・説教 マタイの福音書2章1-12節「クリスマスの贈り物」
2016.12.25
鴨下 直樹
クリスマスおめでとうございます!今日はクリスマスです。主イエスのお誕生をお祝いする日です。今朝は、この礼拝に何人かの子供たちも一緒に集っています。私が想像するに、子どもたちの何人かは、きっと今、心ここにあらずだと思うのです。今朝、クリスマスのプレゼントを頂いて、頭の中はそのことでいっぱいになっていると思うのです。プレゼントを頂くというのはとても嬉しいものです。
クリスマスに、私たちは互いにプレゼントを贈り合います。プレゼントを贈るときには相手に何が喜ばれるかをまず考える事でしょう。そのこと自体がまず愛のなせる業と言ってもいいかもしれません。子どもを喜ばせたい。プレゼントを贈る人に喜んでほしい。それは、あわただしい毎日の中に彩りを添えることになるのです。自分自身にも、そしてプレゼントを贈る相手にもです。だからきっと、このクリスマスの季節に、たとえ出費がかさむとしても、みな喜んでプレゼントを贈り合うのでしょう。
その人が欲しいものを考える。相手が喜ぶことを考える。その時に必要なのは想像力です。かつて、ある哲学者が「愛することは想像力を持つことである」と言いました。相手のために何が必要か考える。私たちの贈り合うクリスマスのプレゼントにはそうした愛が詰まっているわけです。
クリスマスの贈り物。聖書に記されているのは東方の博士たちがクリスマスにお生まれになられた御子イエスに贈った贈り物です。この博士たちは東の国で、新しい王が生まれたという星を見つけて、お祝いに駆けつけたのです。はじめに当時ローマ帝国のもとガリラヤ地方の領主であったヘロデ王を訪れます。
このヘロデは大きな建築物を造らせて、エルサレムの神殿も再建しているまさに「大王」として知られた王でした。ですから博士たちは、そのヘロデ大王に贈っても恥ずかしくないものとして「贈り物」を準備したはずです。ところが、ヘロデ大王はユダヤに新しい王が生まれたという事実を知りませんでした。ヘロデは文献を調べさせると旧約聖書ミカ書5章2節の言葉を発見します。それが、この6節に記されています。「ベツレヘムからイスラエルを治める支配者がでる」。博士たちはその知らせを聞いて、ベツレヘムを訪ねるのです。
こうして、東方の博士たちはクリスマスにお生まれになられた幼子を訪ね、プレゼントを贈ります。この時、博士たちが送った贈り物が「黄金、乳香、没薬」であったと記されています。「黄金」は説明する必要もないと思います。非常に高価で、貨幣として使われていました。「乳香」は木からとれる樹脂です。火をつけると良い香りがするので香として使われていましたが薬として使われることもあったようです。今でも漢方の薬局で購入できるんだそうで、その際は「オリバナム」と言います。抗菌作用があり、炎症を抑える薬としても使われますが、以前テレビで見たことがありますが、高価なものは透き通った乳白色で今でも非常に高価なのだそうです。そして、もう一つは「没薬」です。葬りの際、抗菌作用が高いためにミイラなどにするための防腐剤として使われていました。この没薬も効果は実は乳香と似ていて、痛み止めや炎症止めにも使われたそうで。「ミルラ」と呼ばれています。
色々な説明によると、この「乳香」とか「没薬」という薬は博士たちの商売道具であったのではないかと言われています。自分の持っているもので、人に贈るのに相応しいものをプレゼントとして贈ったというのです。それもまた、一つの贈り物を贈るときの気持ちの表し方だと思います。
みなさんも、子どもの頃にそれこそ、父の日だとか、母の日などにプレゼントとして「肩たたき券」とか「お手伝い券」とかそういうものを作ってプレゼントした経験があるかもしれません。子どもなりに何とか、相手に喜んでもらいながら、自分の気持ちを表したいと考える、そこには子どもなりの愛があります。自分の相手に対する気持ちを表す。それが、クリスマスに示されたプレゼントの意味です。
少し、ここまではプレゼントを贈るという立場で考えてみました。今度は少し、プレゼントをもらう立場で考えてみたいと思います。私たちが本当にもらうと嬉しいものって何かということです。
もちろん、今欲しいもの、必要としているものを貰う時に、ああ、この人は分かってくれているという、その人の愛を感じる時、私たちは本当に嬉しい気持ちになるのだと思います。毎日、いろんな苦労や悩みを抱えているときに、自分のことを配慮してくれる人がいる。プレゼントというのは、そういう私たちの心を支えるものともなるのだと思います。ただ、どこかで、私たちはプレゼントではどうにもならないさまざまな思いや悩みを抱えているのも事実です。
私たちは毎日、いろんなことで思い悩んでいます。心配事を抱えています。これからどうなるのかという不安感は、私たちが生まれた時から、最後の時までついて回る心配事です。そういう心配事というのは、実に尽きることがありません。子どもにはこどもなりの心配があります。大人には大人なりの心配があり、その年々に応じて心配事はついて回ります。子どもが生まれれば、子育てがちゃんとできるのか。子どもがちゃんと育ってくれるかが心配になります。少し大きくなると、性格は大丈夫か、社会に適応できるのか心配になります。年をとると、これで老後やっていけるかと心配になります。本当は、そういうすべての心配事の解決が与えられれば、それほどうれしいことはないのですが、そんなものは求めることはできないことをだれもが知っています。だから、そんな心配事の毎日の連続に少しでも彩りがあればと贈り物を贈り合うのかもしれません。
もし、神が、私たちに贈り物を下さるのであるのとすれば、そんな根本的な悩みの解決であるとすればそれは何とすばらしいことでしょうか。それで、私たちはそういった心配事を祈りという形で言い表してきました。「家内安全、無病息災、交通安全、商売繁盛、学業成就」。私たちはそういう人生の問題をそういう言葉で言い表しながら、祈り求めてきたのです。そして、そういったものは祈りこそせよ、そんなに簡単に得られるものではないことも経験的に知っているわけです。
クリスマスの贈り物、それは神が私たち、人間に与えてくださった贈り物のことをいいます。そして、それは、クリスマスにお生まれになられた神の御子、イエス・キリストが私たちに与えられた神からの贈り物であるとして、世界中でこの日をお祝いします。この神、ご自身であられるイエス・キリストが神からの私たちへの贈り物ということ自体、私たちの想像を超えています。しかし、神の想像力は実にたくましいのです。神は、人間を愛して、その愛をイエス・キリストという形でお示しくださったのです。
それは、人間はどのようによりよく生きることが出来るのかを、全部見せてあげようという神の思い付きでした。それには、実際に赤ちゃんからやってみせるのが一番分かりやすいと神は考えられたのです。だから、このイエス・キリストを知ることによって、神は私たちの人生の問題の解決が見えるようになるということ願って、神の御子をお贈りくださったのです。
子どもとして生きるとはどういうことなのか。成人するということはどういうことなのか。生きるという事はどういうことなのか。神はイエス・キリストを通してすべて人に見せてくださいました。健康の問題、お金の問題、将来の心配、自分自身の性格の問題、生きがいの問題、死への向かい方、すべて神はイエス・キリストを通してどうすればよいのかを全部教えてくださったのです。
人生の神髄といえる生きるために必要なすべての答えを、神はイエス・キリストを私たちにプレゼントとして与えてくださることによって、その答えを教えてくださったのです。それを簡単に、短いことばで言い表すことこうなります。「神が、あなたを支えるから何があっても大丈夫だ。だから、勇気をもって生きなさい」ということです。子育ての問題も、家族の問題も、嫁姑の問題も、職場での人間関係も、病気の不安な、将来への不安も、なにもかも、あなたが、安心して生きることができるために、神は、私たちの生きる支えとなるために、イエス・キリストを与えてくださったのです。これこそが、神からのクリスマスプレゼントの中身です。そして、それこそが、私たちに必要な安心感のすべてです。是非、このクリスマスプレゼントを頂いてください。そして、このクリスマスの贈り物である主イエス・キリストと共に生きてください。その時、私たちは毎日、何が起ころうとも、安心して、勇気をもって生きることができるのです。
神は、このクリスマスに私たちに最も必要なものを与えてくださいました。だから、この日、世界中でクリスマスを喜ぶのです。一緒にお祝いするのです。私たちの生きる喜びを取り戻すことができたと、今日は共に喜ぶ日なのです。
お祈りをいたします。