2009 年 8 月 30 日

・奨励 「信仰とくらし」 マタイ6章33節

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舛田忠興

私は今日、証しと聖書の学びについてお話したいと思います。 

証し

 私は昨年3月、定年1年前に小学校教諭を退職したが、9月にまた現場に復帰した。ある学年の学級担任が重い病となり即入院したからである。

とりあえず10月まで1ヶ月間副担任として勤めた。朝9時から午後3時半までの勤務だったので、責任も軽く気が楽だった。しかし、前担任がその後も回復できず、10月からは補助教諭という身分で学級担任として働くことになってしまい、気が重かった。

そのわけは集団生活が苦手なA君の存在と、A君とトラブルを起こす男の子の存在である。

A君は、学習面や情緒面で障碍がある。コミュニケーションがうまくできない、ルールが守れない、整理がうまくできない、授業中座っておれないなどの面があり、他の児童とのトラブルが絶えない。男子21人中8名前後は、A君のまねをしてルールを守らない、言い争いから殴り合う、自分勝手な言動で周りの子に迷惑をかけても平気で毎日のようにトラブルを起こす。

 

10月からA君が起こすトラブル、A君との関わりで起こるけんか、男同士のけんかに適切に対応しようと努力するが、なかなかうまくいかず、学級担任の仕事をやめようと思うことがあったが、3月まで勤めることができたのは主に支えていただいたおかげである。

 

 私は毎日、朝・夜主に祈りをささげた。

朝の祈りは「どの子に対しても愛をもって接することができるように助けてください。問題が起きたとき、正しく対応できますよう力を与えてください。」

夜は、「今日も主が助けてくださってありがとうございます。主の支えによって何とか一日を終えることができましたことを心から感謝します。」と。

 

前担任がうつ病になる程のクラスを担任として引きつぐことは大変な仕事であったが、毎日主に励まされ、助けられてきました。

再就職した7ヶ月間は、気が休まる時がなく苦労も多かったが、主に支えられ助けられた日々の連続で、私たちの主なる神は生ける神であり、力ある神であることを実感できた時でもあった。

 

 

聖書の学び 「信仰とくらし」 マタイ6章33節

「だから、神の国とその義をまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」マタイ6章33節

 

 これは主の約束のことばです。主は、衣食が必要で大事であることは百も承知です。何を食べるか、何を飲むか、何を着るかは異邦人が求めていることであり、クリスチャンはそんなことは心配しなくていい、主がすべて保障してあげる。

私たちが求めるものは神の国であり、神の義であり、生涯求め続けていくことが大切である。

 

 御国のたとえとして聖書の中にいくつか書かれている。マタイの22章2節「王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえられる」、マタイの25章1節「ともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようである」など。パウロは、ピリピ人への手紙の中で「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」と述べている。

 

 私たちも暮らし方についてはパウロのような考えができると幸いだと思う。

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