2016 年 10 月 16 日

・説教 詩篇19篇「天は神の栄光を物語り」

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2016.10.16

鴨下 直樹

 
 今日は午後から私たちの教会の長老であり、前岐阜県美術館の館長をしておられた古川さんを講師に「楽しいキリスト教美術講座」を行います。これは、毎年二回行われております教会の恒例行事になっています。特に今年は来年宗教改革500年を迎えますので、「宗教改革とキリスト教美術」というテーマでお話しくださることになっています。どんな話になるのか今から私もとても楽しみにしています。

 と言いますのは、宗教改革の少し前の時代からルネッサンスと言われる時代に入ります。それまでの中世のキリスト教ローマカトリックでは禁欲主義が支配していました。ですから、キリスト教美術もそれまではあまり積極的な位置を与えられていませんでした。たとえば東方系の教会の伝統としてイコンというのがありますが、イコンは描く構図が最初から決められていますので、作家の特徴を出すなどということは認められていなかったわけです。ところが、このルネッサンス期になりますと、芸術家たちが自分の作品ということを主張するようになります。それまでは絵にサインをするという習慣もさほどありませんでした。しかし、このルネッサンスに入りますとこの絵は誰それの作品ということが言われるようになって、それこそ大きな町の力のある地域では教会の美術にお金をかけるようになっていきます。それまで一般の人は読み書きができませんでしたから、絵で信仰の教育ができると考えられていたからです。

 そうして、その直後に宗教改革が起こります。そして、この宗教改革はキリスト教美術に甚大な影響を与えます。というのは、それまでは、ローマカトリック教会の教えがキリスト教美術の中心だったわけですが、宗教改革以降、美術においてもカトリックの立場の作品と、プロテスタントの信仰の作品とに分かれることになっていくからです。

 今日は、詩篇19篇を取り上げました。この詩篇19篇というのは、それこそ芸術の歴史の中で大きな影響を与えた詩篇の一つと数えることができるかもしれません。たとえばベートーベンの「諸天は神の」という賛美歌があります。この曲は聖歌に入っていましたが、この詩篇をもとにして作られたものです。ほかにも、ハイドンの「天地創造」も詩篇19篇から着想を得てつくられた曲だそうです。

 キリスト教美術はどうかとも思って少し探してみたのですが、私にはあまりみつけられませんでした。というのも一つ理由があるのではないかと私は想像しています。おそらくですが、自然の美しさを描いた神の創造の御業を称える作品を礼拝堂の中でみるという必要がなかったのです。とくに、キリスト教美術が盛んになりだしたルネッサンス以降の時代というのは、産業革命が起こるまでは、まだいたるところに豊かな自然がありました。ですから、わざわざ暗い礼拝堂の中で自然の美しさを描いたものを見せなくても、特にヨーロッパは日曜の礼拝の日は今でもそうですけれども、商店街は休みですから、自然の中にでて散歩をしながら一日を過ごすとう習慣が根付いていますから、そこで豊かな神の被造物を見ながら神を褒めたたえる事ができたわけです。

 前置きがずいぶん長くなってしまいましたが、この詩篇19篇は、前半部分は壮大な神の天地創造讃歌です。まさに、外に出て、森を行き廻り空を見上げ、星を見つつ、神の創造の御業の素晴らしさをこのように讃えているのです。

天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。

と1節から3節まであります。
 実は、ここにヘブル的な美意識が描きだされていると言われています。この時代のエジプトは、技術的にも文化的にも栄えている大都市でした。ピラミッドやそのほかのこの時代の出土品を見ても、この時代の様式美というものがあったことが分かります。けれども、旧約聖書に示されている美、ヘブル的な美意識というのはとてもシンプルでした。幕屋などもそうでした。装飾品で飾り立てるということはなく、最小限の装飾に限定されています。それは、人が形作る造形物によって美を表現しようというよりも、むしろ、神の被造物を称えることこそが尊いという事を知っていたのです。人間のすることに目を向けるのではなくて、神のなさったことに目を向ける。それこそが、この時代の人びとの見ていたものだったのです。

 この水曜日の祈祷会の時に、マレーネ先生がドイツで見せてもらったというNASAが撮影したという宇宙の写真をいくつか見せていただきました。これまで見たこともないような色とりどりの宇宙の美しい写真の数々でした。どうやってとったものなのか、私にはさっぱりわかりません。先日も、夜にテレビを見ておりましたら、今星が誕生する瞬間までもが映像でとらえることができるんだそうで、二つの渦のようなものが巻き起こってその真ん中が中核となってさまざまな分子が引き合わされて星が誕生するというような映像をみました。この世界にはまだ私たちの理解を超えるものも含めて、すべて神がこの天地をお造りになられ、この世界のすべての被造物はその創造者であられる神のすばらしさを朝から夜まで表していると言っているのです。

天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。

これが新共同訳の翻訳です。とても美しい響きです。この世界の美しさは言葉を持たなくても伝わって来るではないか。そのように、この詩篇ははじまるのです。

 教会は、その歴史の中で、この世界の被造物をみるだけでも、神のことが分かる。それを自然啓示とか、一般啓示と言い表してきました。ところが20世紀にはいって、この自然をみるだけで神のことが分かるということに対して、もう少し慎重になった方がいいという意見がでるようになってきました。というのは、やはり、神の言葉なしに、神のことを正しくは理解できないということに気が付いたからです。

 この詩篇はその意味では、そのことをもうこの詩篇が書かれた時から理解していたと言わんばかりの書き方がなされているのです。
 というのは、7節からはこの詩篇の後半部分にはいります。そして、この7節からは詩篇の内容は急変します。

主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせる。

とはじまります。この「みおしえ」と言う言葉はヘブル語で「トーラー」と言います。これは普段は「律法」と訳されることばです。ここでは、単に旧約聖書のモーセ五書を示す律法ではなくてもっと広い「神のことば」という意味で新改訳聖書は「みおしえ」と訳しました。
 神のみおしえによって、神の言葉によってこそ、この神が創造された美しい世界のなかで正しく生きることができると言っているのです。

 この詩篇の作者は続けて言います。

主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。

7節から9節まで同じような言葉を何度も言い換えながら、主の言葉に聞き従うことこそがなによりも価値のあること、なによりも大事なのだという事を言い表しているのです。

 前半は神がお造りになられた世界の美しさを称えながら、後半部分では神の言葉、神のみおしえこそが、何よりも大事なのだと言い表します。この詩篇は全く異なる二つのテーマを扱いながら、とても大事なことを表現しようとしています。この詩篇の作者は本当に美しいものは、人間が造り出すものではなくて、神がお造りになられたものこそが美しく、そして、人は神の言葉によって生きるときにこそ、本当に美しい生き方ができるのだということを言い表そうとしているのです。

 12節を読むとこのように記されています。

だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。

 この詩篇の作者は、ここで、誰にも知られていないであろう人の心の中に秘めた罪までをも、神の前に赦される必要があるとの祈りをしています。実は、旧約聖書でこれまでそのように言い表した人は一人もありませんでした。罪というのは、犯してしまった過ちと理解されることが多かったのです。それを、自分の内面に秘められたものまで、神の前に赦される必要があるということをはっきりと口で言い表した人はいませんでした。

 つづく13節では「傲慢の罪から守ってください」と言っています。これもそうだということです。傲慢さも、自分の内側から来る醜さからでてくる罪だと言い表しているのです。

 この祈り手が求めているのは神の前にある美しさと言ってもいいかもしれません。本当に美しいものというのは、何か、人間が自分の手で刻んで芸術的に優れた作品をつくりあげることではない。それはもうすでに神がすべてを完全に成し遂げておられるのです。しかし、自分が何かすばらしいものを表現するということではなくて、神が願っておられるように生きる事、それこそが美しいのではないのかということをこの祈り手は理解しているのです。

 神は聖書に戒めを記し、神の前に正しく生きることをお求めになられた。それは私たちが表面上うまくやることではなくて、神の心に生きること、心から自分の内面に至るまで神の思いに生きる事です。この祈り手はこの祈りの中で一つの結論に到達します。それが、「私の罪を赦してください」という言葉にあらわれているのです。この「赦す」は「無罪にする」という意味です。「放免する」という言葉です。そして、この言葉は旧約聖書では神だけが使うことができる言葉として、神が主語の時だけ使われている大切なことばです。つまり、神だけが、私を内面から造り変えて、神の目にかなう美しい生き方ができるようにしてくださると言っているのです。
13節の後半にこうあります。

そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を免れて、きよくなるでしょう。

と。神に赦されるならば、私はきよくなり、完全になることができる。この詩人は、ここに人としての美しさを発見したのです。

 美とは何か。この詩人はこう答えるのです。それは、この世界を完全な美として創造された神の目にかなうものとされることだと。それこそが、人が求めるべきものだと。私たちは美しさについて、たびたび誤解をしてしまいます。私たちは自分が手に入れることができるものによって美しくなることができる、美を手に入れられると考えてしまいます。努力や、財力で得られる美というのもあると思います。けれども、それは外側に張り付けることができる程度のことでしかありません。しかし、神の求めておられる美というのは、私たちの内側に身に着けるもの。私たちの存在が変えられること、神の求めているようになること。心の醜さを捨てて、神のみことばに従う時に、私たちは美しくあることができるのです。この詩人はそのことを発見し、ここでそのことを言い表しました。

 神がこの世界を創造された時から、今に至るまで、神はこの世界を美しくしたいと願っておられます。そして、み言葉に生きることだけが、それに応えるただ一つの道なのです。

お祈りをいたします。

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