・説教 ヨハネの福音書17章6-19節「主のみもとに」
2015.11.15
鴨下 直樹
今日は、主に11節を中心にこのみ言葉に耳を傾けてみたいと思います。
わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。
ヨハネの福音書の第十七章は主イエスの祈りが記されているところです。しかも、最後の祈り、主イエスが十字架で死ぬ直前の祈りです。弟子たちへの最後の別れの言葉を伝えたあとで、主イエスが弟子たちと別れる前に、祈った祈りです。その祈りは、この世に残される弟子たちを守って欲しいという祈りです。
今日は召天者記念礼拝です。今日は共に先に天に送った私たちの家族、信仰の友として生きられた方々のことを思い起こしながら、礼拝を捧げています。礼拝では順にヨハネの福音書からみ言葉を聞き続けていますけれども、まさに、この箇所は召天者記念礼拝にふさわしい箇所です。けれどもよく考えてみますと、私たちは毎週の礼拝において既に天にあげられた主イエスのことを思い起こしつつ礼拝をささげているのです。
昨日のことですけれども、私たちの教会で特別講演会を行いました。名古屋にあります中京大学の安村仁志学長をお招きいたしました。講演のテーマはすこし長いのですけれども、「人とは何者なのでしょう。人はどこに向かっているのでしょう。ほんとうに大切なものは何でしょう」というテーマでした。安村先生自らがつけてくださったテーマです。
この講演で安村先生は、「パスカルの原理」で知られるフランスの自然哲学者でもあり、思想家でもあるブレーズ・パスカルの話をもとにお話しくださいました。このパスカルという人はパンセという本を書いたことで知られています。あの「人間は考える葦である」と言った人です。私も昨日とても興味深く聞いたのですが、このパスカルがどんなふうに人間を見ていたのかというところから講演をしてくださいました。もちろん、ここで昨日の講演を繰り返すつもりはありませんけれども、パスカルは「人間が偉大なのは、自分が悲惨だということを知っている点においてである」と考えたのだそうです。それは、自分の存在が不確かなものだというところからきているわけです。このパスカルが悲惨さをどこに見たのか、いくつかあるようですけれども、人間は死んでしまう存在だということ、そして、無知であるということです。人は必ず死ななければならないというところから生じる悲惨さ、知らなければならないことも知っていない悲惨さ。けれども、その悲惨さを受け止めることができるなかに人間の偉大さがあると考えたのです。多くの場合、人はその自分の悲惨さに目を止めようとはしません。それで人間は何をするのかというと「気晴らし」をするのだとパスカルは考えたのだそうです。どういう気ばらしかというと、死ぬとか、無知だとかいうことを考えなければ幸せでいられるというわけです。思い当たるところがたくさんある気がします。それで、パスカルは神を知らなければその人間の悲惨さからは解放されないのではないかと考えたということでした。
昨日、安村先生はそのあとのことをお語りになりませんでしたけれども、パスカルはさらにこう考えました。神は無限の存在で、限界がないのでこの神を知ることによって、人間は自分の悲惨な状態から抜け出すことができるというように考えます。ところが、問題はそういう神が本当にいるのかということです。これは、日本の神という言葉の持つ意味と、パスカルの神という言葉の意味とが違ってくるので少し分かりにくくなってしまうかもしれませんけれども、パスカルの言う神というのは聖書の神のことです。けれども、問題はこの神が本当に存在するのか、しないのかは賭けだと、パスカルは考えたのだそうです。パスカルのこういう言葉があります。
「神があるか、ないか。どっちかに違いない。私たちとしてはどっちにくみするべきだろう。理性はどっちとも決めかねる。無限の深淵がわれられを隔てているのだ。この無限の距離の尽きるところで、一つの賭けが行われる。サイコロの表がでるか、裏が出るか。さて君はどっちに賭けるか?」
それに続いてこうあります。
「神が存在するという方に賭ける場合の損得を見積もってみよう、君が勝てば君はすべてを手にすることになる。また負けても何も失いはしない。だったら躊躇なく、神があると賭けるがいい。」
まだ言葉はつづくのですが、この話を聞きながらとても印象深く聞きました。
神を信じるということは、結局は賭けなのだというこのパスカルの言葉はユーモアだと言っておられました。ここでいう賭けとは、何を賭けるのかというと、自分の人生ということになります。自分の人生を賭けても失うものはないはずだから、安心してこの神に賭けてみよというわけです。
今日の聖書の箇所はまさに、その答えでもあるかのような箇所だと思っています。今日のところは、主イエスの祈りの言葉です。自分がこれからこの世を去って行く。十字架で殺されるすぐ前の祈りです。ここで気づくのは自分のいのちをかけたのは、私たちや、弟子たちではなくて主イエスご自身でした。なぜ、自分のいのちをかけたのかというと、それは、ここにいた弟子たち、そして私たちを愛したからでした。私たちが悲惨な状態にとどまり続けることがないためでした。人間の悲惨さ。それは、自分の存在の意味が、重みが良く分からないところにあります。何のために生きているのか、自分にどれほどの価値があるのか。パスカルが考えたように無限の宇宙の前に立つと、自分がみじめになるしかないのです。けれども、主イエスがそのような人のためにご自分のいのちをかけてくださったことによって、私たちはその存在の軽さから救われる。イエス・キリストはご自分のいのちをかけてもいいと思うほどに、私たちそのものに、いのちの価値を見出してくださったからです。
主イエスはここで、この世に残された弟子たちのために祈っています。その時に、今から、自分はこの世を去って行くと祈っています。この世を去るとき、自分が死ぬとき、何よりも自分のことではなくて、他の人のこと、愛する家族や友のために考えるという生き方ができるということは、何よりも幸いなことです。人のいのちの輝きは、自分のために何をなし得たかではなくて、人のために何をすることができたかで現れます。そのような生き方を主イエスは人に語るだけではなくて、自らそのように生きておられます。
その祈りの内容は、自分はやがて去って行くけれども、自分に与えられた名前の通り、わたしの名前に与えられているようにしてくださいと主イエスはここで祈りました。主イエスの名前、それは、「イエス」という名前です。これは、ヘブル語で「ヨシュア」という名前、意味は「主は救い」といいます。神が救ってくださる。そのような名前を与えられて、その名前のように、主が、神が救いであることを知って生きることが出来ますようにという願いです。
みなさんにも、名前がそれぞれつけられています。その名前には名前をつけた人の思いがあります。その名前のようになってほしいという願いが込められています。まだ、私が小学校の時のことですけれども、学校の宿題で、自分の名前の意味を親に聞いてきなさいという宿題がありました。私の友だちに、学校に行くときに名前、どんな意味だったのと聞きますと、親が「お前の名前は電話帳をぱらぱらっと開いて適当に指をさしたところにあった名前にしたんだって」と答えました。だから、学校で先生にそう言うつもりだと悲しそうに言ったのです。私はとても親しくしていた家族でしたし、子どもの名前はみんな一字でつけられていますから、今思えばちゃんと親は意味を持って付けたということは分かります。たぶん、何かの話のついでに聞いたか何かして、親はまさかそれが宿題とは思わずに、その時たまたますこし冗談で答えたのだろうと思います。けれども、その時はその友達の言葉がショックでどう声をかけていいかわからない気持ちになったことを、今でも覚えています。
生まれたときから、何度も何度も呼び続ける名前です。その名前に親の愛情がないなどということはあり得ないことです。そうしてつけられた自分の名前に、自分は支えられるということが誰にもあるのだと思います。
主イエスは、神が救ってくださるのだという名前を頂いて生きたのです。そして、その死を目の前にして、いよいよ自分の名前の意味を考えずにはいられなかったと思います。この名前にすべてがあらわされている。主は救い、救いの神、この神があなたを守るのだと主イエスは最後の最後まで願っていてくださるお方なのです。
主イエスの願い、主イエスの祈り、それは、私たちがこの世で、死に怯え、自分の存在のはかなさを嘆いて、人間とはなんと悲惨なものなのだろうと悲しみに生きるところから、救い出されること、守られることにあります。あなたのことを気にかけてくださる神がおられる。この神が、あなたを守ると言われる。そういう神であるがゆえに、信仰に生きた方々が自分の人生をこの神に、主イエスにかけたのでした。いつも、最後に召天者の方々の写真を見ながら、短い祈りのときを持ちます。その時、ぜひ、知っていただきたいのです。すでに天にあげられている私たちの愛する方々は、今、主イエスと共にこの祈りをこの世に生きる私たちのために祈っていてくれているのだということを。
わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。
主イエスと父なる神が一つとなっておられるように、信仰に生きた人々と、私たちはこの主イエスの祈りによって一つとされる。そして、この主イエスという名前の中に私たちも、愛する方々も保たれて、一つとなることができるのです。こうして私たちはこの世に生きながらも幸いな者として生きることができるのです。
お祈りをいたします。