2016 年 10 月 23 日

・説教 詩篇3篇「敵に囲まれていても」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 12:50

 

2016.10.23

鴨下 直樹

 
 この詩篇第三篇には表題がついています。そこには「ダビデの讃歌」と書かれています。詩篇の中にはこのダビデの讃歌という名前のついた詩篇が数多くあります。私たちは、ダビデの讃歌と書かれていると無意識的に「ダビデの書いた讃歌」と理解するのだと思います。ただ、どうもここに書かれているヘブル語はダビデが書いたという意味にもとれるのですが、色々な読み方ができる言葉で書かれています。いつくかの翻訳が可能で、一つは「ダビデ作」という意味です。他にも、「ダビデのための」というようにダビデのために書いた歌という理解もできますし、「ダビデによせて」いう意味でダビデにささげる歌という理解もできます。

 ですから、ダビデの讃歌と書かれている詩篇がすべてダビデが作者であると考える必要はないわけです。先日も俳句の集まりで、芭蕉の記念の大会というものがあるそうですが、芭蕉を忍んで俳句をみんなで作ったとしても、直接には芭蕉とはなんの関係もない俳句が沢山でてきます。そういうふうに考えてくださると、このダビデの讃歌というのも理解していただきやすいのではないかと思います。

 さて、そうはじめに断っておきながらなのですが、この詩篇の3篇は「ダビデがその子アブシャロムから逃れたときの讃歌」という題がつけられています。すでに、詩篇の第1篇と第2篇は説教しましたので、もうそれほど丁寧に繰り返しませんが、詩篇第1篇は詩篇150篇全体の序詩ともいえる全体の方向性を示す詩篇です。第2篇は、というと、この詩篇は五つの巻物になっているわけですが、この第一巻の巻頭詩という性質があります。特に、この詩篇の第一巻というのは、ダビデの詩篇と名の付くものばかりを集めたものです。今日でいえばダビデにまつわる讃美歌集、あるいは祈祷集というと分かりやすいかもしれません。ですから、この第3篇からがダビデの詩篇の特徴がでてくるわけで、いきなりダビデのあまり関係のないものを配置するということは考えにくいわけです。

 少し、この時の出来事を簡単に説明しておきたいと思いますが、ダビデは晩年、自分の息子のアブシャロムがクーデターを起こし、命の危機に直面します。自分の兵士たちはアブシャロムにつき、同じイスラエルの民同士で戦わなければならなくなってしまうのです。そういう実際にダビデの身に起こったことがこの詩篇の背景になっています。

1節と2節にこう書かれています。

主よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。多くの者がわたしのたましいのことを言っています。「彼に神の救いはない。」と。

 クーデターがおこり、息子だけでなく、かつてのダビデの兵士たちも今や敵となった状況を見て、周りの人はダビデが神に見捨てられたと映ったのです。それは、無理もないことです。状況が状況です。
 しかし、ダビデはそのような状況の中でも、主に対する信仰を告白してこういます。

しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高くあげてくださる方です。

 ダビデに向かって数限りない弓の嵐が飛んでくるイメージを想像してくださると良く分かるかもしれません。矢が自分めがけて飛び交う中で、もはやダメかと頭を抱えてしまう。ところが、矢は自分には届かない。どうしてかと頭を上げてみると、盾が矢を受けとめている。そんなイメージです。主を「あなたは私の回りを囲む盾」そして「私のかしらを高くあげてくださる」と言っているのです。ダビデはそのように神のことを告白します。主は私への攻撃を身に受けてくださる方。

 これは、新約聖書に描かれている主イエスのイメージとも結びつきます。ルカの福音書19章に、取税人ザアカイの話しがでてきます。取税人は当時イスラエルを支配していたローマのために税金を取り立てる仕事です。同朋からお金を取り立てて、敵のローマにお金を渡す。しかも、その立場を利用して私腹を肥やしていたらしい。ユダヤ人たちからは当然憎まれます。そんな時に、ザアカイの町に主イエスが訪れます。人々は主イエスのもとに集まって来ます。ザアカイも一目見てみたいと思うのですが、背が低いために主イエスを見ることができません。それで、木の上によじ登って、主イエスを見ようとすると、その木の下に主イエスが来られて、ザアカイに話しかけます。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日はあなたの家に泊まることにしているから。」

 ザアカイは喜んで主イエスを家に迎え入れるという話です。もし、この時に、ザアカイの方から主イエスに、「うちにお泊り下さい」などと声をかけたら、人々の批判はザアカイのもとに集まります。けれども、主イエスの方からザアカイに話しかけます。するとどうなったかというと、人々の非難は主イエスの方に向けられます。

 受けるべき非難は主イエスが受けてくださる。これが、「主は我が盾」との告白に込められた主のイメージです。そして、そのように主に支えられてダビデは高らかに顔を上げることができるようになったのだとここで告白しているのです。

 さて、つづく5節と6節はこの詩篇の中心的な部分です。

わたしは身を横たえて、眠る。私は目をさます。主が支えて下さるから。私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。

この詩篇3篇は伝統的に「朝の祈りの詩篇」と言われています。4篇にも同じような表現が出てきますが、こちらは眠りにつくまえの情景を想像させるために4篇は「夜の祈りの詩篇」と呼ばれています。

 ダビデの敵というのはどこか外にある強大な敵というわけではありませんでした。ごく身内の息子であり、かつて自分の配下にいた兵士たちです。息子の民が蜂起して自分に立ち向かって来るのです。そういう時に、夜、安心して眠ることができるなどというのは、ちょっとありそうもないことです。何故こんなことになってしまったのか。これからどうなるのか、不安で、不安でたまらないはずです。しかも、いつ寝首を掻かれるかも分からないような状況にいるのです。

 先週の金曜日の午後に鳥取で大きな地震がありました。地震が起こるということも、そうかもしれません。安心して眠ることができるということは、私たちには決して保証されているわけではないのです。

 イギリスの説教者でジョン・ベイリーという人がおります。この人の書いた本の中に『祈りの神学』というものがあります。それは詩篇127篇の2節に昔の欽定訳聖書では「主はその愛する者に眠りをたもう」となっていたことから書かれた本でした。今は、「主はその愛するものの眠っている間に与えられる」と訳されるのが普通です。ただ、ここに書かれているのは、眠りは神の賜物であるということが書かれているのです。心配事を寝床に持ち込むという時に、神は目覚めておられるという事を忘れているのだというのです。

 私たちが眠っている間、私たちの体は動きません。その間に、地震が起こる。クーデターが起こる。ミサイルが飛んでくる。そのようなことが起こったとしても、私たちは自分で自分を守りようがないのです。ただ、神はその時に起きておられるという事。私たちが眠りにつくという事は、神にゆだねるということだということを私たちは忘れてしまっているのです。ダビデにとって、まさにそういう戦時下にいながら、平安に眠ることができたと朝、神に感謝の祈りをささげているのです。これこそが信仰の姿なのです。

 明日、仕事の納期を控えている。けれども翌日は礼拝。明日の日曜は天気が良くて収穫するのにちょうどよい日に思える。人間的に考えれば、自分が頑張ってなんとかすれば道が開けると思う。この夜寝ないで仕事をすれば、そうすれば納期に間に合う。私たちの考えはそういうところにあるのです。しかし、その時に、私たちの神が働かれている、神は生きて働かれるお方であるという信仰は私たちの中には影をひそめてしまっているのです。

 信じるということは、闇の中に身をゆだねて眠りにつくことです。これが、神を信じるダビデの信仰でした。そして、神は、ダビデを支えられ、朝にはまた一日自分のするべき務めを果たすことができるのです。

 ダビデは告白するのです。「私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない」と。自分のいのちを奪おうとする何万という軍勢にもまさる生ける神の働きをダビデは経験したのです。それが、眠るということです。主よ、ここからはあなたの出番です。あとはあなたにお任せして、私は少し休ませていただきます。こうして、健やかに朝を迎えることを経験した者は、神が目覚めておられることを身をもって知ることになるのです。

 先週の月曜日から火曜日にかけて東京の中央神学校で日本福音主義神学校協議会の総会が行われました。私も今年、この総会に出席させていただきました。今年のテーマは「神学校を卒業した牧師の継続教育」というのが課題にあげられていました。というのは、日本中で、牧師たちが神学校を卒業してから、どうやって学びつづけ、良い牧会者として、あるいは教会指導者として整えられることができたかということが、課題になっているのです。というのは、多くの若い牧師たちが教会の現場で自分のことで精一杯になってしまって、教会の人を支えるという事ができなくなっている現実があるのです。

 先日もお話したように、自分の心が空っぽになるほどに出し尽くして、もう何も出てこないという状況に陥る牧師が少なくないということのようです。アウトプットばかりして、インプットできていない。そうやって空っぽになってしまわないように神学校でできる役割は何だろうかという事が話し合われました。

 もちろん、本当は難しいことではなくて、神と共にある豊かな時間を持つこと。まさに、この詩篇で言うような、たとえ敵のただ中にあっても安心して眠ることができるということを経験することができるならば、問題はないのです。けれども、中には、目の前に起こる厳しい現実に打ちのめされてしまう人も少なからずあるのです。

 牧師がそうだというのですから、教会の人びとになればもっとそういうことが起こったとしてもそれはよく分かることです。けれども、是非、知って欲しいのは、牧師だろうが、信徒だろうが、私たちの神、主は同じお方です。肝心なことは、目の前の厳しい現実に目が奪われてしまって、神を見出せなくなってしまうことです。そのためには、自分もまた神と出会うという経験をすること以上に力になることはないのです。

 問題を見つめるのではなくて、神を見上げる事です。主イエスのお姿を心に刻むことです。その時に、自分に降りかかる幾千のもの矢が襲って来ても、神が盾となってそれを受けて止めておられることに気が付くのです。
8節

救いは主にあります。

他にはないのです。他の人が、教会なんて行っても無駄だ、聖書を読んでも無駄だと言ったとしても、「あなたに神の救いはない」と言ったとしても、「救いは主にある」のです。現に救いはあるのです。そして、私たちの救いの主は、主の祝福を私たちの上に豊かに注ごうとしていてくださるお方なのです。

お祈りをいたします。

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