・説教 マルコの福音書12章28-34節「次世代のために献身する」-同盟福音キリスト教会五か年計画の聖句より
2016.1.10
鴨下 直樹
昨年の11月に教団総会が行われました。そこで、2016年から2020年までの教団五か年計画について決議されました。そこで、私たち同盟福音キリスト教会は、「次世代のために献身する」をテーマにこれから五年間歩んでいくことを決めました。そして、今日の聖書の箇所はそこで取り上げられた箇所です。
2015年の11月総会にこの「次世代のために献身する」というスローガンが打ち立てられました。そして、総会資料にはこういう説明文がつけられていました。少し読みたいと思います。
マルコの福音書12章28-34節を選びましたのは、私たちのすべての献身の根源が、神様の最も大切な命令にあると思ったからです。「イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。この二つより大事な命令は、ほかにありません。」愛の神様でなければ、愛の命令はできません。愛することは献身することです。神様のご命令に立ち返り、神様ご自身と隣人(次世代)への愛の献身を深め、広げていきましょう。
そのように書かれています。
私たちの教団は今年で宣教60年を迎えます。私たちの同盟福音キリスト教会は、開拓の教会も合わせて27教会、約1000人の教会員がいます。これでもここ十年の間、教会の人数はほとんど増えていません。そして、この間に経済的に維持することが難しい教会の数はどんどん増え続けています。幸いなことに、これまで教会で牧師として働く献身者は多く与えられてきましたので、いま現在牧師が不足しているということにはなっていません。退職を迎えた牧師たちの協力もあって教会の働きはつづけられています。
私たちは普段、この芥見教会に集っていますし、他の教会のことをさほど気にとめることもないと思いますが、実は私たちの教団はすこし変わっているのです。私たちはこの27の教会すべて合わせて一つの教会というように考えています。ですから、昨年三月、芥見教会の駐車場のための土地を購入することを決めましたが、それは、教団全体の総会で決議されています。普段、あまり周りの教会のことを考えていないのですが、本当はとても大切なことなのです。芥見教会のことだけを考えてみるだけも大変なことなのですが、この教会は経済的に、駐車場の土地を購入できても、整備するお金がいまのところ足りないという問題はありますが、全体的にはとてもバランスのとれた状態です。けれども、教団全体のことを考えると、5年後、10年後、大丈夫とは言えません。というのは、子供や若い人たちが教会の中からどんどん減ってしまっているからです。
それで、私たち同盟福音キリスト教会は今年から「次世代のために献身する」というテーマを掲げて、これからどのような教会であろうとしているのか、一緒に考え、祈り、そして、献身していきましょうとお勧めしていくことにしたのです。
「献身する」というのは、よく、牧師になる、宣教師になるというような決断をした時に、「献身する」という言葉を使う場合が多いのですが、ざっくばらんに言うと「一肌脱ぐ」ということです。
教団の総会資料の説明の二番目にこういう言葉があります。それは、「次世代」とは何をさしているのかということについて書かれています。
次世代とはなんでしょうか。いろいろなことが考えられますが、ここでは特に、次の三つのことを心に留めています、第一に、子どもから青年までの世代のこと、第二に、自分の世代よりも少し若い世代のこと(たとえばあなたが50代なら30代か40代のこと、大学生なら、中高生のこと)、第三に、新しい時代、世界のことです。
ここにも書かれていますけれども、私たちはこれからの教会のことを考えながら一肌脱いでいく、献身していく、その具体的な姿は、この聖書の言葉で言えば、神を愛し、隣人を愛していくということですけれども、ここでは、教会のこれからの歩みのために自分のできることをしていってほしいということを考えているのです。若い世代のために、自分よりも少し若い人のために、それが、教会の将来のためになっていくのです。
以前も話しましたが、教会はいつの時代も伝道をし続けてきました。長い教会の歴史を見ると、教会の伝道が停滞したことはありません。こうして聖書に書かれていたころから今日に至るまで教会はこの世界で主イエスの素晴らしさを伝え続けてきました。長い目でみれば、教会は常に拡大し続けてきましたし、いつも次の世代のために伝道を続けてきたのです。
けれども、そのために教会はいつも新しいことにチャレンジし続けてきました。それは、神の御業です。ですから、もし教会が停滞してきているのだとしたら、それは、何も変わろうとしないで、神様のことを人に伝えようとしないで、自分が救われているのでもう大丈夫という、油断が生じてきてしまったからに他なりません。
今日の聖書には一人の律法学者が登場します。この人は、主イエスが他の人と議論をしているのを聞いて、主イエスに問いかけます。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」
すると主イエスはユダヤ人、特に律法学者ならば毎日口にしていた言葉をもって答えます。
「イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」
28節と29節です。これは「シェマー」と言って、申命記6章4節の言葉ですが、イスラエル人が毎日唱和して忘れないように心がけていた言葉です。そして、更にレビ記19章18節の言葉、
「次はこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令はほかにありません。」
愛に生きること、それこそがもっとも大切なことと主イエスは教えられました。神を愛することと、隣人を愛することです。
私たちにとって問題なのは、この主イエスの言葉をなかなか素直にうけとることができないということです。というのは、私たちが毎日の生活でついつい大事なことと考えてしまうのは、人にしてあげることではなくて、自分が受けること、貰うこと、人からしてもらうこと、自分の願いが叶うことを大事なこととしてしまうのです。たしかに、それも愛ですが、それは自己愛です。
わたしたちの生活がそうであるとすれば、教会も自己の愛になってしまうことが起こってしまいます。教会に人が増えること、教会の財政が満たされること、教会の働きを手伝ってくれる人が与えられること。そうやって、次第に受け身になっていってしまうときに、私たちが気付いていなければならないのは、神の愛に、そして人への愛に生きることを忘れてしまっているということです。
主イエスがここでもっとも大切なことと話されたのは、受け身になることではありません。能動的になること。自分から行動する人になることです。神を愛すること、隣人を愛することです。そのために自分を犠牲にしていくことです。
たとえば、礼拝をとってもそうですが、礼拝で自分が神様から祝福を頂くこと、自分の心の平安が与えられることを目的としてしまうと、そこでは、一番大切な神様を愛するという意識がなくなってしまいます。
ここで、主イエスに問いかけた律法学者は33節でこう言いました。
「『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する。』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」
神様の前に全焼のいけにえを捧げるというのは礼拝のことです。神を礼拝することよりも、神を愛し、隣人を愛することの方がずっとすぐれていると、この律法学者は言うことが出来ました。これは、今、この聖書を知っている私たちでもこう答えることが出来る人はそれほどいないと思います。それほど、事の真理をわきまえた言葉です。
もちろん、この「全焼のいけにえ」というのはこの時代の礼拝事情が大きく影響を与えています。いけにえを捧げていればそれでもう礼拝を捧げたことになると考えて、形だけとらえていた時代です。ですから、そういう形式だけの礼拝という非難がここにはありますが、それにしても、私たちのこの礼拝が形だけの礼拝になっていないと言えるのか、という問いが、私たちにはあると思うのです。
礼拝で問われているのは、日曜に教会に来ることではなくて、神を愛すること、そして、隣人を愛することを思い起こすことです。もちろん、そのまえに当然のことですが、神が私たちを愛してくださるという神の行為があります。今年の年間聖句からすでに先週説教をしましたが、「母がその子を慰めるように、私はあなたがたを慰める」と主は言われます。主の慰め、神のものとされているということが、すべての土台です。礼拝で、私たちはこの慰めを与えてくださる神と出会い、その神に応える、応答する、この神を愛し、隣人を愛することに自分を捧げていくのが、私たちの礼拝です。
そこで、礼拝を捧げた私たちはどう生きるのかというと、神を愛して、隣人を愛するために、神の愛を私たちの周りの人に届ける、神の愛に私たちが実際に生きることが求められるのです。それは、難しいことではなくて、自然にそうなる。そうしていただくことが出来る。けれども、私たちはすぐに、自分は慰めをもらうことが出来れば満足という考え方にすぐにもどってしまいますから、このことはいつも心にとめておく必要があります。それこそ、ユダヤ人たちが、この言葉を毎日唱和して自分の心に刻んだようにです。
「神を愛し、隣人を愛するために私は生きる」と、それこそ毎朝、この箇所を唱えたらいいと思うのです。そうすると、きっと私たちは私たちの周りの人に愛をもって接することを意識するようになるでしょう。自分の妻を、自分の夫を、子どもを、舅、姑を、同僚を、親戚、近所の人たちを愛するようになる。そのために少し骨折ることをするようになる。
それこそが次世代のための献身です。私たちが私たちの周り、自分と関わりのある人たちに少し配慮をする、気遣いをする、一肌脱いでやる。そのような愛の業が、教会から始められて行くときに、キリストの愛はこの世界に届けられて行くことになるのです。
お祈りをいたします。