2016 年 10 月 9 日

・説教 詩篇6篇「主よ、帰って来てください」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:40

 

2016.10.09

鴨下 直樹

  
 今日の詩篇は病んでいる人の祈りが記されているところです。病気になるときというのは、それは小さな子どものころからそうですけれども、誰かに心配して欲しいと思うものですし、特別に大事にされるということを求めると思います。少し前も娘が高い熱を出しました。忙しい日だったので、幼稚園にも連れて行けませんので、病院のやっている託児施設というのがありまして、そこに熱が出ている娘を預けました。親としてはなんとなく申し訳ないことをしたという思いがあるものですから、何かプレゼントでもして埋め合わせをしないといけないなどと考えてしまいます。

 病の時、特に入院をしなければならないような事態になりますと、不安が一気に広がります。救急車を呼び、病院に駆けつけ、同時に、教会の人たちに連絡をして、できるかぎり多くの人に祈って欲しいと願うものです。私たちの教会でも私が来てからの間に何人もの方々が入院をされました。先週もGさんのお母さんが手術をされたということでしたが、無事に終わり、回復に向かっているとのことでした。

 ところが、もし病気になった時に、だれからも相手にされず、まるで自分は孤独だと感じたとしたらそれはどれほど苦しいことでしょう。
この詩篇の冒頭にこう書かれています。

主よ。御怒りで私を責めないでください。激しい憤りで私を懲らしめないでください。主よ。私をあわれんでください。私は衰えております。主よ。私をいやしてください。私の骨は恐れおののいています。私のたましいはただ、恐れおののいています。主よ、いつまでですか。あなたは。

このように1節から3節に書き記されております。

 この詩篇の作者は自分が病になった時に自分の骨はおののき、たましいも恐れおののいていると言っています。体全体が不安で、不安でしかたがなく、しかも、自分は神から見捨てられて、神に責められ、懲らしめられていると考えているのです。

 今年の夏までレビ記の学びをしていました。このレビ記で学んだことですけれども、旧約聖書の時代、人に感染するような病に冒された時は、その病が悪性のものでないかどうかはっきりするまで、その患者を七日間隔離するということが書かれています。特に重い皮膚病などに冒された時は厳密に病の進行を何週間も様子をみるということが書かれています。病を患って、もっとも不安なときに、その人は家族から引き離されて、集落の外に押しやられたのです。その時のショックというのは今の私たちの想像をはるかにしのぐ不安であったに違いありません。と言いますのは、旧約聖書を見ておりますとほとんど医者というのは出て来ません。言葉としては5回程度出て来ますけれども、どこかで医者が治療をしたというような記述は旧約聖書には書かれていないのです。もちろん、熱が出て風邪をひいたというようなことであれば、隔離されるようなことはなかったと思いますけれども、そのことすら聖書には明確に記載されていません。

 私たちは、普段、少し鼻声になったり、咳が出たりすれば、自分で病院に行く必要があるかどうか判断することができます。家にある風邪薬で治るかどうか、素人にも少しは判断できるわけです。けれども、今から3000年以上も前の時代というのは、もちろん、民間療法のようなものはあったと思いますけれども、本当に一大事です。

 この2節に「私は衰えております」という言葉がありますが、この言葉は少し変わった言葉で、どうも「熱に冒される」という翻訳を他の箇所ではしているような言葉なのです。
 病気であるというだけでも大変なことなのに、家族から隔離され、イスラエルの民族からも隔離され、町はずれに一人ぼっちにされるというようなことがあったとしてら、それこそ、この詩篇に記されているように、「神に責められている、神に懲らしめられている」と感じたのは無理もないことだったと思うのです。

 祈り手はさらに言葉を続けます、4節です。「帰って来て下さい、主よ」とここに書かれています。主なる神ご自身が、どこか自分の方ではないどこかに行ってしまったと感じているのです。神が自分とは違うどこか遠い所に去ってしまったと考えているのに、この祈り手はこう祈っています。「あなたの恵みのゆえに、私をお救いください」と。

 神の恵みにより頼んで祈りますというのです。この「恵み」という言葉はヘブル語で「ヘセド」と言う言葉です。旧約聖書の中に何度も出てくる言葉で、新共同訳聖書では「慈しみ」と訳されている言葉です。あるいは「慈愛」と約されることもあります。この「ヘセド」という言葉は、その詩篇で使われている場合はすべて神が人に対して慈しみを示す言葉です。言葉を人間同士で使う場合は、同情とか、共感という意味で使われます。神が、人間に同情する、共感してくださるということは、それは言ってみれば上から、天から注がれる愛のまなざしです。神が私たちを愛してくださるがゆえに、私たちの心を理解してくださる。この詩篇の祈り手はそのように信じて祈っているのです。

 先日、ある本を読んでおりましたらこんなことが書かれていました。ある精神科医の言葉です。「心病む人は自分本位の時間を治療者が共有してくれるという体験によって癒されるのだと考えられる。愛とは、相手のために相手本位に時間を与えることである。」
心病む人と向かい合う精神科医は、その医師が望むようにではなくて、治療者の求めるように時間を与えることによって、まさに医師の愛の行為によって癒されるのだということです。これは、また同時に心病む人の家族にも同じように言う事ができるのだと思います。相手が求めるように時間を与えることを愛と言うのだと。

 人間どうしであっても、相手のために自分の時間を犠牲にして、その人の望むようにするときに、心病む人であっても癒されるということが起こると言っているのです。

 今週の土曜日、教会で結婚式が行われます。昨日、礼拝堂でそのためのリハーサルをしたのですが、新郎と新婦になる方に「健康の時も、病める時も、夫を、妻を愛し、敬い、慰め、変わることなく、この節操を、この信念を貫くと誓いますか」と問いかけます。教会で結婚式をあげられた方はみなこのことを誓ったと思います。夫婦というのは、どんなときにも助け合い、愛し合うということを神と人との前に約束をいたします。それは、愛するということの中心的な性質を表しています。自分の都合ではなくて、どんな状況であっても相手を大事にするということを誓うわけです。

 なぜ、このような人間の愛の業ができるのかというと、それは、神が私たちを愛してくださる、私たちに心を向けてくださるからです。それが、私たちの愛を支えるのです。車が走るためにはガソリンが必要であるように、私たちが人を愛するためには、愛するエネルギーをまず自分の心の中に注いでいなければなりません。ない所から絞り出そうとしても、それは限界があるのです。

 この詩篇で言えば、この祈り手は、自分が病で苦しみ、どうしようもない不安の中にいるときに、神に祈ります。神に癒してください、助けてください、どうか私の近くに来てくださいと祈りながら、大切なことに気づくのです。そうだ、神は慈愛の神、この神は私たちを愛してくださる、慈しんでくださる、恵み深いお方なのだから、と。この神の慈しみの性質により頼んで、それを土台として、自分が癒されるように祈り求めるのです。

 5節では、こういうのです。

死にあっては、あなたを覚えることはありません。よみにあっては、だれが、あなたをほめたたえるでしょう。

死んでしまってからではあなたをほめたたえてももうそれは意味がないでしょうというのです。実は、この詩篇の大切な部分はこの5節に秘められています。生きているということが何よりも大事なのだと、ここで祈っているのです。もっというと、この言葉は生きるということこそが、神を褒めたたえる事なのだからと言っているのです。

 私たちは生きているあいだに、どれほど神に感謝をささげているでしょうか。どれほど、神を褒めたたえているでしょうか。実際には、困ったときに神に祈り求めることは誰でもするのです。けれども、私たちが幸せを感じている時、あるいは、とりあえずうまくいっている時はというと、すぐに、それは自分の力でうまくいっているので、神に感謝するようなことなどないとつい考えてしまいます。人とはとても都合のよい生き物です。

 本来、人は神を褒めたたえるために造られているのです。だから、聖書の言葉で「人間」は、旧約聖書では「アダム」という言葉ですが、これは「土くれ」という意味の言葉です。神なしには何の価値もないという意味です。新約聖書のギリシャ語では「アンスローポス」と言います。「上を向く者」という意味です。神の方に向かっている者のことを人間と言っているのです。生きるということは、神を褒めたたえるということなのです。もし、人の歩みが神に向かう歩みでないのだとすると、その人の一生が神に祝福されることはないのです。

 この詩篇の祈りはとても、興味深いのですが、それほどに、深い信仰の言葉を言い表しながらも、「死んでしまっては意味がないでしょう」と自分が言った言葉の方に引きずられてしまいます。6節。

私は私の嘆きで疲れ果て、私の涙で、夜ごとに私の寝床を漂わせ、私のふしどを押し流します。

 私にとって忘れられない経験があります。まだ私が高校一年生の時のことでした。今日もこの後で教会のキャンプがありますけれども、高校生になって学生会のキャンプに出席しました。当時、このキャンプは非常に大勢の学生たちが集まっておりまして100名を超える参加者がありました。そのキャンプのテーマは「死について」。ところが、高校一年生の私はそれまで死ということについてほとんど考えたことがありませんでした。そのキャンプでも、ちっともこのテーマがピンとこなかったのです。

 ところが家に帰ってから、4歳年上の姉がいたのですが、このキャンプの話をすると、姉はとてもいいメッセージだったと言っていたので、私が「どこが?」と聞くと、姉がこう言ったのです。「みんなこの年齢になると死ぬということが怖いんだよ」と言ったのです。実は、この姉の言葉がショックだったのです。「みんな死ぬことが怖いんだ」ということを知らなかったのです。もちろん、後で考えてみれば、姉だってそんなことは分かるはずもないわけです。高校生の年代の誰もが、死について悩んでいるなんてことは知り得ないはずです。けれども、自分はそれまで、本当に悩んだことがなかったので、そういうものなのかというショックを受けたのです。死というものはそれほど多くの人に恐れを起こさせるものであるという事を、私はその時に初めて意識したのです。

 もちろん、高校一年生で死について悩んでいるのはそれほど多くはないかもしれません。けれども、様々な死と直面するたびに、どうしたって、考えなければならないテーマであることには変わりありません。誰一人として、死から逃れることができる者はいないのです。

 この詩篇の祈り手は、「死」という言葉を口に出した途端、死の恐怖が襲ってきました。
改めて、自分はこの病のために死ぬかもしれないという事を思い起こすのです。あまりにも嘆きすぎて、涙がこぼれすぎて、自分の寝床が涙の湖で押し流されてしまうほどだ、と言い始めたのです。そして、私は弱り果てているのだと口にします。自分はどうしたらいいのだろうか、そういう不安感で支配されてしまうのです。

 ところが、この詩篇は不思議なのですが、続く8節と9節を読みますと、いつの間にか死の不安感から抜け出してしまっているのです。

不法を行う者ども。みな私から離れて行け。主は私の泣く声を聞かれたのだ。主は私の切なる願いを聞かれた。主は私の祈りを受け入れられる。

 いつの間にか、この祈り手は、自分が癒されるのだ、祈りは聞き入れられるのだという確信を持ってしまっているのです。その理由は書かれていません。突然、唐突にこう祈っているのです。この詩篇の中にある嘆きの祈りと呼ばれる祈りは実に多くがこのような形式で記されています。よく分からないけれども、いつの間にか、納得してしまっているのです。

 しかし、私はそのことにあまり驚きを感じません。というのは、祈るという事はそういうことだからです。それこそ、神の慈しみに信頼して祈るのです。神を褒めたたえるために人は生きているのだという事に気づく。そうしたら、自分を取り巻いている生きる不安、あるいは、死の不安というものは、意味を持たなくなるのです。それが、神に向かって生きるということだからです。神と共に生きるということは、あらゆる不安から解き放たれるのです。なぜなら、人間のもっとも大きな不安さえも、神が、私たちを愛して、私たちが幸せに生きることを願って、イエス・キリストを与えてくださったからだということが分かるなら、答えはおのずから見えて来るのです。

 神は、私たちのいのちを、神の目にかなうものとして輝かせたいと願っておられる慈しみ深いお方です。その神が、ご自分の御子を私たちに与えるほどに私たちを愛してくださったということが分かるなら、そのことを受け入れることができるならば、その人は救われるのです。死の不安や、病の不安や、孤独の不安から。

 
 実は、今日の詩篇は嘆きの詩篇と呼ばれていますけれども、もう一つは七つの悔い改めの詩篇の一つに数えられています。水曜日の祈祷会でその話をいたしますと、悔い改めの言葉が見当たらないので、これは違うのではないかと言われました。あらためて確認してみたのですが、やはり、この詩篇は七つの悔い改めの詩篇の一つです。たとえば、宗教改革者のルターもこの詩篇を七つの悔い改めの詩篇として、取り上げています。

 ところが、ここには直接的に神に自分の罪を言い表して悔い改めをする言葉は書かれていません。けれども、神に憐れみを祈り求め、神の慈しみに信頼して、死の不安から解き放たれるその姿は、悔い改めの姿そのものだと理解されたのです。

 「悔い改め」というのは、自分がこれまで、神の心の求めるところに生きていなかったことを認めて、神に向かって生きて行こうと決意することを言います。神の御前に自分の生き方を決断するのです。私は神の御前に生き、神を褒めたたえて生きることにすると。それは、神を褒めたたえて生きること。また、神の与えてくださる命に生きることです。あるいは、愛に生きるようになると言ってもいいかもしれません。そこには、神の豊かな祝福が備えられているのです。

 ぜひ、神と共に歩んでいきたいという思いを受け止めて、自分のために生きるのではなくて、神と共に歩み、人を愛して生きる幸いな人生を生きてほしいと願います。

 お祈りをいたします。

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