2015 年 10 月 11 日

・説教 ヨハネの福音書16章25-33節「主イエスを知る日」

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2015.10.11

鴨下 直樹

 
 今、名古屋で教えております東海聖書神学塾で、この10月から説教学を教え始めました。先週の金曜日で二回目の授業です。先週いきなり宿題を出しました。創世記1章1節からの説教を800文字で書いて来るようにという宿題です。それで、この金曜日に今学んでおります8名の神学生に、順番にこの短い説教を読んでもらいました。まだ、何も学んでいない状態で、いきなりの宿題ですからずいぶん手こずるだろうと思っていました。実にバラエティに富んだ説教が出てきました。そこで、説教の分析をするために大切なことを少しお話ししました。

 こういう話を礼拝でしてしまうのは自分の説教の手の内を明かしてしまうようなものですが、説教には大きく分けて四種類の言葉があります。一つは聖書を説明する言葉です。これは説明はいらないと思います。この聖書はこういう意味だという言葉は必ず説教の中に入ります。二番目は聞き手を解く言葉です。説教を聞く人々の心を解く言葉、たとえば、この箇所を読むとこう思うかもしれませんがとか、人にはこういう考えがありますなどといいながら、人の心に寄り添いながら、み言葉を語っていくわけです。もう一つは説教者の言葉というものがあります。いまやっているこの冒頭からの言葉はみんな説教者の言葉といってもいいかもしれません。最後に、神の名による宣言があります。神はあなたにこう言われるという神の言葉を宣言する。この言葉が説教のもっとも大事な部分です。金曜日に、神学生たちの何人かの説教を取り上げまして、一つ一つの文章を丁寧に読みながら、ここで何を意図して説教をしようとしているのか、四つの色で色分けしながら、その説教の内容を分析していくわけです。私はこの説教分析という作業はとても好きです。色々な説教を読みながら、そういう視点で読んでいきますと、語り手の言いたいことというのが、つかみやすくなるからです。
 
 今日の聖書の言葉は、そういう意味でもとても興味深い箇所です。今まで主イエスは何度も何度も同じ話をなさってきたわけですが、今日のところで、ついに、弟子たちは「今、はっきりと分かった」と言ったのです。それで、私は主イエスのこの言葉を分析してみるわけですが、どの言葉で弟子たちは主イエスのことがようやく分かるようになったのか。
 分かったと言っているのは29節ですからその前の言葉ということになります。つまり、今日の25節から28節までの言葉を聞いて、どうも弟子たちは分かったらしい。けれども、そう思いながら、この部分を注意深く見てみても、この言葉かなというのは見えてきません。
 先週説教をしました、18節で、弟子たちは「分からない」と言っていますから、少し箇所を広く見たとしても19節から28節までが重要な言葉であることが分かります。
 また、先週のところからお話しするつもりはありませんので、先週のところと、今日のこの前半部分は弟子たちにとって決定的な意味をもつ言葉であったということは少なくとも分かるわけです。
 そこで、今日のところで、25節にこう書かれています。

これらのことを、わたしはあなたがたにたとえで話しました。もはやたとえでは話さないで、父についてはっきりと告げる時が来ます。


 ここに「これまではたとえで話してきた」と主イエスは言われました。これはすこし説明がいるのですが、主イエスの譬え話、たとえば失われた一匹の羊の譬だとか、あるいは、からし種のたとえ、放蕩息子のたとえというようなたとえ話と、ここで言われている「たとえで」というのは言葉が違います。新改訳聖書の欄外に注がありまして、この言葉は直訳すると「比喩を用いて」と説明されています。ギリシャ語で「パロイミア」という言葉で、もともとの意味は「傍らの道」という言葉からできています。これは、脇道と言ったらいいでしょうか。この「パロイミア」という言葉は、新共同訳聖書ではヨハネの福音書の10章1節で「謎」と訳されています。一般には「比喩」とか「寓話」などとも訳されることがあるのですが、少し謎の込められた言葉です。
 それに対して「放蕩息子のたとえ」などとして聖書によく出てくるたとえ話は「パラボレー」という言葉で、このパイロミアとは少し区別されて使われています。

 比喩とか寓話などというと少し分かりにくく感じるかもしれませんが、子どもの絵本などを読んでいますと、この寓話というのは意外に多いわけです。
 たとえば「三匹の子豚」という話があります。オオカミが来て、藁の家に住んでいる子豚、木の家に住んでいる子豚、レンガの家に住んでいる子豚と次々に襲いまして、レンガの家はびくともしなくて大丈夫だったという物語です。こういう寓話を通して、大切なものに気づかせようとしているわけです。

 先日も、娘にある絵本を読んでやっていたのですが、その絵本がずいぶん気に入ってしまいまして、この絵本の続きの話を教えてくれと言って来るのです。もちろん、つづきなどないので、仕方がなく、適当に物語をつくって続きの話をします。ところが、この要求がどんどんエスカレートしてくるので、私は娘に一つのお願いをしました。そんなに次々にお話が出てくるわけではない。少し考える時間が欲しいので、代わりに何かお話をしてくれないかと頼みました。すると、娘が創作の物語をしてくれたのです。少し面白かったので紹介したいと思います。相変わらずの親ばかぶりで申し訳ないのですが。

 こんな話です。あるところに三匹の子豚がいました。藁の家に住んでいる子豚のところにオオカミがやって来ました。「いーれーてー」。何も返事がありません。オオカミは次に木の家に住んでいる子豚さんの家に行きました。「いーれーてー」。何も返事がありません。オオカミは次にレンガの家の子豚さんの家に行きました。「いーれーてー」。何も返事がありません。オオカミはしょんぼりして家に帰って行きました。
 とても礼儀正しいオオカミです。私はこの話を聞いたときに涙が出るほど笑いました。この話が説教とどうつながるのかはかなり疑問ですが、これもひとつの寓話であるのかもしれません。いくら礼儀正しいオオカミでもやはりその姿はごまかせないということになるのかもしれません。

 こういう話、ここでは「たとえ」と言われているわけですが、この「たとえ」というのは、何かと比較させて考えさせたり、その話を通して大切なことを暗示するということはできますが、聞く人の理解力に大きく影響されます。弟子たちは、これまでの主イエスの話を聞きながら、それはまるで謎の秘められた寓話のように聞いていたとここで言ったのです。どんな意味があるのか、そのカギを解かないと分からないと。そして、主イエスもそのように、たとえで話してきたのだと言われたのです。けれども、その時がくるともはや謎に満ちた言葉ではなく「はっきりと告げる時が来ます」と主イエスは言われました。そして、そのすぐ後ではっきりと主イエスはお告げになった。それが、26節から28節までです。
 26節にはこうあります。

その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません

 ここで主イエスは「その日」と言われました。「その日」というのは前のところで語られていたミクロンという言葉で語られた、「しばらくするとわたしを見る」と言われていた時が来るということです。もう、目の前まで差し迫った時、主イエスの死とそれを乗り越えられてよみがえられた時のことです。その時がくると、「あなたがたがわたしの名によって求めるのです」というのは、何を言っているのでしょうか。

 この箇所は私たちの祈りの支えになっている聖書の言葉です。わたしたちはお祈りをするときに、最後に「主イエスによって祈ります」とか、「主のみ名によって祈ります」と言います。その祈りはこの言葉に根差していると言われる箇所です。ひょっとすると、洗礼の準備クラスか何かの時に、「私たちは父なる神様と直接話すことができるような関係ではそもそもなかった。けれども、主イエスが父なる神と私たちの間に入ってくださってくださるので、お祈りすることができるようになったのだ」という説明を聞いたことのある方があるかもしれません。時々時代劇などを見ていますと、将軍様や、大名などに百姓が申し立てに行く場面などがあります。すると、貧しい身分の者は直接身分の高い人に話しかけることはゆるされていないので、その間に取次役が入りまして、まるで通訳でもするかのように言葉を取り次ぐ場面があります。本来は、身分の低い者は、高い者に直接話しかけることができないということがあったのです。

 ところが、ここを読んでみますと、どうも、そういうことではないようなのです。「わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません」とあります。なぜかというと、「それはあなたがたがわたしを愛し、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです」と27節にあります。もう、取次をわたしはしないのだとここで主イエスは言われているのです。もう、直接語りかけたらいい、そういう時がくるのだと主は言われました。それは、なぜかというと、父と、あなたがたとは愛で結ばれているからだというのです。

 主イエスを信じるということは、主イエスを遣わされた方、父なる神と深い愛の関係となるのだと主イエスはここで弟子たちに語られたのです。何度も何度も主イエスが語られてきたことです。けれども、ここで、主イエスの語りかけを聞いて、これは、「この主イエスはここから何か教訓を学び取るために自分たちに話しておられるのではなくて、本当にそうなのだ」ということが、分かったということなのだと思うのです。
 どうも、このヨハネの福音書を最初に言ったように丁寧にみていくとそういうことになる。ここで、この言葉で弟子たちの目は開かれた。つまり、主イエスを信じるということこそが、神の愛の交わりの中にいれられるということなのです。
 それで、主イエスは念を押すようにもう一度語りかけられました。

わたしは父から出て、世に来ました。もう一度、わたしは世を去って父のみもとに行きます。

28節です。ここで、やっと弟子たちにも分かった。主イエスは父なる神から遣わされてこられたお方で、まもなく、殺される。しかし、主イエスは父のところに戻られる。けれども、それは私たちには悲しいことなのではなくて、喜びそのもの、それは、今度は父なる神と自分たちは愛の関係の中で、まるで主イエスと父なる神がそうであったように、今度は自分が父なる神と直接語り合うことのできる愛の交わりにいれられるのだということが、ここで分かった。
 それはまさに、主イエスが真剣に、自分の存在をかけて、弟子たちに向かって語りつづけられたからです。主イエスは諦めずに、自ら心を開いて語りかけ続けてくださった。だから、届いた。

 考えてみてください。そこにこそ、主イエスの愛の姿があるのです。理解力のない弟子たちなのです。毎日顔を会わせ、寝食を共に、ずっとはじめからずっと同じことを語り続けておられるのに、ちっとも悟らない。理解しない。挙句の果てに、質問することさえやめてしまって、仲間内でこそこそ話し合うようになった。それが弟子たちです。もう頭に来たといって、主イエスから見捨てられても仕方がなかったと思います。けれども、主イエスは諦めない。心を砕いて、心を砕いて、語りかけ続ける。分かるまで、コツコツと。相手がすねても、見捨てることをせず、最後の瞬間まで、まさに、あとミクロというほどに残された時間が短くなっても、なおも語り続けてくださった。ここで、主イエスの愛の姿があるのです。この主イエスの愛の姿が見えたときに、分かった時に、弟子たちは主イエスを遣わされた方、父なる神との愛の交わりにいれられるということが分かったのです。

 主イエスは言われました。31節と32節。

あなたがたは今、信じているのですか。見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。

 ここに来て、主はほっとして良かったと言って、ここでハッピーエンドをお語りにはなりませんでした。もちろん、分かったことは良かったのです。信じたことは喜んでおられるのです。けれども、主イエスはそこで立ち止まられません。もう時間がないのです。だから、この次に起こることを話しておかなければならない。それは、あなたがたは今信じた気持ちになった。けれども、あなたがたは散らされて家に帰るだろうと、主イエスは言われたのです。

 主イエスはよく知っておられる。人がどれほど不完全かということを。分かった。私も主イエスを信じようと思う、決心する。洗礼を受ける。けれども、しばらくすると、教会にいけなくなることが起こる。家にいたい。教会にもう行きたくない。何故か、思いがけないことが起こるからです。ただ、神との愛の交わりの中にいれられる幸いをおもいえがいていられる間は良いのです。けれども、そこに色々な人たちが入り込んでくる。うちの墓はどうするのか。クリスチャンになると結婚できなくなるぞ。あるいは、すべてがうまくいくと思い込んでいたけれども、信仰をもっても何もかわらない、いや、もっと大変なことになった。さまざまな躓きがある。周りの人から理解されない。色々な理由で、もういい、家に帰ろう。家にいよう。そういう日が来るのだと、主は、「信じた」と言ったばかりの弟子たちに語りかけたのです。

 何もここで言わなくてもいいのにと、思うのですが、主イエスは言わずにはおられませんでした。そして、文字通り、弟子たちは主イエスが捕えられ、裁判にかけられ、処刑されると、散らされて行ったのです。家に、部屋の中に閉じこもったのです。そこが一番安全だと思うからです。けれども、そこが、一番安全ではないことは本当は分かり切っているのです。神の愛の交わりの中に、神の御手の中にいることこそが平安であるに違いないからです。

 主イエスは語りかけます。

わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたが、わたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。

 父なる神との愛の交わりに生きることが幸いなのだと信じるのなら、何が起ころうとも、そこから離れるな。勇敢であれと主は言われます。目の前に起こったことで取り乱し、不安を抱く必要はない。それは、この世での出来事なのだからと、主は言われるのです。目の前に何が起ころうとも、私たちに与えられる平安は、永遠に支配されるものです。目の前のことが、この世の生活が困難を抱えたとしても、それは永遠ではない。それは、絶対的な絶望ではない。死すら、絶望ではないのだと、主は言われるのです。これこそが福音なのです。主は、私たちに、絶望を乗り越えさせ、常に希望と喜びに生きる父なる神の永遠の愛の交わりの中に私たちを生かしたいと思っておられるのです。

 お祈りをいたします。

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