・説教 ヨハネの福音書17章20-26節「主にあって一つとなる」
2015.11.22
鴨下 直樹
11月14日、私たちの教会で特別講演会を行った日に、フランスのパリで同時多発テロが起こりました。日本でははじめあまり取り上げられていませんでしたけれども、ヨーロッパではかなり大きな問題として人々は捉えています。毎日の生活が脅かされているのです。多くの人々は今、とても不安な中で毎日を過ごさなければなりません。それと同時に平穏な生活というのは常に脅かされる危険があるのだということを、誰もが身に沁みて感じています。
このヨハネの福音書には「世」という言葉が何度も出てきます。「コスモス」という言葉です。それ以外にも聖書には「世」と言う言葉は何種類かあるのですが、この「コスモス」という言葉は、神に敵対する世界という意味でこのヨハネの福音書では使われています。神の救い、神の支配、神の国、色々な言い方で聖書では書かれていますけれども、この神の救いの世界に相対する世界が「世」と聖書では言っています。それは、こういうふうにも言うことが出来るのですが、神の救いのない世界という意味です。
聖書を読む時に、私たちはいつも、この世界に生かされているということを念頭においている必要があります。そして、前にも話しましたけれども、この救いのない世界に私は生きているということ、この世と自分とは無関係ではないということ、自分も世そのものとなっているという部分を認めなければなりません。
テロが起こったので、この世界は危ないということではありません。テロが起きてしまう世界、誰でも自分の正義を持ちうるこの世界そのものは、神の正義とは違うところで生活が営まれている世界なのです。私たちは、11月14日以前からどうしようもないほど危ない世界に生きています。神の救いのない世界に生かされているのです。
なぜ、この世、この世界には救いがないのか。そのはっきりとした答えが、今日の聖書の中に記されています。それは、主イエスがこの世界におられないからです。いや、この世が、この世界が主イエスを殺してしまった。神がこの世界にもたらそうとした救いを、この世界は拒みました。それが、主イエスの十字架です。ここに、この世界の罪があります。神の救いがなくても、この世界で幸せに生きられるのだと人々は考えているのです。
けれども、そうやって生活しながら、自分で何とか幸せをつかみとることができると思える間は、神の救いなど必要としないで生きることができます。しかし、一度その生活が脅かされ始めると、人々は口を開き始めます。なぜ、この世界はこんなにも危険な世の中になったのか。そして、私利私欲を求めるヨーロッパの経済システムが悪いとか、キリスト教が排他的だからだとか、色々なことを口にします。けれども、自分が神の救いを必要としないで、神がこの世界にもたらそうとした本当の救いを、自分たちで闇に葬ったのだということには目を向けようとはしません。
自分の存在そのものが、この世界の負の遺産となっている、闇をつくりだしているということには目を向けようとはしないのです。けれども、本当はこの世界のすべての人が、自分の罪を、自分が自分の喜び、しあわせのために、多くのものを犠牲にしているという反省からはじめるのでなかったら、本当に何も変わらないのだというところに立つことから始めなければならないはずです。
主イエスは十字架で殺される直前に祈っておられます。
わたしは、ただこの人々(主イエスを信じた人々)のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。
ここに、主イエスの驚くような祈りの言葉が記されています。主イエスと神がひとつであるように、主イエスを信じる人々もまた、主イエスと神が一つとなっているように一つとなることができますようにと、主イエスが祈って下さったのです。
何が驚きかというと、ここで祈られている弟子たちは次の日、つまり、主イエスが裁判にかけられて、十字架にかけられるまでの間に、すべての弟子たちは逃げ去って行った人たちなのです。弟子たちの反省が記されているわけではありません。この世界の人々は、自分を救おうとしてくれているこの主イエスを、殺そうとしている。そして、その仲間であった弟子たちも逃げ去ってしまう。誰も、主イエスの傍らにいて最後の最後まで一緒に戦うというような気概のある者はいませんでした。それなのに、そんな神の意志に逆らっている反省もない、いや、むしろ逃げ出してしまって、信仰を捨ててしまっているような弟子たちのために、主イエスは祈っておられる。この人たちも、わたしと神とが一つとされているようなその深い神との信頼関係の中に、神との交わりの中に、入れてやってほしいのだと主イエスは祈られたのです。
主イエスはご自分が父なる神に深く愛されていることを知っています。時々、子どもが、「お父さん、だーいスキ!」と言ってくれることがあります。もう親としては、そういう娘を見ているだけで、本当に嬉しい気持ちになります。もちろん、子どもには下心がある場合が多いので、どこまで素直に喜んでいいかという別の問題は常にあるのですが、それを差し引いても、やはり嬉しいものです。
主イエスにしてみれば、自分がどれほど父なる神に愛されているのかということは、おそらく誰よりもよく分かっていたはずです。文句のつけようのないほどの完全な愛を味わったはずです。そして、主イエスも打算的なものの一切ない、本当の愛で父を愛したことでしょう。もうそこには誰も間に入り込む余地のないほどの深い神との交わりがありました。まさに、ぴったりと一つになるというのは、このことかというほどの完全な一致がそこにはあったはずです。
この20節から26節までのなかで、主イエスは「一つとなる」という言葉を何度も繰り返しておられます。主イエスはこの祈りのなかで、まさにご自分と父なる神との交わりのような一致の中に、主イエスを信じる人々を入れてくださいと祈っています。もう一度言いますけれども、この主イエスを信じた人々というのは、主イエスが十字架にかけられている時には逃げ去って行くような人たちでした。そのような不完全な者が、神と主イエスが一つであるように、その深い交わりに入れられますようにと、主イエスは祈って下さったのです。
もし、ここで主イエスが祈られたことが現実になると何が起こるのかというと、23節ではこうあります。
それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。
この世界は、この神の救いを拒絶するような人々であっても、主イエスを信じた人が、この神の交わりの中に入れられていることを通して、神は、主イエスを愛されたように、この人たちを愛してくださったのだということを、この世界は知るようになるのだというのです。
21節では「そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを世が信じるためなのです」とも言われています。この自分のために生きている人々、神の救いを求めないで、自分の思い描く救いを求めている人であったとしても、クリスチャンを見ていると、ああ、この人は本当に神に愛されているのだと認めざるを得ない、神はこの人を本当に愛しておられるのだと信じるしかなくなるのだと主イエスはここで祈っておられるのです。
「ああ、この人のように、神に愛されて生きることができるのだとしたら何と幸せなことだろう」とこの世界が認めるほかなくなるほど、神に愛されている姿として映るということです。
ヨハネはこの福音書で、最後にこう記しました。26節の最後の言葉です。
それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。
ヨハネの福音書の言葉ではそういう言い方になりますが、パウロはこれをギリシャ語で「エン・クリストー」と記しました。英語でいう「イン・クライスト」、日本語では「キリストにあって」と訳される言葉です。直訳すると、「キリストの中に」ということばになりますから、このヨハネの福音書の言葉がよく雰囲気を捉えています。
キリストの愛の中に入れられるということです。先週、墓地礼拝ではローマ人への手紙8章の最後のところを読みました。ここでは繰り返して読みませんけれども、その世界にあるありとあらゆるものをもってしても、この神の愛から引き離すものはないのだとパウロは言いました。それほどに、強い主の愛の中に入れられるということです。
それは、こういうことです。もし、私たちが病に倒れて死んでしまったとしても、その少し前に教会に来られなくなって礼拝を休んでいたとしても、周りにいる人が誰もキリスト者であるということに理解を示してくれなかったとしても、主イエスと父なる神とが一つであったように、あなたも、主イエスと一つとされているから、大丈夫なのだということなのです。それが、主イエスを信じて、主イエスを主として生きていくということによってもたらされるものなのです。
それは、たとえ明日、テロの犠牲になったとしても、不慮の事故に巻き込まれてしまったとしても、何かの病気で倒れてしまったとしても、私たちは神の愛の中に入れられているのでもう大丈夫なのだということです。
今日、私たちの同盟福音キリスト教会は教団の11月総会を、午後に行います。今、私たちの教会はさまざまな深刻な問題を抱えています。牧師の担い手がいない。教会に子どもや若者がどんどん減ってきてしまっているという問題。経済的に大変な課題が次々に増えてしまっているという問題。簡単にいうと伝道は進まない、お金はない、人もいない。このままで教会は大丈夫なのかという非常に現実的なところに立たされています。
しかし、私はほとんど心配していません。これらはすべて、私たちが、神の愛を見られなくなっているところから起こっている問題です。けれども、神が働いておられないのではありません。神は死んでしまったのではないのです。私たちが、父と子の深い交わりを見られなくなってしまっているから、私たちがどのように神に愛されているのかが分からなくなってしまっているのです。
大切なことは、とてもシンプルなことです。私たちの主がどのような愛で私たちを愛してくださっているのか。私たちの主イエスは何から勝利をしてくださったのか。私たちの主イエスは私たちのために何を祈ってくださっておられるのかが見えるならば、それは、私たちの目にも起こるのです。
ヨハネは、見ることを教えます。信仰のまなざしで見たことを信じるように語ります。ここでもそうです。いや、はじめからそうです。わたしたちの主ははじめことばとして登場します。そして、この方は光をもたらします。この光はいのちをもたらすのだというのです。
神が語られた言葉は、この世界の光です。そして、この神の光、神がみせてくださるものこそが、私たちにとっていのちなのです。
私たちに言葉をもって語りかけ、光を見せ、いのちを与えられるお方は、私たちのうちに、私たち同盟福音のうちに、あなたのうちに、主イエスとひとつとされる愛の中に入れられていることを私たちに見せてくださるのです。
お祈りをいたします。