・説教 詩篇32篇「主に罪を覆われた人の幸い」
2017.03.12
鴨下 直樹
聖書は「幸い」を語ります。この幸いというのは、神が与えてくださる祝福と言い換えることができます。神が祝福してくださる生活は、まさに私たちにとって幸いそのものです。そして、この詩篇はそのような幸いは、主の御前に罪の告白をすることによってもたらされることを語っています。
幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、その咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。
と1節と2節にあります。
ここに三つの単語がでてきます。「そむき」と、「罪」と、「咎」という言葉です。そむきというのは、神に対する反逆です。罪は目的からずれてしまうことです。咎というのは犯してしまった行為をさします。そういった、人の罪の性質をあらゆる角度で捕えながら、そういう人の弱い性質そのものを、神が悪いことだとみなされない人は、まさに幸せに生きることが出来る人の生活だと言い表しています。
こういう言葉を、説明してもあまり具体的に考えにくいのではないかと思います。私は、時々、詩篇を読む時に、よく理解できる手助けとして、少し置き換えて読んでみることがあります。たとえば、この詩篇は、前半部分は神へのいのりですが、自分の子どもが、自分に向かって、謝っている状況を想像しながら読み直してみることがあります。
自分の子どもが親に対してわがままにふるまってしまう。あるいは、親との約束をやぶってしまう。つい遊ぶことに夢中になって大事なものを壊してしまう。そういう時に、なんとなく気まずい思いでいるのだけれども、勇気をもって謝ってくる。それに対して、その子どもの過ちや、失敗をゆるして、子どもを抱きしめてやる。そうすると、子どもが、親に向かって、わたしは本当に幸せだとうったえてくる。そういう場面を少し想像してみるのです。そうすると、子どもの気持ちもある程度想像できますし、父親の気持ちも理解できます。この詩篇はそういうことが書かれている詩篇なのだというのが、祈り手と神との関係で、具体的にイメージすることができます。
特に、この詩篇でとても強い印象を与える言葉は3節と4節でしょう。
私は黙っていた時には、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。
これはもちろん、この祈り手が神の御前に悔い改めの祈りができないでいる状態を表した言葉です。けれども、ただ、悔い改めができないということではなかったと思います。人には、色々な生活の場面がありますが、あまりにも悲しい出来事に見舞われてしまったがために、神に祈ることができなくて、けれどもそのことを自分でも受け止められなくて、「一日中うめいて、骨々が疲れ果てる」という思いになることもあるのだと思います。
今、祈祷会で、前もってこの箇所を一緒に読みながら、分かち合う時間をもっています。それは、本当に豊かな時間になっています。その中である方が、この箇所との出会いのことを話してくださいました。ご自分の義理の妹さんが病のために無気力になっていた時のことです。だれとも話したくないというなかで、Sさんの奥様のSKさんとなら話してもいいと言われたのだそうです。今から20年も前のことだそうです。このSKさんは、自分が白血病になっておられました。今Sさんは教会で役員をしてくださっていますが、当時は教会にも来ていませんでした。そういうなかで、ご自分が大変重い病にかかってしまって、これから将来がどうなるかという大きな不安を抱えていた時です。そのSKさんが、気力を失っていた義理の妹さんに、この詩篇の言葉を朗読したのだそうです。そのことが、忘れられないでいた、とのことでした。
決して、この4節と5節の言葉は慰めの言葉ではありません。むしろ、誰にも話すことのできないような自分の内面にある言葉です。けれども、おそらくこのSKさんは、この詩篇の言葉に慰められていたのです。誰にも自分の心のうちを打ち明けることができない。ただ、一日中うめいているしかできないような時がある。まるで、神の罰でも受けているかのように、神の御手が重くのしかかっているように思える。そういう言葉にできない苦しみがある。そして、それを神は知っていてくださる。
その時、ただこの聖書を読まれただけで、特に他には何も言われなかったのだそうです。この詩篇の言葉を信じて、ただこの言葉を自分の言葉として語りかけたのです。
「セラ」とこの後に短い言葉があります。ここで立ち止まってしばし考えてみるように、促す言葉です。私たちは、神に向かって祈るときに、その祈りが神にどのように聞き届けられているのか、時折静まって考えてみたらよいのだと思います。
さて、5節にこう記されています。
私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。
ここに、冒頭にでてきた、「罪」「咎」、「そむき」という言葉がもう一度繰り返されています。そして、この罪を主の前に告白しようと決意したことが記されています。
罪を告白するということは、時にとても厳しい思いにさせられます。先日の祈祷会で、ある方がこんな話をしてくださいました。夫と喧嘩をしてしまったというのです。自分は、一生懸命自分の悪い所を改めようと努力しているのに、夫は何も気が付かないままで、全く変わるそぶりも見せない。そして、とうとう、ある時我慢の限界がきて、怒りを爆発させてしまったというのです。けれども、それは良くないことだと気づいて、自分の方から、私が悪かったと謝ったというのです。謝りながら、心の中で悔しくて、悔しくて仕方がなかったと言われました。どうして私の方が謝らなければならないのだろうと思いながら、自分はクリスチャンになったのだからと考えていたのだそうです。すると、その時に、夫が、少しふんぞり返りながら、「俺も少しは悪かった」と言ったのだそうです。
私はこの会話のやり取りを聞きながら、きっとこれは、私たちの毎日の生活の一場面だと思いながら聞きました。誰もが、毎日そこで戦っているのだと思います。どこかで、自分はクリスチャンになったのだから、相手を愛そう、受け入れようと思いながら、でも心のどこかで、完全に納得できない気持ちとも戦っている。
「ごめんなさい」と謝ることは、時に自分をみじめな思いにします。自分の非を認める時に、私たちはどこかで、自分の大切なものを削り取っているかのような気持ちになります。人に謝るときというのは、そういう思いが付きまといました。そして、目に見えない神へとなると、自分の罪が神に対して申し訳のないことをしているという実感がなければ、なかなか、神に謝ろうという気持ちが起こらないのだと思うのです。
この詩篇は、七つの悔い改めの詩篇の一つです。この詩篇は悔い改めとは何かということを私たちに問いかける詩篇です。最初に言ったように、人との約束をつい破ってしまう。相手のことを悪く言ってしまう。大事なものを壊してしまう。親に対してついそうしてしまうことがあるように、私たちは神に対してもそうしてしまうことがあるのです。
私たちがその人との関係を前に進めようとするならば、苦しくても謝らなくてはなりません。それは、心がついてこないような厳しい決断であることもあるでしょう。けれども、もし謝るならば、その関係は断ち切られることなく、前に進んで行くのです。神であろうと、隣人であろうと。そこで、頑なになって、謝ることをやめてしまうならば、その関係はそこで止まったままになってしまうのです。
だから、苦しいのです。重いのです。先ほど、私は自分が謝るときに、自分の大事なものを削っているような気持になると言いました。確かに、私たちは何かを失うのです。自分の誇りであったり、自分が大事にしてきたものを、自分の非を認める時に、それは失われていって、自分がどんどん削り取られて、小さくなっていくのです。
けれども、是非、知って欲しいのです。愛するということは、自分を削ると言うことなのだと。
この受難節に、私たちが主イエスの姿を見つめるのは、そのような主イエスのお姿です。主イエスは、自らを捨てて、削って、削って、その命まで削ってしまわれることによって、愛することを教えてくださいました。これが、神のご計画なのです。神は、人のために自らを犠牲にして、その人を愛することを通して、この世界に神の愛の世界を築き上げられるのです。
私たちが人に謝るとき、そこに小さなキリストがいてくださいます。人知れず涙を流す時、その傍らに、主イエスがいてくださいます。その主は言われるのです。そうだ、それこそが、私がしようとしたことなのだと。主イエスは、私たちに愛に生きる道を示し、いつも私たちに教えてくださるのです。
8節と9節は突然、内容が変わります。「わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう」と8節の冒頭にあります。
ここで主語が入れ替わっています。まさに、主イエスは受難節の姿を通して、私たちに神の愛を知ることができるように、この詩篇は幸いを、神の祝福を私たちに教えてくれます。それは、ここに書かれているとおり、主が私たちに行くべき道を教えてくださるのです。
9節に面白い譬がかかれています。馬や騾馬に主人の言うことを聞かせるためにはくつわと手綱が必要です。以前、犬を飼っていたのですが、あまりにも飼い主の言うことを聞かない犬のしつけの方法としてマズルコントロールという方法があることを知りました。犬の口の部分をおおってしまうくつわを着けて言うことを聞かせる方法です。たぶん、犬も馬も同じだと思うのですが、そうやって、くつわをつけることで、人の意思に従わせることができるわけです。
けれども、神さまは、犬や馬を縛り付けて言うことをきかせるように、私たちを強制的に従わせようとは思わないと言われるのです。たとえ、どれほど悩んでも、黙ったまま一日中うめいて疲れ果てるようなことがあったとしても、自分から神に聞き従って欲しい、苦しくても主に向かって祈りをささげ、罪を告白して、主と共に前に進んでほしいと願っておられるというのです。
主に赦されて、主に罪を覆い隠していただいて、たとえ失敗したとしても主の御前に出る者は幸せに生きることができるのです。なぜなら、主ご自身がそう望んでいてくださるからです。パウロはこの詩篇をローマ人への手紙の4章で引用しました。そこにはアブラハムのことが書かれていて、アブラハムは行いによって義と認められたわけではないということが書かれています。神は、律法というくつわと手綱で、人を従わせたいわけではないのです。このローマ人への手紙4章24節と25節にはこう書かれています。
私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。
主イエス・キリストの十字架と復活は私たちが神の愛の心を知って、まさに神の与えようとしていてくださる祝福を私たちが受け取ることができるためでした。そして、そのことを信じるなら、主なる神は、私たちに神の祝福である幸いを味わうことができるようにしてくださるのです。
今日の説教題は「主に罪を覆われた人の幸い」としました。このパウロの「義と認める」というのは、まさに、罪はそこにあるけれども、それでも、神が義であるとみなしてくださるということです。これは、この詩篇32篇の1節にある「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪を覆われた人は」という言葉が語っていることと同じです。罪を覆うということは、まだそこに罪の事実は残っても、それを問わないで赦してくださるということです。
この主イエスを信じて、この主とこれからもかかわりを持って、神と共に歩みたいと願うならば、私たちはこの主の御前に自らの罪を認めて告白するのです。そして、この主の祝福のうちに生きる道を選びとっていくのです。
お祈りをいたします。