・説教 エペソ人への手紙 3章14-21節「パウロの祈り」
2016.06.12
鴨下 直樹
今日のところは、パウロの祈りが記されているところです。昨日の家庭集会でも、祈りについてお話したのですが、この夏のキャンプのテーマでも祈りをテーマにしています。祈りは、私が牧師になったときからわたし自身のひとつの大きなテーマでもあります。神学生の時から、しばらく祈れなくなるという時期を経験しました。きっかけはたいしたことではないのです。仲間の神学生たちの祈りを聞いて、それを心の中で非難していたのです。けれども、人の祈りに耳を傾けて、文句ばかり言っているうちに、自分はどうだということになりまして、自分の祈りの生活を振り返って考えてみるようになりました。それで、自分も人のことを言えるほど豊かな祈りの生活ではないことに気づかされて、すっかり自信をなくしてしまったのです。
その時から、多くの祈りについての本を読みましたし、色々な信仰者の祈りの本を読みました。もう何冊読んだか分からないくらい読みました。そして、聖書の中に記されている祈りについても注意深く見るようになりました。特に、聖書の中に記された祈りを読んでいますと実に、色々なことに気づかされます。その一つに、聖書に記されている祈りは、いわゆる個人の願い事というのはあまりないということに気づかされます。このことは、祈りを学ぶ意味でも、とても大きいのではないかと思います。
今日の箇所もパウロの祈りです。ここでパウロは何を祈っているのかというと、とてつもなく壮大な祈りをしています。「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように」と祈っているのです。みなさんの中に、こういうことをこれまでに祈ったことがある方がおられるでしょうか。ひょっとすると、私たちでは思いつきもしないようなことを、ここでパウロは祈っているのです。確かに、この祈りもパウロの個人的な願いごとであるかもしれませんけれども、むしろ、このいのりは、神が願っておられることを、パウロが祈っているようなものとも言えます。
私たちは、祈りにおいて、自分の常識や限界を超えて、神に近づくことができます。それが、いのりです。祈りにおいて、パウロの祈りがそうであるように、神の思いと一つになると言ってもいいかもしれません。そういう祈りを祈ることができるときに、私たちは深い喜びに包まれます。
もう、それこそ20年も前のことですけれども、教団の学生会のキャンプで学生たちを連れて北海道に行ったことがあります。船にのって2週間の旅です。その時、この芥見教会の前任の浅野先生と、マレーネ先生と一緒でした。キャンプのテーマは祈りでした。その時、私は、何とも言えない経験をしたのですが、その時私は生まれて初めて船に乗りました。途中、どこにも陸地の見えない、360度の水平線を初めて見たのです。自分の上に見えるのは空しかない、その時に、私は「天の父よ!」と祈りました。いつも、小さな部屋で祈っているのとはまるで違う、無限の広がりをその時感じました。私よりも上にあるものはただ、この世界をお造りになられた神しかいないのだという思いと共に、このお方に向かって「父よ!」と呼びかけることがゆるされていることは何と素晴らしいことなんだろうと思いました。
ここで、パウロも主イエスにならって「父よ」と祈っています。しかも、15節では面白いことを言っています。「天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります」と言っているのです。分かったような、よく分からないような、少し不思議なことが書かれています。
先日、あるところで、やはりお祈りの話をしておりました時に、どうして神様のことを「天の父よ」と呼ぶのですかという質問を受けました。「神様」というのは分かる。けれども、「お父さん」というのは、人によって、実に色々なイメージがあります。みなが、サザエさんにでてくる波平さんのようなイメージでもないわけです。まして、連日のニュースを見ていますと、お父さんと呼ぶには悲しくなるような父親もいるというのが現実です。それならばなぜ「お母さん」ではいけないのかということも言えるわけです。
パウロはそこで、私たちは主イエスを通して神の家族と呼ばれる。私たちを一つにされたその元のお方、そのお方をここで「父」と呼んでいるのだと、ここで断っているわけです。一つの家族であるとすれば、お父さんがいるわけです。そのすべての元となっておられるお方を私たちは父と呼ぶのだというのです。
少し、飛ばしてしまいましたけれども、その前にパウロは祈りの姿勢のことを言っています。「私はひざをかがめて・・・・祈ります」とあります。当時の祈りの習慣というのは立って行われたようです。まだ、教会が生まれたばかりのころ、テルトゥリアヌスという教父、教えの父と呼ばれた人が、祈りについて書いているものがあります。それによると、喜びの日である主の日と、イースターからペンテコステまでの期間は、ひざまずいて祈ることを禁止していたと書かれています。特に、主の前に祈るのは、喜びの表現なのでひざまずいて祈るという姿勢は相応しくないと考えられていたのです。けれども、聖書にはもちろん、ひざまずいて祈る姿がいくつも出て来ます。主イエスのゲツセマネの祈りもマルコの福音書14章35節では「地面にひれふし」と書かれていますから、神の前に身を低くして祈るという姿を通して、神に対する尊敬や崇拝の思いを表したのでしょう。パウロは膝をかがめ、まさに、土下座か平伏するような姿で祈りだします。
16節
「どうか、父がその栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くして下さいますように。」
父なる神の豊かさと、聖霊の助けによって、あなたがたの内なる人を強くして下さいますように。これが、パウロの願いでした。うちなる人が強くなるように。私たちの「内なる人」というのは、何を指すのでしょうか。普通に読むと、私たちの内面が強められるように、心が強くなるようにというふうに読んでしまいがちです。けれども、パウロはその前の2章の15節で、「新しいひとりの人に造り上げて」と言っています。古い自分、肉と言われている私たちが、神に逆らおうとする性質から、2章の13節の言葉では「今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです」とあります。キリストの中に入れられることによって、私たちは、肉の自分、罪の性質から解き放たれて、新しい存在になるということを言っています。これが、ここでパウロが祈っている「内なる人」です。わたしの中で新しく造り上げられている新しい存在。その新しい自分、それは、主イエス・キリストのことなのですが、わたしの中に住んでおられる主イエスが、父なる神と、聖霊の支えによって強められますようにと祈っているのです。
教会のほとんどの方が、教育部で毎日配信している「聖書のまばたき」を通して送られてくる聖句や色々な言葉を、本当にみなさんが心にとめて、それによって支えられているのだということを感じております。先週も何人かの方から、何曜日の聖句が良かったとか、あのみ言葉によって慰められたとかと話しておられるのを聞いてとても嬉しく思いました。
私たちは、自分自身で、自分を支えることも、励ますこともできません。いつも、それは、私たちの外からもたらされます。神のことばは、いつも私たちの外にあって、私たちを慰め、励まし、また、私たちを整え、立ち上がらせてくださいます。そして、わたしたちのうちには、新しい人、内なる人として主イエス・キリストが私たちを内側から造り変えてくださいます。
特に、18節と19節の言葉がこの祈りの中心の言葉ですけれども、この部分は来週もう一度改めて語りたいと思っているのですが、20節でパウロはこう言っています。
「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン」
パウロの祈りは、ここで私たちの内なる人を、私たちのうちに働く力と言い換えていますけれども、神の力がわたしたちの内側から働いて、私たちの思いを越えて豊かに働くのだということを、ただ、ひたすら祈り求めています。私たちが考えていることは、私たちの損得や、勝ち負けや、私たちの描くことのできる幸いというような自分本位なものでしかありません。しかし、私たちが願っているものがすべて手に入れることができたとしても、それが、私たちにとって本当に良いことなのかどうかは、なかなか見えてはこないのです。神である主は、私たちに最善のことを、私たちが考えもしなかったことを、私たちが思いつきもしなかった方法で、私たちにもたらしてくださいます。パウロは、その事実をここで神をほめたたえるという仕方で宣言しています。
私たちは祈りというのは、自分の願いごとを神にかなえてもらうことだと考えてしまっています。それは、長い間のこの世界の生活習慣によってもたらされたのかもしれません。私たちは、自分が願っていることよりも素晴らしいことが、自分の身にふりかかるなどということを、それまでの生活、キリスト者になるという新しい生き方をするようになるまで、知らなかったのです。ですから、それはやむを得ないことなのかもしれません。
だからこそ、パウロは祈るのです。神の願っておられることが、分かりますようにと。神の願いは、私たちが祈り求めているようなことよりも、はるかに勝っている。私たちの思いをはるかに超えて素晴らしいことなのだと。この神に栄光があるように。このようなお方こそが、神なのだということを、この世界の人々が知ることができたらよいのにと、祈っているのです。
それこそが、まさに、このいのりの中心的なテーマでもあります、19節の「人知をはるかに越えた愛」という言葉で言い表されているものです。
先週の木曜日、泉会が行われました。泉会といいますのは、もともとは、教会の高齢者の人たちのための交わりの場所として毎年一度、集会が企画されていました。ところが、今からもう何年も前からですが、だんだん、若い方々が大勢集まるようになりまして、今ではこの泉会が高齢者の方のための交わりの場所であるということを知っている人の方が少ないのではないかと思えるほどです。先日も130名を越える方が集まりまして、東海教会の小林先生が説教をしてくださいました。テーマは「こんなはずじゃなかった」というものです。今年、新会堂が与えられたのですけれども、その会堂が与えられるまでのエピソードをユーモアも込めながらお話しくださいました。その中で、語られたのは、会堂建設の計画がなかなか自分たちの思い描くように話が進まなかった。色々な困難があった。まさに「こんはなずじゃなかった」ということの連続だったようですけれども、そのことによって、どうにもならなくなったのかというと、そうではなくて、まさに、自分たちの思いをはるかに越えた神の素晴らしい配慮を知ることになったということをお話しくださいました。まさに、そのことも「こんなはずじゃなかった」と言えるようなことばかりだったのだそうです。
神は、「私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方」です。この神は、私たちの外から、言葉を持って私たちを励まし、導いてくださいます。そして、私たちの内側から、私たちを新しくしてくださいます。そうして、私たちは、新しい神の視点で、すべてのことを新しく見ることができるようになるのです。
お祈りをいたします。