・新年礼拝説教 イザヤ書66章13節「慰めの福音」
2016.01.03
鴨下 直樹
2016年 ローズンゲンによる年間聖句
「母がその子を慰めるように、わたしはあなたたちを慰める」 イザヤ66:13(新共同訳)
2016年、今年私たちに与えられている年間聖句はこの言葉です。「母がその子を慰めるように、わたしはあなたたちを慰める」。神が与えてくださる慰め、これは神が私たちに語りかけてくださるみ言葉です。
このみ言葉を、もう三か月ほど前のことになるでしょうか、長老会で、2016年の年間聖句はこの言葉になったと話しました。すると、そこで返ってきたのは、「慰め」という言葉の持つイメージはあまり良いものとはいえないのではないか、神が慰めてくださるということがどういう意味なのか、今の人にはあまりピンとこないのではないかと言われました。実は、私ははじめ、この長老たちの言葉が、何を言われているのかよく分かりませんでした。私にとって、「福音」イコール「慰め」とすぐに結びついていますし、これまでの礼拝の説教でもそうですけれども、神の慰めを語ることが自分の使命だと思っているところがあります。ですから、慰めが福音というのはあまり分からないのではないかという長老の指摘に、少し驚きました。
けれども、長老方の話を聞くうちに、色々なことに気づかされました。というのは、この世で「慰め」という言葉が使われる場合、「気休め」と言ったらいいでしょうか、とりあえず自分の心の平安を保つことを慰めと考えている場合がそれほど多いのだということを改めて気づかせられたのです。
「慰め」という言葉でイメージするものはそれぞれ異なるかもしれません。先日もお正月に、親戚が集まった時に、子どもたちが鉄棒の逆上がりができなかったという話をしておりまして、妻が思わず、「それは、慰められる」と言いました。自分よりも劣っている、自分と同じ仲間がいると慰められる。そのように使うことがある言葉です。それこそ、インターネットで自分の気持ちを分かち合うことのできる仲間を得ることが慰めであったり、ゲームに没頭することであったり、あるいは、イヤホンをつけて音楽を聴くことで、周りの世界から自分を遮断する方法を好む人たちも、もうそこで自分の世界に浸ることが出来るという慰めを得ています。それこそ、このみ言葉にもあるのですけれども、母親から「いい子だ」と撫でてもらってそれで安心するような慰めのイメージは、形を変えて手軽な気休めを貰うことでそれを慰めだと感じるという、今の社会の中で私たちは生きているわけです。ですからそういう社会で、「慰め」というのは本当に福音なのかという疑問を持つのはむしろ、当然のことなのかもしれないと確かに思うのです。
しかし、聖書の語る「慰め」、それは、福音そのものといってもいいほど、聖書の中では大切な意味を持つ言葉です。教会で「慰め」と聞いて思い浮かべる言葉がいくつもあるのだと思います。まず、出てくるのはハイデルベルク信仰問答の問いの一です。これは、教理を教えるものの中でももっとも重要な信仰の告白だと言っていいものですが、その信仰問答の最初の問いはこのようにはじまります。「生きている時も、死ぬ時も、あなたの唯一の慰めは何ですか」そのように問いかけます。これは、信仰の理屈、教理を教える教理問答ですが、教える教師が、信仰を学ぼうとする人に対してそのように問いかけているわけです。
「あなたが生きている時に慰められるもの、たとえ死んでも慰められるものとは何ですか?」つまり、あなたのいのちそのものが支えられているもの、あなたのいのちにとってかけがえのないほどの支えとなっているものは何ですか? というのが、この問いかけです。ですから、ここで問いかけている慰めは、一時的な気休めのものではなくて、自分のいのちを支えているものは何ですか、何によってあなたは支えられているのですか、あなたの本当の慰めは何ですかと問いかけているわけです。
すると、その問いかけに対する答えを信仰を学ぶ者は暗唱して答えるわけですが、その答えはこうです。「わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります。」
私の存在は何によって支えられているのか、私が慰めとすることのできるのは、わたしのいのちを支えることのおできになる主イエス・キリストのものとなることによってだと、教えているのです。信仰の教理について学ぼうとするときに、このように最初に心に留める言葉が、この慰めということなのです。私たちの本当の慰め、それはイエス・キリストである。それが、聖書が語る本当の慰めなのだと、信仰を学ぶときに、最初に教えられているわけです。
もう少し、この慰めという言葉について聖書から考えてみたいと思います。この「慰め」という言葉は、ヘブル語で「ナーハム」と言う言葉です。旧約聖書の中で108回この言葉が出て来ますから、よく使われている言葉だということができます。けれども、この言葉はいろんな訳され方をしているのです。ある場所では「悔い改める」と訳しています。他のところでは「憐れむ」と訳している場合もあります。もともとの言葉は「激しい息遣いをする」という言葉で、それがさまざまな動詞の形がかわることによって「悔い改める、憐れむ、慰める」と意味を使い分けているわけですが、大切なことはこの「ナーハム」という言葉は、「考えを変える」という時に使われているのです。乱暴な言い方を少しすると、考えを変えない慰めというのは、聖書は想定していないわけです。激しい息遣いをしながら、ある覚悟を持って自分の思いを改める。悔い改める、考えを変える、その先に慰めがある。
今年の年間聖句は「母がその子を慰めるように」とあります。その言葉だけを考えると、受け入れてもらうというニュアンスを感じます。「受容」という言葉があります。カウンセリングの勉強をしますとかならず学ぶことです。悩みを相談に来る人の事を受容してあげることが、カウンセリングの基本なのです。それで、受容と言う言葉と同時に大切にされるのが「傾聴」という言葉です。耳を傾けるということです。というのは、誰かに相談に行っても、その人の話しばかり得意になって聞かされて、ちっとも話を聞いてもらえなかったというような経験をする方があると思いますけれども、そうするとちっとも、わかって貰えたという気持ちになれませんから、そういう人のところにまた相談に行こうとは思わなくなるわけです。ですから、受容と傾聴ということはとても大切なことはお分かりいただけると思います。
けれども、ここには落とし穴がありまして、自分の話を聞いてもらえて、受け入れてもらったと感じると、相談をしに行った人にしてみれば、良かった、分かって貰えたということにはなるのですが、肝心の問題は解決していません。その人の考え方を改めなければ、本当の問題の解決はないわけです。けれども、今言いましたように、本当に自分の問題の奥深いところに触れて、自分の存在が支えられるような慰めを必要とする場合、その人自身が「激しい息遣いをしながら、その考えを改める」というところにきて、本当の慰めがあるということができるわけです。ですから、自分が受け入れられた、共感してもらえた、理解してもらえたというだけでは、自分の存在が本当に支えられるというのには、まだ足りていないのです。
最初に言いましたように、私たちの周りには、とりあえずの慰め、「気休め」が沢山ありますから、それで、慰められた気持ちになってしまい、そこまでの深い慰めを必要としないで、とりあえず満足してしまうわけです。
今年も、この年間聖句のカードをみなさんにお配りしました。はじめ、このカードにするのはどうかと非常に悩んだのですが、他にいいものがないこともあって、この絵にしました。ドイツのカトリックの司祭ジーガ・ケーダの描いたものです。大きな手の中に子どもが支えられています。その手の色が実にさまざまな色を帯びています。私たちが慰めを必要とするときというのは、自分の願っているような助けが与えられることと、思い込んでしまうところがあります。けれども、神の下さる慰めはいつも同じ色の支えではないのです。ワンパターンではないのです。自分が思いもよらないことで支えられるということがあるのです。
たとえば、私たちが慰められるときのひとつの場面というのは、自分と同じような苦しみを味わっている人を見る時です。この苦しみを自分だけが受けているのではないと分かると、慰められるということが起こります。それで、踏みとどまる力になるということがあります。それは、確かに慰めのひとつの側面であるかもしれません。けれども、その時の慰めというのは、自分より下を見て安心するということでしかありません。けれども、神の与えてくださる慰めは、悔い改めることと深く関わっています。自分を変えることと関わっているわけですから、自分の向いている方向が変わる必要があるのです。本当の慰めというのは、むしろいつも上を向いていられるようになることです。つまり、神の方を見上げることが出来るようになるということです。
自分よりひどいところにいる人を見て安心したり、自分の話を聞いてもらって気分が落ち着いたり、何かに没頭することによって嫌なことを忘れることが出来るというのは、根本的には何も変わっていないのと同じです。ですから、すぐにまた少しの出来事で気落ちしたり、苦しくなったり、悲しみに支配されてしまうのです。
けれども、神は私たちがそのままでいるのではなくて、新しい存在に変えられる道を示してくださいます。今、ヨハネの福音書から福音を聞き続けていますけれども、ヨハネの福音書の14章16節にこういう言葉がありました。
わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためです。
この箇所を説教した時にもいいましたが、この「助け主」のことをパラクレイトスとギリシャ語でいいます。もともとの動詞は「パラカレオー」と言う言葉です。このパラカレオーと言う言葉は、この慰めるという言葉のヘブル語の「ナーハム」とは同じ言葉です。ですから、「助け主」と訳す場合もあれば、「慰め主」と訳す場合もあります。つまり、主イエスがお約束くださった聖霊なる神は、私たちにこの慰めを与えてくださるお方だということなのです。ですから、新約聖書になると、この「慰め」という言葉は、神が傍らにいてくださる、神が味方してくださるという意味で記されているということもできるわけです。
神は、私たちを神のものとしてくださって、わたしたちの存在そのものを支えてくださり、私たちをこれまでとは異なる、新しい存在として生きることができるように支えてくださるのです。
ですから母が与える慰めと、主イエスが与えてくださる慰めは根本的には違うと言わなければなりません。けれども、慰められる者として考えると一つの共通点があります。それは、上を向くことができるようになる慰めということです。このジーガ・ケーダの絵はそのことを非常にうまく表現しています。神の慰めをこの世のものと比べることはそもそもできません。けれども、このみ言葉は、私たちの向くべき方向を教えてくれているのです。「母がその子を慰めるように、わたしはあなたたちを慰める」。子どもが母親を見上げるように、私たちも神を見上げることができる。自分の置かれている状況にいつまでも目を留め続けるのではなく、主の御顔を仰ぐことができる。そこに、私たちの慰めはあるのです。それは、わたしのいのちそのものが支えられる慰めなのです。この本当の慰めを与えることがおできになるのは神以外にはありません。この神は、私たちを新しい存在として、そのいのちのもとから私たちをささえ、私たちがいつも立っていられるように支えてくださるのです。
お祈りをいたします。