・説教 詩篇25篇「慈しみ深い主」
2016.12.18
鴨下 直樹
今、司式者の読まれたこの詩篇をお聞きになって、少し重苦しい言葉が並んでいるとお感じになられたかもしれません。あるいは、内容が少し難しいと感じられたかもしれません。けれども、同時にいくつもの言葉が心にとまったのではないでしょうか。実は、この詩篇はアルファアベットの詩篇という、とても変わった形式で書かれています。各節の冒頭の言葉をアルファベット順に並べて書き記しているわけです。そうしますと、当然、表現できる内容というのは非常に限定された言葉遣いを選び取らなくてはなりません。けれども、読んでみて気づくのは、とても限られた言葉を選んで書き記しているとは感じさせないほど豊かな祈りとなっています。
この詩篇は全体としてはとても重苦しい内容になっています。このような詩篇を嘆きの詩篇と言います。また表題に「ダビデによる」とあります。この詩の祈り手がダビデであることをよく表している詩篇だと言えます。というのは、この祈り手は、「敵」に苦しめられて「道」を探し求めているからです。ダビデは常に敵のただ中で生きた人だと言えます。
この詩篇はこういう祈りの言葉ではじまります。
主よ。私のたましいは、あなたを仰いでいます。
1節です。今、年末を迎えています。年末というのは、一年間を振り返る時です。一年間、それぞれの歩みがどのように支えられて来たか。そうすると、色々なことに気が付きます。その時は気が付かなくても、ああ、ここでも、ここでも主が私たちの一年の生活を支えてくださって、ここまで歩んで来られたのだということに目が留まります。その時、天を仰いで、主に祈るのです。
エルンスト・バルラハというドイツの彫刻家がいます。素朴でありながら力強い作品をつくる彫刻家です。このバルラハの作品に「ベットラー(Bettler auf Krücken)」という作品があります。日本語にすると「杖をついた乞食」という名前でしょうか。両腕に松葉づえを抱えながら上を向いている男の作品です。私はドイツの色々なまちでこの作品をみました。すくなくとも4箇所、それぞれまったく違う場所でみました。いたるところで見かけるという事は、多くの人々に愛されている作品だということです。その多くはレプリカなのだそうです。この作品をみるとすぐに思い出すのは宗教改革者ルターの言葉で「私は乞食である、それは確かなことである」というものです。自分には何もない、何も持たない者であっても神を仰ぐことはできる。そして、神を仰ぐことこそが、人間に求められていることだと言っていいと思うのです。
自分の力で何かをなし得てきたわけではありません。私たちはいつも、常に神に支えられてきました。そして、これからも神の支えなしに生きることはできません。
「主よ。私のたましいは、あなたを仰いでいます。」私たちは、実は神を仰ぎ見てそのように祈ることができれば問題のほとんどは解決するのです。
ダビデはこのように祈りながら、こう口にします。2節です。
わが神。私はあなたに信頼します。どうか私が恥を見ないようにしてください。私の敵が私に勝ち誇らないようにしてください。
神を信頼して歩んでいる私が、みじめな生き方をするようであれば、敵は、「ほら見たことか、あいつは神に信頼していると言っているが、あいつを見て見ろ、どこに神の祝福があるのか」と言うでしょう。私が恥をかくということは、主よ、あなたがさげすまれることになるのです。そう、訴えて祈ります。ダビデは信じているのです。
まことに、あなたを待ち望む者は、誰も恥をみません。ゆえもなく裏切る者は恥を見ます。
3節です。
ダビデはその人生の中でたびたび裏切りを経験することがあります。第一サムエル記の23章にケイラという町が出て来ます。ダビデはこの時、サウル王に命を狙われて逃げまどっていた時期です。その時に、イスラエルのケイラという町がペリシテ人に襲われているという話を耳にします。同族の町ですから、行って助けたいと思うのですが、目立つ行動をすればサウル王に見つけられてしまいます。ダビデは悩みます。そして、ダビデと一緒にいた祭司に神の御心を尋ねさせます。すると、「さあ、ケイラに下っていけ。わたしがペリシテ人をあなたの手に渡すから」という主の言葉を頂きます。そして、主の言葉通りに、ケイラの町をペリシテ人の手から救い出すのです。
ところが、問題はその後で起こります。ダビデはもう一度、主に伺いをたてます。「ケイラの人々は私のことをサウル王に告げて、私を引き渡そうとするでしょうか?」と。そのように主に尋ねると、主は「ケイラの人々はサウルに引き渡すだろう」と主から教えられるのです。自分たちの手で、ケイラの人々を助け出してあげたのに、ケイラの人々はダビデを裏切ってしまう。それは、ダビデにとってとても悲しい経験であったに違いありません。もちろん、この詩篇はこの時の出来事が背景であったかどうは分かりません。しかし、ダビデの生涯の中で何度も起こる裏切りの最初の出来事となりました。
ダビデはここで祈ります。4節。
主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください。あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。
ダビデは自分の歩むべき道を実際に何度も何度も主に問い、そして、主に教えられて歩んできました。この経験が、ダビデを支えてきたのです。自分がしたいことをではなく、主よ、あなたの道を教えてください。このように祈るときに、私たちは主の守りを経験します。しかし、それは、実際にはどういうことなのだろうかということになると思います。
人生の中で大切な決定をしなければならない時、ダビデのように身近に祭司がいて、祭司がお伺いを立ててくれて、直接に主の御声を聞くことができるなら、私たちもそれほど失敗しなくてすむでしょう。しかし、私たちには直接神の御声を聞く方法は、聖書しかありません。けれども、聖書を読んでも分からないし、牧師に相談しても、あまりぱっとした答えが返ってこないし。そうこうしているうちに決断の期日が迫ってしまって、結局は良く分からないままに決断するということばかりを経験するのかもしれません。
これは、時折、祈祷会でもそういう話になるのですが、どうすれば神の御心が分かるのかということです。ここで、気をつけてこの箇所を見て見ると、ダビデはこう言っています。「あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください」とあります。ダビデはここで、自分がどうしたいかということを神の前に明け渡しています。私たちは多くの場合、自分としてはこうなったらいいなということをはじめに決めてしまっていて、何とか、その願いをかなえてほしいという時に、神に御心を求めるとするならば、もうそれは自分で答えを出してしまっているのです。あるいは、時々、先輩のクリスチャンのアドヴァイスとして、「自分が願っていることの反対をするといい。そうしたら、きっと神様が導いてくださる」などいう話を聞く時があります。そうすると、余計自分の心は複雑になってしまって平安がなくなってしまうなどということになるのかもしれません。
宗教改革者ルターの言葉にこういう言葉があります。
御国は、あなたがたの敵たちのただ中にあるものである。だから、そのことを認めようとしないものは、キリストの御国の者となることを望まず、友人たちのただ中にいようとし、バラやユリのなかに座っていようとし、悪人たちとでなくて、敬虔な人たちと一緒にいようとする。おお、君たち、神を汚す者、またキリストを裏切る者よ。万一キリストが、君たちのしているようなことをなさったら、一体誰が、救われたであろうか。
私はこのルターの言葉を初めて知った時に、衝撃を受けました。神の御国は敵たちの中にある。キリストがなされたのは、敵の中に身を置くことであった。そして、それゆえに、私たちは救い出されたということに、改めて気づかされました。自分が願っていないことを受け入れるということは、主イエスご自身の場合でも葛藤がありました。けれども、神の真理のうちに生きることを主イエスご自身も選び取られたのです。
きっと、ダビデはケイラの町を救い出したときに、心のどこかでこう考えたと思います。やっと、この町の人たちを助けたのだから、ここでようやくサウルから逃げ回らないで、安心して眠ることができる。そのために、主はこの戦いを勝たせてくださったに違いないと。しかし、主はこのケイラの町にダビデが留まることをおゆるしにはなりませんでした。「神よ。どうして!」と言いたかったに違いないのです。けれども、ダビデは主の言葉を求め、主の意思に身をゆだねました。そして、どんなに厳しい道であったとしても、主が共にいてくださるならば大丈夫だという事をダビデに経験させられたのです。
9節にこう記されています。
主は貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自分の道を教えられる。
最初にバルラハの乞食という作品の話をしました。まさに、主は、主により頼むしかない貧しい者に、ご自分の道を教えられるのだとここで語っています。「私は乞食である。それは確かなことである」。そういうほかない者、何も持たない者として主の前に出る時に、主は道を示してくださるのです。なお、しばらくは険しい道を歩むことになるのかもしれません。しかし、それを通して、主は主の守りと平安の確かさを私たちに告げ知らせてくださるのです。
実は、この詩篇は前半部分の内容と、後半部分の内容がシンメトリーと言いますが、対象になるように書かれている詩篇です。1節から3節までのカギの言葉として書かれている「わたしのたましい」とか、「恥をみないように」とか、「待ち望む」や「敵」という言葉が、最後にも繰り返されています。そうやって、鏡を合わせたようにしていくと、その中心の言葉が明らかになってきます。それが、11節の言葉です。「主よ。御名のために。私の咎をお赦しください。大きな咎を。」とあります。具体的にダビデが何を犯してしまったのか、この詩篇からだけは分かりません。ただ、内容をずっと見て、分かるのは、この祈り手は、自分の身が今なお敵に囲まれているのは、私に咎があるからだと感じているということは分かります。
私たちの主は恵みによって私たちを赦してくださるということが教会の中ではっきりと語られるようになったのは、宗教改革が起こってからのことです。それまでは、この詩篇をどのように読んできたのだろうかと興味をもって、アウグスティヌスの詩篇の注解といわれる本を見てみました。このアウグスティヌスというは、紀元382年にミラノで回心してから故郷北アフリカのヒッポで司教になった教会教父と言われる人です。「教父」というのは「教えの父」と書きます。カトリックの教会でもプロテスタントの教会でも幅広く愛されて来た古代教父の一人です。このアウグスティヌスはこの11節のところで、「わが主の血のそれほど大きな代価が、わたしの解放の完成に有効であってください。この人生の諸々の危険の中で、あなたの憐れみがわたしを見捨てないでください」と書いています。
もうここは解説の言葉ではなくて、祈りになっています。キリストの憐れみが、主の恵みと慈しみが、私の罪からの解放に完全に有効でありますようにと祈っているのです。
今、私たちは主の恵みがどれほど確かなもので、主の慈しみがどれほど深いかを知っています。主イエス・キリストの贖いの御業を通して知ることができるようにされたのです。それは、このアウグスティヌスやルターという信仰の先輩がいてくれたがゆえです。
この11節の前後には「恵み」「慈しみ」「憐れみ」という言葉が何度も何度も繰り返されています。貧しい者が、主の道を歩もうとするときにどうしても必要なものがあります。それが、ここで何度も繰り返される「慈しみ、恵み、憐れみ」という神ご自身の性質を表す言葉です。私たちはここでダビデが祈っているように、私は貧しい者であると自覚する時に、ただ、神ご自身に寄り頼む以外に何もすることはできないのです。
そして、私たちはこの神の御性質を、主イエスの生涯を通してはっきりと知ることができます。主は私たちのために、ご自分のすべてを御捨てになられて、クリスマスにお生まれくださり、三年の伝道の生涯を通して、神の御心に真実に生きる事は、まさに敵のただ中で生きる事であり、そして、十字架と復活の御業を通して、神ご自身が完全に私たちへの愛を貫き通してくださったことを知ることができるのです。
「恵み深い主」、「慈しみ深い主」、「憐れみ深い主」に私たち自身をゆだねていくときに、私たちは、主の備えてくださる確かな道を歩んでいくことができるのです。それは、毎日びくびくしながら生きることから解放されて、まったく安心して生きることのできる道です。主イエスがそのように生きられたがゆえに、私たちもまた、その生き方が確かな生き方であることが分かるのです。
私たちは何もできないような、何も決断できないと思えるような、弱い者、貧しい者であったとしても、主を仰ぎ見る者は、主の救いを受けるのです。
お祈りをいたします。