・説教 詩篇85篇「恵みとまことは互いに出会い」
2016.12.11
鴨下 直樹
「思ってたんとちがう」朝のNHKの子ども番組の時間にそんなコーナーがありました。ふだんあたりまえに思い込んでいるものが、全然違うものだったという短いコーナーの映像番組です。薬だと思ってみていたら実はネジだったとか、そんな映像です。私たちの生活にも、時々そういったことが起こります。おいしそうだと思って買ったケーキが、思っていたほどではなかった。そんな程度のことは毎日のことなのかもしれません。けれども、もっと大切なこと、たとえば会社に勤めるとか、あるいは、結婚するというようなことになると、まぁ思っていたのと違うけれども仕方がないとはいきません。それで、そういう人選の大事な選択をする場合には、よく見極めて、よく考えて、ある程度大丈夫かどうかを知りたいと思うわけです。
今日の詩篇の背景にはバビロン捕囚の帰還というこれまで、ここでも何度もお話して来た背景があります。バビロン帝国に支配されながら、新しくペルシャの王になったキュロスという王さまは、イスラエルの民が自分たちの母国に帰ることを許可します。それで、イスラエルの人々はこの神様の取り扱いに、非常に喜んで希望をもって故郷に帰ってきたのです。
この詩篇の冒頭の1節から3節にはそのこと記されています。
主よ。あなたは御国に恵みを施し、ヤコブの捕らわれ人を、お返しになりました。
と1節にあります。ヤコブの捕らわれ人というのは、イスラエル人たちのことです。こうして、自分たちの国に帰って来た。それは、本当に大きな喜びと希望を胸に抱えてのことだったと思います。2節にこう続きます。
あなたは、み民の咎を赦し、彼らをすべての罪を、おおわれました。
ここに、主の行われた救いの御業が語られています。主はこれまで神に逆らい続け、ついには神に裁かれてバビロンの手に落ちてしまったイスラエルの罪をお許しくださったとあります。特に、興味深いのはこの2節の後半に記されている「彼らのすべての罪を、おおわれました」という言葉です。この「覆う」という言葉はカバーするという言葉です。
今、年末ですのでみなさんも大掃除をすると思います。たとえば、そういう時に、使わなくなったものを風呂敷に包んで押し入れにいれておくなんてことをする方があると思います。そこにはいろんな意味があるとおもいますが、一つは風呂敷に包むと、その中に色々なものをまとめて入れておくことができます。あるいは、風呂敷に包むことで、中身がほこりや虫で傷まないようにするということもあります。そして、もう一つは、中のごちゃごちゃしたものが直接目に触れなくなるということもあると思います。
聖書は、罪の赦しを語るときに、時々この「おおう」という言葉を使います。これは「キッサー」というヘブル語ですが、「おおう」という意味の他に「隠す」という意味もあります。イスラエルの人々の罪を全部ひとまとめにして風呂敷に包み込んで見えなくする。その中にはありとあらゆる人の罪があるわけですが、そういうものを全部ひとまとめにして包み込んで、見なくする。神様はそのようにして、私たちの罪に、私たちの弱さや、自分勝手さや、醜さを包み込んでくださるというのです。
ブルガリアの芸術家でクリストと呼ばれる人がいます。正確にはフリストと読むのでしょうか。私がドイツにおりました時に、最後の半年インターンということで、教会実習のときをもちました。その時の教会の牧師室にこのクリストがライヒスタークという帝国議会の議事堂を銀色の大きな布ですっぽり包み込んだ写真が壁に掛けられていました。その時の牧師はクノッペルという牧師で、日本の津島佐織教会で宣教師をしていた先生です。日本にいた時から非常に親しくさせていただいていたのですが、私がこれは何ですかと尋ねると、クノッペル先生は「すごいだろう」とこの写真の説明をしてくださったのです。実はその写真にはその時に使われた布が小さく切り取られて絵に添えられていました。あとで、この布は配付されたというようなことを話しておられました。それで、写真に添えて布を張り付けたのだと思います。
私はこのクリストという芸術家がどうやってこの着想を思い浮かべたのか分かりませんが、イスラエルのすべての罪を覆うという時に、あるイメージを私たちに与えてくれる作品だと思います。全部、なにもかもひっくるめて包み込んでしまう。もちろん歴史的な美しい建物ですけれども、汚れているところも、かけている部分も、いやな部分もあります。そういう悪い部分もすべてこの大きな銀色の布は包み込んで隠してしまうわけです。
この詩篇85篇の作者は、バビロンの帰還の時に神がイスラエルの人々に与えてくださった神の赦しは、まさにイスラエルの民のすべての罪の部分をも神がこのようにすべて覆ってくださるような出来事だったのだと、ここで思い返しながら告白しているのです。
そして、3節では
あなたは、激しい怒りをことごとく取り去り、燃える怒りを、押しとどめられました。
とあります。神は御怒りを押しとどめてくださって、私たちはイスラエルに帰って来ることができたのだと、この神の御業を褒め讃えているのです。この1節から3節は過去形の文章で記されています。つまり、そのようにして私たちはこの約束の地に帰って来ることが出来たと神の御業を褒めたたえているのです。
しかしです。しかし、今はそのように感じられないのだということを、つづく4節から訴え始めているのです。4節
われらの救いの神よ。どうか、私たちを生き返らせ、私たちに対する御怒りをやめてください。
とあります。ここから7節までは今の現状に対する神への訴えがなされています。3節では「御怒りを、押しとどめられました」と言っているのに、4節では「御怒りをやめてください」と訴えているのです。
少しだけ言葉の説明をしておいた方がいいと思うのでここにある「生き返らせ」という新改訳聖書の翻訳についてですが、もともとこの言葉はちょっと独特の言葉なのですがもともとは「戻す」という意味の言葉です。ですから「戻してください」とか「回復させてください」と訳す場合が多いのです。生き返るというと、せっかくイスラエルに帰って来たのに、その生活は死んでいるようなものだという意味になってしまいますので、あまりよい翻訳とは私は思いません。
いずれにしてもここで、イスラエルの人々は神がまだ怒っておられると感じられるほどの厳しい現状があったということです。バビロンから帰還して来た時に、希望に満ち溢れていたのですが、帰って来てみると、こんなはずではなかったのにと思えるありさまがあったのです。
「こんなはずではなかった。」それが、イスラエルの人々の実際の叫びでした。エルサレムに帰ってきた人々はなによりもまず城壁をなおさなければなりませんでした。城壁を早急になおさなければ直ぐにも周りの国が攻め込んでくるのです。そしてまた、エルサレムの神殿は廃墟となっていて、神への礼拝をささげることなどできない状況にあったのです。
この時期のことがかかれているのはエズラ記、そしてハガイ書に記されています。エズラ記にはエルサレムに帰還してきた人々が、希望をもっていたのですが、まわりにいた他の民族がそうはさせまいと城壁の修繕の邪魔をします。そのために、イスラエルの人々は常に戦いながら城壁の修繕をするという状況におかれます。神殿などはまったく再建の見通しが立たないという状況でした。そのような状況が長く続くにつれて、人々はだんだん諦めてしまい、自分の生活のことをまず優先するようになってしまいます。エルサレムの神殿を建て直すことよりも、自分の家を建て直すことの方が大事だと考えたわけです。この時のイスラエルの人々の気持ちはとてもよく分かります。自分が居心地のいい生活ができることが何よりも優先すべきだと考えたわけです。そして、生活にゆとりが出来てから神殿を建て直せばいいと考えたわけです。
この詩篇の8節で突然「私」という人物が登場します。
私は、主であられる神の仰せを聞きたい。主は、御民と聖徒たちとに平和を告げ、彼らを再び愚かにはもどされない。
おそらく、この私という人物がこの詩篇の作者だと考えられますが、この人は、今自分たちが抱えている現実がどのように厳しいかとか、神様は怒っておられるのではないかとか、そういう自分たちが今どう感じているかではなくて、「神が何を仰せなのか、それを聞きたい」と言うのです。そして、神の仰せによれば9節
まことに御救いは主を恐れる者たちに近い。それは、栄光が私たちの国に留まるためです。
と主は今に私たちに何と語っておられるかを言い表しています。
本当に今、見るべきなのは目の前の厳しい現実なのではなくて、神は何を見ておられるのか。神はどうしたいと思っておられるか。そのことこそが、大事なのだということに、この人は気付くのです。
ハガイ書にはこう書かれています。少し長いのですが、読んでみます。ほんとうはハガイ書1章全部を読みたいのですが、9節以降をお読みします。
あなたがたは多くを期待したが、見よ、わずかであった。あなたがたが家に持ち帰ったとき、わたしはそれを吹き飛ばした。それはなぜか。――万軍の主の御告げ。――それは廃墟となったわたしの宮のためだ。あなたがたは、自分の家のために走り回っていたからだ。それゆえ、天はあなたがたのために露を降らすことをやめ、地は産物を差し止めた。わたしはまた、地にも、山々にも、穀物にも、新しいぶどう酒にも、油にも、地が生やす物にも、人にも、家畜にも、手によるすべての勤労の実にも、ひでりを呼び寄せた。
少し、衝撃的な内容ですが、ここで主は「あなたがたは神の神殿を建てることを後回しにして、自分の家を建てることを優先した。だから、天は作物を生じず、あなたがたの生活は厳しいのだ」と主はここで言われているのです。
優先順位が違うのだと主は言われるのです。イスラエルの人々はこんなはずではなかった、思っていたのと違う、だから、神よなぜですかと訴える。けれども、主はその原因はわたしにあるのではなくて、あなたがたが自分の生活を優先させて、わたしの心をないがしろにしているからだとお語りになられたのです。
この詩篇は教会の暦でこのアドヴェントの季節に読まれる聖書箇所の一つです。それは、先ほどお読みした9節の「まことに御救いは主を恐れる者たちに近い。」この「まことに御救いは近い」というメッセージこそ、クリスマスにもたらされた知らせなのだという事を思い起こさせるみ言葉だからです。
この詩篇の作者は、聞くべきは「主であられる神の仰せ」と言って、神が言われることば。このハガイ書で語られているように、まず、自分の生活のことではなくて、神のことを優先にするときに、神が私たちに与えたいと思っておられる御救いをもたらしてくださるのだということなのです。そして、クリスマスにこの神の御救いが確かにもたらされたのです。
この時も、同じです。「飼い葉おけに寝ておられるみどりご」これが、神からの答えでした。それこそ「思ってたんとちがう」と言いたくなるような救い主だったのです。けれども、この私たちの思いを裏切るような神の御業こそが、私たちに本当に必要なものなのです。
この詩篇はさらにこう続きます。10節と11節です。
恵みとまことは、互いに出会い、義と平和とは、互いに口づけしています。まことは地から生えいで、義は天から見おろしています。
今から20年ほど前に、私とマレーネ先生とこの芥見の前任の浅野直樹先生と、教団の学生会を担当していたときがありました。その時にはじめて教団の学生会で長期キャンプというのを行いました。2週間の北海道のキャンプを行ったのです。その時のテーマは「祈り」でした。そのキャンプでは一日一回メッセージの時間がありまして、それぞれの牧師、宣教師が交代で説教をしました。ちょうど、船にのって北海道に向かう行きの船で、浅野先生の説教の時に、ある人の言葉としてこんな言葉を教えてくれました。「祈りは天と地が口づけすることである」と。
実は、この箇所をしらべていましたら、この言葉がでてきまして、あるユダヤ人思想家の言葉なのだそうです。「お祈りとは天と地が口づけすること」と聞いて、私ははじめイメージとしては分かるけれども、天と地はくっつかないよなぁと思っていたのです。すると、目の前にある水平線に目が留まりました。そして、「あっ!」と思ったのです。
こんなにもはっきりと、目の前に天と地がくっついている光景が360度ぐるりと一周続いていたのです。文句なく、ああ、こういうことかと思いました。
天と地がいくら遠く離れていても、そのまったく異なった二つは神の手にかかればしっかりと結び合うのです。恵みとまことは、天にはあるかもしれないけれども、地にはない。義も、平和も、天にあったとしても地にはない。私たちのところにあるのは、いつもないものばかり、あるのは厳しい現実、そう訴えたくなるのです。
けれども、神は天をこの地にもたらすために、神の恵みとまことを、義と平和をこの地にもたらすために、神の方法で、それをもたらしてくださいました。それは、私たちのイメージするものとはまったく異なっています。神のみ言葉に耳を傾け、神の御業を見る時に、私たちは、自分の常識を、自分が今見ているものから、一度目を離す必要があるのです。そして、その神の御業の足跡はもう目の前に指し示されているのだと詩篇は告げているのです。
自分の思いを捨てること、自分が見ている現実は神の現実ではないことに気づく。その時、神は、私たちに奇跡を与えてくださるのです。神の御業に気づくようにさせてくださるのです。
実際、ハガイ書を読みますと、人々はエルサレム神殿の建設を最優先させます。そして、4年後、エルサレムの神殿は再建されるのです。神は、約束された御業を行ってくださるのです。
「まことに、主の御救いは近くにある」のです。恵みと平和は互いに出会い、私たちのところにもたらされる。私たちが聞くべきなのはこの主のみ言葉なのです。
お祈りをいたします。