・説教 詩篇96篇「確かに主は来られる」
2016.12.4
鴨下 直樹
先週、私たちの教団の総会が行われました。今回の教団総会で話し合われたのは、教団のシステムの見直しについてです。これまで、私たちの同盟福音キリスト教会が60年間にわたって同じ規則のもとで宣教をし続けて来ました。けれども、教会の数が少なかった時にはうまく機能していても、時間の流れにより教会数の増加に伴って同じ規則で進み続けることは難しくなってきてしまいました。ご存知のように、私たちの教会は包括法人という形態をとっています。多くの教会のように、それぞれの教会が宗教法人格を持っている独立した教会ではなく、私たちは26の教会で一つの教会であるという考え方をしています。これは、私たちの教会の特徴ともいえるのですが、みんなでとにかく協力して支えあっていく教会ということが強調されてきたわけです。そのために、新しい開拓教会がはじまれば、教団の教会全体でトラクト配布の応援に行ったり、あるいは、どこかの教会が経済的に厳しくなれば、まわりの教会が援助するという形で、教会形成がなされてきました。そのためには、共通の教会理解が必要ですし、他の教会とともに成長していくということが念頭におかれていました。それは、本当に素晴らしい考え方ですし、これからも、その良い部分は残し続けていきたいと考えています。
けれども、時代が進むとともに大きな組織は小回りが利かず、何か小さな問題が起こっても全体で話し合って決めて行かなければなりませんので、小さなことをきめるのにも時間がかかってしまいます。また、ここ数年、それぞれの教会の伝道が難しくなっています。教会に新しい人が繋がりにくくなり、それにともなって財政的に厳しい教会も少なくありません。
ではどうすればいいかということになるわけですが、これは、それぞれの教会が宣教していくという当たり前のことに力を入れることができるようするシステムをもう一度作り直すことが必要です。教団全体行事のために使う時間をできるだけ簡素化して、それぞれの地域にたてられている教会がもう一度積極的に伝道することができるように変わらなければなりません。それで、今回の総会で「宣教ネットワーク制」というシステムに変えていこうということが決められたわけです。そして、近隣の2つ3つくらいの教会で協力しあいながら、それぞれの地域に伝道することができるようにするシステムに変えることが、この総会で決議されました。私たちの芥見教会は、可児教会と群馬県にある下仁田教会とが同じグループということになりました。この三つの教会で人の交流を盛んにしながら、それぞれの教会に集っておられる方々が積極的にその人の賜物や能力を発揮して、伝道のためにお互いにより協力できるようにと願ってのことです。もちろん、これから、どうなるかはまだ誰にも分かりませんが、新しく変えられるシステムに期待しつつ、歩んでいきたいと願います。
少し前置きが長くなりましたが、この詩篇も、イスラエルがこれから新しい時代に移るところで、主に新しい期待をもって作られた詩篇です。以前詩篇の第98篇から説教をしましたが、今日の詩篇96篇も98篇と非常に内容が似ているところです。70人訳聖書というすでに紀元前二世紀ごろに訳された旧約聖書のギリシャ語翻訳聖書があります。これは、翻訳された旧約聖書の最も古いものとして知られていますが、この聖書は私たちが使っている旧約聖書とは少し異なる部分があります。そのおかげで少しその時代にどう読まれていたかということが分かるわけです。この70人訳聖書の詩篇第96篇には表題が付けられています。そこには、「捕囚の後、家が建てられた時、ダビデの歌」と書かれているのです。つまり、この詩篇はイスラエルの民がバビロン捕囚を経験して、その後、エルサレムに神殿が建てられた時の歌だと説明されているわけです。
70人訳聖書の表題には「ダビデの歌」とついていますが、これは、第一歴代誌第16章の23節から36節に、ダビデがエルサレムの都に契約の箱を運び入れた時に歌った歌が記されています。実はこの詩篇96篇は、この第一歴代誌に記されているダビデの歌と、うり二つの内容になっています。つまり、この詩篇はダビデが契約の箱をエルサレムに運び入れた時の歌を借りてきて、バビロンの捕囚から帰還して第二神殿が建てられたときの歌と重ねて歌われた歌だという事が分かるわけです。
それまでイスラエルの人々はバビロンという強大な国に支配されていました。神殿も破壊され、イスラエルの民は自分たちの国土でも自由に生活することができませんでした。そんな中で、バビロンからの帰還がかなったのです。そして、エルサレムの神殿が再建される。まさに、イスラエルの人々にしてみれば、新しい時代への期待に満ちていたときだったのです。
現状の厳しさに目を向け、ただ悲しみしか見つめる事しかできなかったイスラエルの民は、今、新しい時代の始まりに目を向けて神の御業に期待したのです。
新しい歌を主に歌え。全地よ。主に歌え。
そのようにこの詩篇の1節に記されています。まさに、今始まろうとしている新しい神の御業に期待して、新しい歌を歌いたいのです。これまでの自分が知っていた神にもまして、新しい神の御業を見ることができる。それは、期待以外のなにものでもありませんでした。というのは、バビロンの捕囚期間というのは七十数年の間です。その間に、ほとんどのイスラエル人はバビロンの支配下に生まれ、これまでの神の働きは聞いてはいても、自分で見たことはありませんでした。けれども、今まさに、新しい神の御業を自ら知ることができる。バビロンから帰還して、神殿が建て直され、自分の目で神の御業を体験することができるのです。まさに、今まで歌ったことのないような神を称える歌を、自ら味わって歌うことができるようになる。そんな事態がこの詩篇の背後にはあるのです。
特に10節にこういう言葉が記されています。
国々の中で言え。「主は王である。まことに、世界は堅く建てられ揺らぐことはない。主は公正をもって国々の民をさばく」
ここには、「まことに世界は堅く建てられて揺らぐことはない」などと言える世界はこの世界にはありません。世界中が揺れ動いています。確かなものなどどこにあるのかと言わんばかりに、毎日揺れ動いています。この詩篇には、何度も何度も「国々」という言葉が繰り返されています。この詩篇は、今、イスラエルがバビロンから解放されようとしているその主の働きの素晴らしさを、世界中の国々に伝えたいという気持ちに満ち溢れています。そして、その「国々の中で言え。『主は王である。まことに、世界は堅く建てられて揺らぐことはない。』」のだと、主なる神の王国こそが、神の御国こそが、もっとも確かなものなのだということを、ここで語り告げようとしているのです。
「ポストモダン」という言葉があります。今から20年ほど前から言われるようになった言葉です。「モダン」と言われる「現代」の次に来る時代はどういうものかを言い表したことばです。これからの時代はどうなっていくのか、あるいは、今の世の中はどうなったのかということですが、この「ポストモダン」という言葉で言い表すことのできる「現代」は、インターネットやスマートフォンというようなものによく表れていると言えますが、あふれかえった情報を、自分の手の中で手軽に手にすることができる時代になりました。そして、それは、自分の欲しい情報、自分の気に入るものだけを取捨選択して取り込むことができるようになったということができます。そうすると、自分にとって価値あるものだけが意味があるわけですから、自然に、自分本位になっていきます。つまり、誰かの権威が意味をもつのではなくて、自分が常に判断の中心になっていくということです。それは、自分が神になるということでもあります。
ところが、誰かの権威を不要として、自分の判断だけに寄り頼んでいくと、結局、自分で判断がつかない問題にぶち当たってしまうと、たちどころに行き詰ってしまい、揺れ動いてしまいます。しかも、それなのに、それさえも、インターネット上で質問をして、自分の気に入る回答をしてくれる人の意見を採用するというようなことになっていくのですから、どんどん自分に自信がなくなっていくのです。確かなものがどんどんなくなって、ますます、今の世界というのは、揺れ動く世界の中に立たされた世界ということになっているのです。それが、ポストモダンと言われる現代社会の姿です。権威を放棄し、自分本位になったがために、ますます人と一緒に生きることができにくくなってしまっているのです。
「堅く建てられ揺れ動くことのない世界」それは実は、本当は誰もが求めているものと言えます。それは何という確かさをこの世界に、私たちにもたらすでしょう。「堅く建てられ揺れ動くことのない世界」それは、いつも、どこに向かって行くのか、この先どうなるのか、そういったあらゆる不安が取り除かれて、安心して、堅く建って揺れ動くことのない平安をもたらす世界なのです。
この確かな平安をもたらしてくださる王が来られる、おいでになる。もう間もなくおいでになるのだと、この詩篇は宣言しているのです。この王なる主はかつてバビロンの支配のもとにあったイスラエルに再び平安をもたらし、神殿を建設させ、神中心の生活をイスラエルの民にお与えになりました。バビロン捕囚が起こったのは紀元前600年ごろとされています。そして、約70年バビロンの支配は続きますが、やがてペルシャが支配した時に、神の民は帰還がゆるされます。けれども、その後も、神の民は何度も何度も神を悲しませ、イスラエルはアッシリアやギリシャに支配され続けます。けれども、今から約2000年前の、クリスマスの時に神はもう一度この世界を顧みてくださって、神の御子イエス・キリストをこの世に送って下さったのです。
この詩篇96篇は教会の暦ではクリスマス・イブやクリスマスの当日に読まれる詩篇として読み継がれてきました。この詩篇は神の新しい御業を期待する時に読まれる聖書の箇所としてふさわしいと考えられてきたのです。
この詩篇には最後の13節にこのように記されています。
確かに、主は来られる。確かに、地をさばくために来られる。主は、義をもって世界をさばき、その真実をもって国々の民をさばかれる。
確かに、主は来てくださるのです。事実、バビロン捕囚のときにも、クリスマスのときにも主は来られ、地の裁き、この世界に、堅く建って揺れ動くことないものを明らかにしてくださいました。それは、神の支配です。神ご自身がこの世界をさばかれる時、この世界を神の確かさの上に建て上げられるとき、この揺れ動き続けている世界に神の確かさが打ち建てられて来たのです。
そして、この主はもう一度来られると今も、私たちに約束していてくださいます。私たちに新しい歌を歌うことができるようにしてくださるのです。今まで知らなかった神のすばらしさを、歌うことができるようにしてくださるのです。
教団では宣教ネットワーク制が新しく始められようとしています。私は、この教団に与えられたこの新しいビジョンが、これからの私たちの教会の将来を創るものになると確信しています。これまで、教会が続けてきたことを繰り返していくことも、とても大切なことです。けれども、もっと外に目を向けて、可児教会と下仁田教会の方々とともに助け合いながら、自分たちのできることに目を向けて協力していく姿は、一人一人の顔が見える教会の姿になっていくことでしょう。その時、私たちはまだ見たことのない神のすばらしい御業を見ることができるはずなのです。
今から30年前、ジークフリード・ストルツ先生は神のビジョンを描きながらこの芥見で伝道を開始しました。そして、35年を迎えました。今、ここに集まっておられるみなさん一人一人のことを最初の宣教師ストルツ先生は、思い描いてはいなかったと思います。けれども、こうして、私たちはこの教会に呼び集められて、こうして礼拝をささげています。今からのちも、神様はこの教会にさらに新しい人を送ってくださることでしょう。私たちがまだ予想もしないようなことを、神はしてくださるのです。
昨日、私たちの教会では一年に一度、一日役員会という時を持ちました。牧師、宣教師、長老、執事とも集まって、この一年の主の御業に感謝しつつ、新しい一年に向けてどのように歩んでいくのかを祈りながら話し合いました。今年、私たちは長年の祈りの課題であった駐車場の土地を与えられました。まだ、いくらか返済はありますが、それは本当に大きなことです。数年前まではまだまったく現実性はなかったのです。けれども、私たちの主は生きて働いていてくださり、ここに駐車場を得ることができました。私たちの神は、今も生きて働いていてくださるお方です。この主なる神は、これからも働いてくださり、私たちに新しい神の御業をみさせてくださるお方です。私たちはそのことを、期待することができるのです。
この世界がどれほど、揺れ動いたとしても、私たちの主は揺れ動くことのない確かなお方です。この主に期待しつつ、主の新しい御業に目を向け、まだ味わったことのない新しい神の御業を経験し、新しい歌を歌っていきたいのです。
お祈りをいたします。