエスはここのところで、「しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなる」と弟子たちに語りかけておられます。17節ですけれども、その後には「わたしは父のもとに行くからだ」とも語っておられます。主イエスがおられなくなる、その悲しみをお語りになられています。しかも、主イエスを失う苦しみを、興味深いことに21節では女性が子どもを産む時の苦しみになぞらえておられます。
もちろん、私は男ですから、出産の苦しみというのを知りません。けれども、妻の苦しそうな姿は今でもよく覚えています。特に、「つわり」というのがありますけれども、妻の場合、そのころ匂いに非常に敏感でした。あのお米を炊く時に炊飯器から出て来る蒸気にまざって炊き立てのお米の匂いがします。ある時、妻はその匂いが完全にだめで、しばらくお米が食べられなくなったことがあります。それで、たまたま私が食の買い物に行きまして冷やし中華を買って帰りますと、妻が喜んでそれを食べました。それで、冷やし中華がいいのかと思いまして、また、次に買い物をした時も冷やし中華を買い求めたのですが、今度はその冷やし中華が食べられない。男の私からすると、もう何が何だか分けが分からないのですけれども、つわりというのは、そういうものなんだそうです。
気分が悪い、食事も食べたいものがころころ変わる、匂いもだめ。もうこんなに苦しい生活がいつまでつづくのかと思うのです。そして、そのような悲しい経験、苦しい思いというのは、その時はこの苦しみはいつまでつづくのかと思えるのです。それはもちろん子供を産む時の苦しみに限ったことではありません。
昨日私のもとに一通の手紙が届きました。口永良部島で伝道しておられた関口先生家族からの手紙です。あとで手紙を紹介したいと思っていますが、突然島の火山が噴火しました。一度目は去年の八月三日です。そして、今年の五月二十九日にもう一度、今度は火砕流を伴う噴火で、関口先生の家のすぐ横を火砕流が流れました。今は、鹿児島の指宿市に移り住まれているようですが、一か月の間隣の屋久島での避難生活は大変厳しかったようです。島に戻る見通しは立たず、これからの生活がどうなるのかも分からず、これからどのように生活していくのか見通しが立たない。口永良部島に移り住んで十年です。その島で、どんな主の働きができるのかと祈り求めていた十年だったに違いないのです。この被災生活がどれほど苦しく、つらく、長く感じるものであったか。それは本人たちにしか分からないものです。
私たちにとって苦しい経験、悲しみの経験というのは先が見えないと思うほど、長く苦しいものに思えます。けれども、ここで主イエスはその時のことをこう言われています。もう一度16節を見てみたいと思います。
しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。
「しばらくするとわたしを見なくなる」そして、すぐそのあとで、「またしばらくするとわたしを見ます」何を言っているのだろうかと思うところですが、主イエスの十字架と復活のことが語られています。しかも、興味深いことに、この「しばらくすると」という言葉は「ミクロン」というギリシャ語が使われています。1000分の1、0.001を表す単位です。ごくごくわずかの時間でということです。いってみれば、もうすぐにその悲しみは差し迫っていると言っているのです。そして、そのように差し迫った悲しみを、主イエスはここで産みの苦しみの時間で例えておられる。
先ほどから言っているように、悲しみの経験、苦しみを感じる時間というのは長く感じるものです。けれども、またすぐに、わたしに会うことができる。あなたがたは喜びに包まれると主イエスは言われるのです。「のど元過ぎれば熱さ忘れる」という諺もあります。確かにそれは苦しい経験、苦い時間、悲しみの時間に違いないし、その時は本当に永遠におもえるほどに苦しい時間だということを主イエスはよく知っておられます。しかし、その悲しみは、永遠ではない。
その悲しみというのは、主イエスを失うことによって味わう悲しみのことです。ここで、私たちは思い違いをしないようにしなければならないと思うのですが、私たちは人生の中で、さまざまな思いがけない困難を経験することがあります。病に冒される。困難な状況に立たされる。とても長いトンネルの中をくぐらされるような苦しい、重い時間をすごすことがあります。私たちは誰もがそうですが、その時間を耐えなければなりません。主イエスを信じたからといって、その苦しみが簡単に取り除かれるわけではありません。けれども、私たちはそのような困難な期間、永遠の苦しみに思える時間を味わうことになったとしても、主イエスを失うことがないならば、そこには常に希望があります。
世界は、一度、この主イエスを失う経験をしました。そして、弟子たちはまさに、その困難を味わったのでした。しかし、それはほんのつかの間のこと、ミクロンという短さでしかなかった。主イエスは、十字架で殺されて、三日の後によみがえり、再び弟子たちの前に現れてくださったのです。
主イエスは言われます。
あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。
22節です。
この言葉こそが、私たちが聴くべき福音です。世界が、いつも聞き続けていなければならない福音そのものです。主イエスが、復活の主イエスがわたしたちに与えられる。私たちがこの世界で味わう、様々な悲しみの経験や、困難な時間、苦しい思い、出口がないように思えるさまざまな問題も、この主イエスと出会うならば、それらの悲しみは永遠の悲しみではないことを知るのです。人が永遠の悲しみに支配されてしまうのは、目の前にある悲しみや、問題、病がなおらないというようなことではありません。その自分のいのちが、人生が、そのままでは何の意味もないのだと突き付けてくるあの死が、自分の目の前にあり続けるということこそが、人の抱えるすべての問題、悲しみの根っこにあるということ、それこそが本当の問題です。しかし、主イエスは、その人の力ではどうすることもできない死の問題を引き受けくださって、それを人から滅ぼすために十字架にかかってくださったのでした。そして、三日の後に、よみがえり、人が本当に喜びで支配されるために喜びをもたらしてくださった。「その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません」と主ご自身がここで宣言してくださるのです。
関口先生も、あのような苦しみの経験をとおしてもなお、主に感謝することのできる生活が与えられているのは、関口先生に与えられているよみがえりの主によってもたらされた喜びが失われることのないために、希望を持って生きることができるようにされているのです。病が、問題が、さまざまな患難が私たちの身に降りかかってきたとしても、私たちに与えられている、それでも私は大丈夫なのだ、わたしはよみがえりの主イエスによって支えられているという喜びが、私たちの土台となって私たちを足元から支えてくれるのです。私たちは、この主イエスによって、どんな悲しみの中にあったとしても、喜びを奪われることなく、生きることができるのです。
お祈りをいたします。