2016 年 10 月 2 日

・説教 詩篇16篇「あなたこそ私の幸い」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 17:46

 

2016.10.02

鴨下 直樹

  
 先週の火曜日から金曜日まで神戸のコンベンションセンターで第六回日本伝道会議が開かれました。会場には2000人近い牧師、宣教師たちが出席して、日本のこれからの伝道についての講演を聞き、また実に様々なテーマの分科会が開かれました。朝の9時から夜まで4日間の会議に、これほど多くの方々が出席するのかと驚きましたし、とても刺激的な講演をいくつも聞いて来ました。

 私が特に心惹かれたのはアメリカの学生伝道のリーダーをしているジェームス・チョングという方の講演です。この方は韓国の方のようですけれども、アメリカのインターバーシティーという大学生の伝道団体の指導者の方です。この講演はこんなふうに始まりました。
「もし、みなさんの教会の牧師が、『私は今日からは聖書から話をするのをやめて、私の人生経験から得たことに伝えることにします』と、宣言したら、何週間もしないうちに誰かがその牧師に何かを言うでしょう。あるいは、もし、『今週からは礼拝で賛美を完全にやめにして一時間説教に集中することにします』と言ったら、何週間もしないうちに誰かが何かを言うと思います。ところが、もし、あなたの教会の牧師が、『私たちの教会ではしばらくの間伝道しないことにします』と言ったどうなるでしょうか。ひょっとすると何年間も誰も何も言わないというようなことが起こるのではないでしょうか。そうです。私たちは伝道が嫌いなのです。」

 そんな言葉からこの講演は始まりました。そして、今度は前日この先生の行った分科会で参加者にとったアンケートを発表してくれました。アンケートに答えた人の80パーセントは牧師、宣教師たちでした。そして、90パーセントの人たちは定期的に個人に伝道をする機会があるとアンケートに答えたのだそうです。ところが、あなたは伝道が上手だと感じていますかとの質問には24パーセントの人しか自信があると答えなかったというのです。回答者の80パーセントは牧師や宣教師たちなのにです。チョング先生は、ひょっとすると日本特有の謙遜というのがここに現れているかもしれないけれど、これは驚くべき数字だと言われました。そして、伝道に必要なことはなんだと思いますかという質問には、スキルが足りないとか、自信がないとか、その他いろんな答えが返って来たというんですが、「相手のことを知らないから」という答えはそのうちの2パーセントしかなかったというデータだったのだそうです。このチョング先生は、ひょっとすると、私たちは伝道をするときに、相手のことを全く考えずに、自分のことばかり考えているのではないか。相手のことを知ろうとしていないのではないか。実はこのことが、教会の中に伝道の苦手意識を生みつけている最も大きな要因ではないか。そう言われました。私はこの講演を聞きながら、あらためて私たちの教会の伝道はどうあるべきなのかということについて考えさせられました。

 今日の詩篇は一見すると、あまり特徴のない詩篇のように見えます。私自身、ここを選んでしばらく、しまった、もっと特徴的な詩篇を選べばよかったと考えました。けれども、学んでいくうちに、この詩篇は実に興味深い詩篇だということが分かって来ました。というのは、この詩篇は、異邦人が神の民に改宗したという経緯が、その前提となっているのです。

 私たちは、旧約聖書は神の民だけが選民で、神は他の異邦人たちを排除しておられたかのように思い込んでしまっているところがあります。けれども、この詩篇を読みますと、どうもそうではなくて、神の民たちは伝道をしたようです。というのは、この時代の異教の神々の信者というのは、自分の赤ちゃんのひとりを犠牲としてその神にささげるというようなことをしていたようです。4節。

ほかの神へ走った者の痛みは、増し加わりましょう。私は、彼らの注ぐ血の酒を注がず、その名を唱えません。

 この詩篇の作者は、異邦人であったのに、イスラエルの神、ヤハウェと言われる主なる神と出会いました。それは、人に痛みを与えることによって成立していた自らの民族の神とはまったく異なっておられるお方であることを発見します。神のいう事をきかないと罰を与えるような、それまでの自分たちの神から決別して、自分を幸いにしてくれるという神を知ったのです。それが、この詩篇の冒頭の1節と2節に現れています。

神よ。私をお守りください。私はあなたに身を避けます。私は、主に申し上げました。「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」

 それまで、自分の信じて来た神々と、この主といわれるお方とがまったく異なっておられることを知ったのです。旧約聖書の時代から、今日に至るまで神は人に関心を持ち続けておられます。なぜなから、神はご自分が創造された人を愛しておられ、人が喜んで生きることを願っておられるからです。

 ところが、教会ではどうもこの神の心とは少しかけ離れたところにいて、あまり、人には関心がなくて、自分のことに関心がある。自分が幸せに生きられるかどうか。自分が神に愛されているかどうか。おそらく、こうなってしまっているのには、大きな理由があるようです。それは、自分が神に愛されているという確信がどうも少ない。そうだとすると本当に残念なことです。この詩篇の作者はこう告白することができました。
5節、6節。  

主は、わたしへのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます。測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。

 「ゆずりの地所」「私への杯」「私の受ける分」と似たような言葉が三回繰り返されています。これは、神ご自身がわたしの頂いたものだという信仰の告白です。聖書学者たちはこれをいう事ができたのは、神殿や幕屋で神の礼拝の仕事をしていたレビ族のことをさしているかもしれないと口をそろえて言っています。レビ族というのは、幕屋や神殿で働いているために、狩りをしたり、農作をしたりすることができません。そうすると、生活の糧を得ることができませんでしたので、イスラエルの民は、礼拝をするときにささげ物を携えて来たのですが、その捧げ物によって生計を立てていました。そういう実際的なことがこの歌の背景にあったのではないかと考えられています。もちろん、そうではなくて、素直に読むと、この言葉は、神ご自身を信じたことによって、自分の生活が神によって支えられていることを確信できるようになったということが、もともとの意味です。

 この神を信じたことによって、自分の生活はどうなったのか。これまでの宗教生活とどう変わったのか。この詩篇の作者はこう言っています。7節から9節。

私は助言をくださる主をほめたたえる。まことに、夜になると、私の心が私に教える。私はいつも私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。

 主は、自分にいつもアドバイスをくださる。夜になると、それまで眠れない夜を過ごしたことがあったのでしょう。しかし、今は、主が私の右にいてくださるので大丈夫だと、自分に言い聞かせることができるようになった。それだけではない、私の心は喜びで支配され、楽しんでいられるようになったのだ。そうここで自分の今の姿を宣言しているのです。

 クリスチャンにとって伝道するというのは、人にキリスト教なんて勧めたら煙たがられるかもしれないとか、家族から良く思われなくなるとか。そういうイメージを持っておられるかもしれません。それは、統計的にもよく表れていて、あのオウムの出来事以来、人々は宗教という言葉に過剰に反応するようになっています。宗教は怖いというイメージが定着してしまったのです。

 けれども、同時に、今の世界の多くの人は、夜も眠れないような不安を抱えていたり、いつも心細さを感じたり、人の距離がどんどん広がっていく中で、孤独な人は増えるばかりです。私たちの周りには本当に多くの悲しんでいる人たちでいっぱいです。私は思うのです。キリスト教を一生懸命伝える必要などないのです。ただ、今、自分がどれほど、神に大切にされていて、どれほど大きな平安の中に生きていられるようになったのかを証しすればいい。ひょっとすると、私も、そんな平安が欲しい、幸いを味わいたいと思う方があらわれるかもしれないのです。なぜなら、私たちの神は、人に関心をもっておられるお方で、すべての人が真理を知って、喜んで生きることを願っておられる方だからです。

 そのためには、まず、自分が私たちを幸せにしてくださる主を知らなければはじまりません。自分が喜んで生きられるようになっていなくては、人に話すことなどできないでしょう。それは当然です。この詩篇の作者のように、私たちもかつては、神とは関係のない民として生きていたのです。けれども、この神を知って、この神と共に生きるようになったのです。だとしたら、自分を活かしてくださっている神を知ってください。まずは、そこから始まるのです。
「それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう」と9節にあるようになりたいものです。
 この詩篇は最後の10節と11節でこのように結ばれています。

まことに、あなたは、私のたましいを、よみに捨て置かず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。

 「墓の穴をお見せになりません」というのは、この時代の独特の表現のようです。これは、自分が滅んでしまうことはない。ほら、あの人はこんなところで息絶えてしまったというようなことは起こらないという意味のことなのです。つまり、その人の一生は守られるというのが、この詩篇の結びの言葉でした。しかし、新約聖書の時代になると、多くの使徒と呼ばれた主イエスの弟子たちは、この詩篇16篇を説教で引用してかたります。実に、ペテロもパウロも引用しているのです。今は開きませんが、使徒の働きの2章25節から28節で引用しているのですが、そこでは、この詩篇に書かれているとおりに、神はキリストを復活させて、その死体をよみに捨ておくことはしないのだと語っているのです。そして、これは、パウロも同様で、使徒の働きの13章35節でやはりパウロもこの詩篇を引用しています。

 つまり、この詩篇はキリストが死なれた時に、その遺体が墓にのこされたままではなく、復活するのだということを意味していた詩篇だったと理解されるようになったのです。このように、聖書はその書かれた当時の意味が後の時代になると意味がさらに進むことを、漸進的啓示と言います。前に進むと書いて、前進という場合もありますし、漸進的な改革というような時に使うさんずい偏に斬るという字を書く、漸進、少しずつ前に進むという意味の言葉を使う場合とがあります。
 昔の人は、神、主と出会って、幸いな人生をおくれるようになったという意味が、さらに進んで、もし私が死んだとしても、私のいのちは神にささえられているので大丈夫だという、まさに、包括的な神の救いの喜びを言い表すようになっていったのです。

 「あなたこそ、私の主。私の幸いはあなたの他にはありません。」そのようにいう事ができるようになるということが、聖書が語る神の約束です。神は、私たちが幸せだと言って安心して死をむかえられるようになることを望んでおられるお方なのです。そして、それは、おそらく、教会の私たちだけでなく、すべての人に伝えられるべき福音なのです。ですから、自分の伝える言葉に自信がなかったとしても、福音の内容そのものは確かなのですから、この良い知らせを私たちは、ぜひ、周りの人に伝えていける者へと変えられるように願っています。

 今日はこのあと、Tさんの転入会式を行います。Tさんはまだ学生の頃に、スウェーデン宣教師であるハンス・マグヌソン宣教師によって導かれて洗礼を受けられました。その時からもう60年以上の時が流れています。十代で福音を聞いて、この神が与えてくださる幸いに、支えられて今日まで歩んで来られました。ここには、神が与えてくださる幸いな歩みが示されています。
 私たちの主は、私たちが幸いに生きることができるように願っておられるお方なのです。ですから、この主をよろこび、この主と共に歩めることを、いつも喜んで歩んでいまいりましょう。

お祈りいたします。

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