・説教 エペソ人への手紙3章1-13節「福音の奥義を知る者として」
2016.06.05
鴨下 直樹
みなさんは、自分が何者なのかということについてお考えになったことがあるでしょうか。不思議なことに、この問いは、私たち自身を問う問いですから、日ごとに自分に問いかけるべきものなのだと思うのですが、年を経るごとに問わなくなってしまう傾向があるように思います。自分が確立していない、そのために、何者かになろうとしている時期というのは、自分自身に問いかけるものです。けれども、次第に、諦めとともに、自分のことが分かったつもりになる。あるいはそれは、自分で、自分に期待できなくなるということと同じかもしれないのですが、何かになろうとすることを止めてしまうことによって、自分に対して期待心もなくなってしまうことが多いのです。
私が言うのも変なことかもしれないのですが、若い、青年を見ていると、そのことを顕著に感じます。私からすれば、まだその人には無限の可能性があるように思えるのですが、中学、高校、大学を卒業し社会に出ると、なんとなく、自分はこのくらいの人間だということを周りを見ながら、納得してしまって、それ以上の自分になることを諦めてしまっている気がするのです。それは、ひょっとすると、私よりも年上の方々は、私くらいの年齢の者についても同様に感じているのかもしれません。私自身、最近、自分の口から、自分についてよく否定的な言葉を使っていることに気が付きます。これまでの牧師としての経験や、通って来た道のりを振り返りながら、まぁ自分はこんな程度だろうと、自分に見切りをつけてしまっているのです。
今日、私たちに与えられている聖書の言葉は、エペソ人への手紙の第三章です。今日はその1節から13節までのところですが、ここでパウロは少し唐突に、自分のことを語り始めます。自分が何者なのかといことを書いているのです。実は、この箇所はこのエペソ人への手紙の中でも、特に重要な位置を占める箇所です。というのは、ここに書かれている内容で、ある人は、これはパウロの言葉ではないのだといい、ある人は、ここにこそパウロらしさが記されているのだという人もあります。あるいは、パウロと、パウロと一緒にいた仲間たちのことがここから読み取れると考える人もおります。私は、このエペソ人への手紙の説教を始めました時に、この手紙がそういう議論があるけれども、伝統的にパウロが書いたものとして受け止められて来たことを重んじて、パウロが記したものとして語りたいと言いました。このことは、このエペソ人への手紙を理解するうえでとても重要なことです。
パウロはここで、「奥義は御霊によって私に啓示された」と言っています。5節です。奥義とは、隠されていたこと、秘密にされていたことという意味です。まだ、みな知らなかったこと、その秘密を私は知ってしまったのだ。知らされてしまったというのです。みなさんがもし、何か重大な秘密を知ることになったら、どうでしょうか。しかも、その秘密は、自分だけが得をするというような秘密ではなくて、それを知った人は誰もが幸せになれるような秘密だとしたら。それを話さないでおくことができるでしょうか。
パウロが知った秘密、奥義が何かというと、続く6節で
その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。
と言っています。パウロが知った秘密、神の奥義というのは、ユダヤ人たちだけではない、異邦人であっても、神の祝福の共同相続人になり得るという秘密だったというのです。パウロは、自分に、神がこの奥義を知らされたのだと言っているのです。神は自分にそのことを知らせることが最善の道だとお考えになられたから、私を選んだのだろうと考えます。それが、続く7節にあらわれています。
私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。
これは、思いもよらない突然の神からの贈り物、賜物で、この賜物をいただいてしまったので、この福音を伝える者となったのだと言っています。これが、パウロの自己理解です。私は、神に、福音の奥義を知らされてしまった。だから、この奥義を伝えることが、私の生きる意味になったのだと、言っているのです。
金曜日の早朝、I家に赤ちゃんが生まれました。予定日よりも二週間早く生まれたのですが、大きな元気な赤ちゃんが無事に生まれて来ました。赤ちゃんの産声を、感動をもって私たちは聞きます。何をするのも、まだすべてはじめての経験です。母親に抱かれるのも、頭をなでられるのも、おくるみに身を包まれることも、すべてが初めてです。私は、生まれてまだ一時間もたっていない赤ちゃんの頭の上に手を置いて祈りました。この子が、家族の愛と、神様の御手に守られて祝福された者となるようにと。
私たちが、意識していようと、意識していなかろうと、すべてのいのちは神の御手にあります。神の力の働きによって私たちは生きる者となったのです。そして、この神は、私たちに神の恵みの賜物を、贈り物を贈ってくださる。それは、イエス・キリストと言ってもいいし、信仰と言ってもいいでしょう。8節で、パウロはこの賜物のことを、「キリストの測りがたい富」と言っています。神は、私たちにいのちを与えてくださるだけではない、キリストの持っておられるすべてのもの、「キリストの測りがたい富」を私たちにくださると言っています。
確かに、生まれたばかりのあかちゃんには、まだ無限の可能性があるような気がします。そして、仕事を辞めて、定年退職すると、もうそこにはあとわずかな可能性しかのこっていないかのように、思い込んでしまっています。年を追うごとに、できなくなることが増えて行くことに寂しさを感じながら、このまま一つずつ奪い去られてしまうかのように、私たちはつい考えてしまいます。けれども、私たちが目を向けなければならないのは、自分自身ではないはずです。私に与えられている「キリストの測り知れない富」、いや、「イエス・キリスト」そのものに目を向けるべきなのです。
戦時中に、ナチスとの戦いに生きた神学者ディートリッヒ・ボンヘッファーの詩にこういう詩があります。
私は何者なのか。
この孤独な問いが私をあざ笑う。
私が何者であるにせよ、
ああ神よ、あなたは私を知り給う。
私はあなたのものである。
ボンヘッファーはとても大きな敵と戦っていました。自分一人で、あのヨーロッパにあって絶大な力をもったナチスの軍事力に立ち向かっていました。そして、力による支配に対して、神の思いはNOであるということをはっきりと言い続けた人です。その中でいつも、自分自身を問う思いが自分のうちに湧き起って来たのでしょう。この世界に破滅をもたらそうとする力に、自分自身に何ができるというのか。私は何者なのか。それほど大きなことを成し得る力を自分は持っているとでもいうのか。そういう自問自答をいつも繰り返したのだと思います。きっと、そう問いながら、いつもこの答えを自分に言い聞かせたのだろうと思うのです。「私が何者であるにせよ、ああ、神よ、あなたは私を知りたもう。私はあなたのものである」
自分自身が何ができるとか、何ができないとか、そういう自分自身を問うことから目を背け、神が見ていてくださる自分、それこそが、本当の自分なのだ、私はここに立つ。このことさえ、間違いなければ、それでいいのだと、自分で自分に語り聞かせたのだと思うのです。
パウロは言います。「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私」、そう8節にあります。パウロがここで言いたいのは、自分に何ができるとか、できないとか、そういうことではない。それが、この言葉に込められている意味でしょう。「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私」というのは、パウロがここで謙遜してみせているわけではないのだと思います。そうではなくて、まさに、自分自身は何もない、自分自身で何かができるとか、できないとか、そういうものに関係なしに、神はこのわたしに私には分不相応ともいえる「キリストの測りがたい富」を与えてくださったからなので、私はこの事を語る。これが、私のすべき分なのだということをここで言っているのです。
どうか、みなさん。このことを知ってください。神は私たちに、とてつもなく大きな富、それこそ、前の1章で書かれている言葉で言えば「神の全能の力」、あるいは2章の言葉でいえば「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天のところに座らせてくださる」という神の御業の事実に目を向けていただきたいのです。私たちの神、主は、わたしたちの能力によらず、ただ恵みのゆえに、かけがえのない豊かなものを与えてくださるのです。これこそが、神の真実、私たちに与えられている約束です。それは、自分自身に絶望することとは全く異なって、高いところへと私たちを引き上げてくださるのです。
この手紙をパウロが書いたとき、パウロは事実、牢につながれていました。人から見れば、それは絶望的なことでした。もはや、希望を持つことなどできないという状況にいたのです。しかし、パウロはこのことで、落胆することのないようにと書きました。神の前にある現実は、牢につながれたことで、すべてが終わったわけではないことをパウロ自身がよく知っているからです。目の前にあることだけが、神の現実ではないのです。
たとえそれが牢であろうと、ナチスの軍事力であろうと、あるいは、私たちの日常の現実であろうと、それは、神の前に絶望のしるしとはなっていないのです。神の奥義。神の秘密。それは、私たちが、目にみえる思わしくないと思える事実に支配されないで、神の御手の中に生きることができるということです。
パウロはそのことを知ったので、どうしても、目の前の現実に押しつぶされそうになっている教会の人々に対して、たとえ、異邦人であったとしても、神の祝福をいただくことができる。神の栄光の富をいただくことができる。キリストの復活の力に預かることができるということを伝えたいのです。それが、そのために自分が生かされているのだということをパウロは知ったのです。このパウロに与えられた福音は、今、私たちにも与えられているのです。パウロが得たものを、今、私たちもまったく同じものを与えられています。ですから、私たちもこの福音を、素晴らしい知らせを、私たちの周りにいる人に伝える役割を担っています。もちろん、パウロにようにやる必要はありません。私たちは私たちなりのやり方で、生き方で、歩んでいくことができるように主に招かれているのです。
お祈りをいたします。