・説教 ヨハネの福音書17章1-8節「永遠のいのちを」
2015.10.18
鴨下 直樹
今日から、ヨハネの福音書の第17章に入ります。ここは、主イエスの告別説教の結びの部分でもあります、主イエスの告別の祈りがささげられているところです。この17章はすべて主イエスの祈りですが、少し分けてこの主の祈りに耳を傾けたいと思います。
今日の箇所は冒頭の一節にこのように記されています。
イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください」
この時、主イエスと一緒にいた弟子たちはこの主イエスがなさる祈りを傍らで聞くことができました。主の祈りの姿を直に見ることが出来たのです。そして、私たちはここにこの祈りが記録されているので、私たちも、まるで弟子たちと共に、主の傍らにいるかのようにして、主の祈りを聞くことがゆるされています。
先週の木曜日の祈祷会の時に、ある方が人の前で祈ることが苦手だという話をされました。何人かの方が同じように感じておられるようで、おそらく、ここにも同じような思いの方がおられると思います。その時に、ある方が、「先生はどういう祈りがいい祈りだと思われますか」と率直に質問してくださいました。みなさんとしても、どういう祈りがいい祈りなのかと興味のある方があるかもしれません。私はすぐに、「主に、直接語りかけているような祈りは、いい祈りだと思いますねぇ。」と答えました。祈るときに、どうしても、うまく祈りたいと思う。立派な祈りをして、他の人にあの人はこんな立派な祈りをすると思ってもらいたいというような下心がある。あるいは、反対に、せめて恥ずかしい祈りだとは思われたくないという思いがあるのかもしれません。けれども、祈りは私たちにゆるされている、父との深い交わりの時です。先週の説教でもいいましたけれども、私たちは、主イエスに取りなしてもらってやっと祈ることができるという関係ではなくて、もう、直接父よと祈ることができる関係にされているのです。
弟子たちはこの時、主イエスと父なる神との会話をすぐ横で聞くかのようにして、主の祈りの交わりを目の当たりにしました。それは、弟子たちにいいところをみせようとか、かっこ悪い姿を晒さないようになどということがまったく入り込む余地のないほど深い交わりでした。ある人が、「受話器の向こう側の声が聞こえてきそうだ」と言いましたが、まさに、そのような深い交わりの祈りがここに記されています。
この主イエスの祈りは「大祭司の祈り」と言われることがあります。「大祭司の祈り」というのは、大祭司アロンの祈りを指します。いつも、礼拝の最後に祝祷をいたします。その時に、私が祈る祝祷の中でももっとも多く祈るのがこのアロンの祝祷です。民数記6章24節から26節に記されている祈りです。
「主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。」
主が御顔を向けて照らしてくださる。主が御顔を向けてくださる。アロンの祝福の祈りはそのように祈っています。まさに、ここで主イエスの祈りに主の御顔が向けられ、主の輝きが主の御顔に映し出されるように、主は父なる神と、顔と顔とを向き合わせて祈っておられる姿がここにはあります。
私自身も、そのように主と祈りたいと思うのです。そこに父がおられるかのようにして祈ることができる幸いを、私たちは与えられているからです。そして、この主イエスの告別の祈りは、その祈りの姿を私たちに見せてくださっているのです。
そして、主は祈られます。「父よ、時が来ました」と主はまず祈られました。父のもとに行く時がまさに来た、とまず祈っておられます。そして、まさに、いまこの時、主イエスが十字架の死を味わうことになるこの時が、父の栄光を子が現わす時となるようにと祈っておられます。
お気づきのように、主イエスのこの最後の祈り、告別の祈りは、他の福音書に記されているゲツセマネの祈りの姿とは、ずいぶん異なっています。ゲツセマネの祈りは苦悩される主イエスの祈りの姿が描き出されているとすると、ここに記されている主イエスの告別の祈りは、まさに、このすぐ前に主イエスが宣言しておられる通り、世に打ち勝った者としての祈りの姿がここに描き出されていると言えます。
みなさんももうすでにご存じのことと思いますけれども、先週水曜日の祈祷会の終わりの時に、Hさんが急に痛みを訴えられて救急車を呼ぶことになりました。ずっとそれまで一緒に聖書の話を聞いておられたので、そんな大変な状態になってしまったのだということに気づきませんでした。急性大動脈解離と診断されました。病院に到着したときには今夜緊急手術になるだろうという説明でしたが、幸い、手術をしないですむことになりました。痛みを訴えられた時も、すぐ祈りました。車で病院に駆けつける間も、待合室にいる間も、何度も何度も祈りました。祈りながら何度もわたしの頭の中をめぐった聖書のみ言葉は、先週の最後の主イエスの言葉でした。「わたしはすでに世に勝ったのです。」
そう祈りながら、わたし自身のうちにこういう思いが浮かんできました。もし、「わたしはすでに世に勝ったのです」というこの主の言葉を心に刻むことができるのであれば、そこには、確かに死を超越した信仰に生きることができるのだということに、改めて気づかされたのです。
確かに、この主イエスの祈りはゲツセマネの祈りと異なり、とても力強さを感じます。まさに、ここで、主イエスが祈っておられる「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください」と父に祈ることのできるほどの確信を主はもたれたのだということが見えてくるのです。
先週の礼拝の後で、根尾クリスチャン山荘で教会キャンプをいたしました。今年の年間聖句をもう一度心にとめて、み言葉を味わうことにしました。
年間聖句はこういうみ言葉です。
キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたがも互いに受け入れなさい
ローマ人への手紙15章7節のみ言葉です。もう、今年何度もこのみ言葉から説教してきました。色々なところで、このみ言葉に触れてきました。キャンプの一日目はローマ書の14章全体から考えました。ローマ書14章というのは、「信仰の弱い人を受け入れる」というのがテーマです。自分がここは強いと思っているところで、私たちは人を裁いてしまいます。特に、信仰の歩みにおいてそういうことが起こってしまいます。色々な方々の言葉を聞きながら、一緒にこのことについて考えたのですが、私は結論としてこう言いました。その人は受け入れる、けれども、その人の行った事柄は別だと。理解できることもあるでしょうし、罪を指摘しなければならないこともあるかもしれません。けれども、その事柄のために相手を受け入れないというのは、この聖書の語っていることをつかみ取り損ねることになります。
二日目は、この年間聖句から考えてみたのですが、特に、こういう質問をしました。キリストが私たちを受け入れてくださったのは、神にとってどういう意味があるのかという質問です。神にとって、私たちを受け入れることに何かメリットがあるのでしょうか。最後に私はこういう話をしました、神にとってそれがどんな意味があるかは、神にしか分かりません。けれども、少なくとも、神は私たちの中に、何かを見出しておられる。自分では気づかないけれども、神には見えている私の本来の姿があるはずです。ですから、神が私たちに期待しておられるそのことに期待して、それを見せていただこうという望みに生きること、そこに神の栄光がしめされるはずだと話しました。
同じことが、この主イエスの祈りでもいうことができると思うのです。神の栄光が、イエス・キリストを通して現わされるように、神があらかじめご計画しておられるはずです。けれども、その栄光はまだ見えていない。見えていないからといって、神の栄光が示されないのではありません。示されるのです。それは、主イエスが神の願っておられるように生きた時に示される。それは間違いのないことです。そして、今まさに、キリストの栄光がこの世界に示される時が来たと、主イエスは祈っておられるのです。
主は祈られます。5節。
「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」
神の光が、ここで主イエスを見つめていると輝きだすのです。先ほど、アロンの祝祷の話をしましたけれども、まさに、神が御顔を向けてくださるところに、神の栄光の光が輝き出す。そして、その神が見ておられる主イエスをじっと注意して見てみると、そのキリストは十字架で苦しめられて殺されるのです。そして主イエスは死んでしまいます。殺されてしまいます。光が輝きだすと思って期待して見ていたのに、もう光どころではない、真っ暗闇ではないか、というほどの暗黒に包み込まれてしまうのです。
けれども、その闇を、暗黒に飲み込まれたかのように見えたキリストの死を、じっと見つめていると、そこから輝きだすものが見えて来る。その光はどんどん光り輝き、世界はこの光の包み込まれていくほどのまばゆいばかりの光となる。
そう、手術をするかもしれないというHさんの傍らにいても、この光はその人を呑み込んでいく。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」というヨハネ11章25節の言葉と共に、あるいは16章33節の「わたしはすでに世に勝ったのです」という言葉と共に、このキリストの栄光は、この十字架の死と、葬られた墓から輝きだすのです。
2節で主イエスはこう祈られました。「それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため」と。主がこの世界に示そうとなさる栄光とは、まさに、「永遠のいのち」の輝きといってもいいのです。では、その永遠のいのちとは何か。主イエスはここでこの問いに答えておられます。3節です。「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」主イエスはここでそう言われました。永遠のいのちとは何か、それは、神と主イエスを知ること。それが、主イエスの答えです。
永遠のいのちとは霊魂が滅びないこと、というのではない。永遠のいのちというのは、不老不死を得るということでもない。永遠のいのちとは、主イエスを知ること。主イエスは、この世界が存在する前から父なる神と共におられたお方だということを知ること。主イエスはこの父なる神の栄光を、この地でお示しになる方。主イエスは、死んでも生きる方。主イエスは世に打ち勝たれた方。主を知ること、この地上で生きられた主を見続けること、主の十字架と復活の姿を見つづけていると、神が与えようとしておられるいのちの輝きが見えて来るのです。
誰かのためにそのいのちを犠牲にする姿、虐げられるものを受け入れる姿、自分が罵られ、迫害され、痛めつけられても、言い訳をすることもなく、それを受け入れられる姿。そういう主イエスのあらゆるお姿を知ることを通して、本当のいのちの使い方が見えて来る。それまでは誰も気づかなかったような、いのちの使い方を知る。自分を捨てて、人のためにいのちを犠牲にする生き方など聞いたこともない。人のした悪に代わって自分が罰を受けることを良しとする生き方など、学校では習わない。しかし主イエスを知ることを通して、人は、自分のいのちの使い方を知るようになる。自分のいのちにまさに光が灯るのです。それまで、消えていたいのちのともしびが、自分の中で輝きだすのです。
主イエスは父との祈りの中で、そんな言葉を交わされているのです。このお方がどう生きてこられたのか、どう自分のいのちを終えようとしているのか。この祈りの中に、主イエスの祈りの中に、人のあるべき姿が見えて来るのです。
私たちも、この主イエスと父なある神との祈りにみられる関係のようになれたらなんと素晴らしいことでしょうか。私たちも目を天に向けて、祈ることができる。父よ、あなたの栄光を、私の人生でもって示してください。あなたの輝きを、私の人生の中で灯してください。主イエスの持っておられたそのいのちを、この世のものではない永遠のいのちを、私にも与えてください。そのように、私も生かしてください。私たちはそのように、祈ることができるのです。
お祈りをいたします。