・説教 詩篇38篇「私を懲らしめないでください」
2017.03.19
鴨下 直樹
みなさんは「私は主に愛されている」と感じる時があるでしょうか。あるいは、その反対に、「私は主に懲らしめられている」と感じてしまうこともあるかもしれません。もちろん、私たちの生活は常にこの二つを繰り返しているわけではないでしょう。そのどちらも感じないで過ごす日常もまた多いと思います。
けれども、「私は主に愛されている」と思うことのできる時というのは、物事がうまくいっていることが多いのは言うまでもありません。そして、懲らしめられていると感じる時というのは、物事がうまくいかなかった時や、計画していることが進まなかったり、予想外の出来事で苦しむ時なのではないかと思います。
今日の詩篇はダビデの詩篇です。しかも七つの悔い改めの詩篇の一つです。この詩篇は、伝統的にも、このレント、受難節の時に読まれます。ここでは重たい言葉が連なっています。少し驚くのは、冒頭の表題で「記念のためのダビデの讃歌」と記されていることでしょう。私たちは「記念」というのは、何か良いことを忘れないためにすることと考えますから、この詩篇の内容を考えると、あまりいつまでも覚えておきたいような内容だとは、感じにくいのです。むしろ、「忘れないために」としたほうがしっくりするかもしれません。まして、「讃歌」と書かれていますから、一層不思議な響きがするのです。「讃歌」というのも、「神を褒めたたえる歌」とすぐに頭の中で、意味を切り替えてしまいますから、この内容が果たして「讃歌」と言えるのだろうかという疑問も出てきます。そういう意味では、この詩篇は「讃歌」というにはほど遠く、それほどに重い悲しみを歌った詩篇です。けれども、それもまた「讃歌」であるということを、私たちは心にとめる必要があるのだということです。
さて、この詩篇の内容はとてもシンプルです。冒頭の1節と、最後の21節と22節は直接的な神への訴えの言葉です。その間に三つのテーマが記されています。第一に記されているのは、神の御怒りによって、重い病に冒されたという嘆きです。それが2節から8節までです。第二は、周りの者が自分を離れてしまい、孤独であるという訴えです。それが9節から16節です。そして最後が罪と痛みからの不安で、それが、17節から20節です。
先日の祈祷会で、ある方がヨブ記を読んでいるかのようだと言われた方がありますが、ヨブ記のテーマにとても似ていると言っていいと思います。
私は、この箇所を説教するために、一冊の本を読みました。ルドルフ・ボーレンの『天水桶の深みにて』という本です。サブタイトルは「心病む者と共に生きて」と記されています。このボーレン先生は、私が説教の学びをさせていただいている加藤常昭先生と共にドイツのハイデルベルク神学大学で、説教学を教えておられた先生です。私も今から20年ほどまえ、ボーレン先生が一度日本に来られた時に、講演を聞いたことがあります。白い髭を蓄えておられて、律法の先生のラビのようだという印象を持っています。
この本がどんな本か簡単に説明したいと思います。ボーレン先生がある神学会議に奥様とともに行かれた時のことです。この時の講演で、ボーレン先生はだいぶ強い発言をされたのだそうです。それで、この会議で、他の神学者たちが非常に激しくボーレン先生を非難するのを奥様は目の当たりにします。それで、奥様は、翌日から眠れなくなってしまい、そのために奥様が心病んでしまうという経験をします。そして15年、奥様の心の病と向かい合いながら、ついに、自分の妻を自死で失ってしまいます。
牧師として、そして、心病む人々とこれまで多くの人と関わってきて、それなりに「ゼールゾルガー」といいますけれども、「魂の助け手」として働いてきたことが何であったのかということを突き付けられます。そんな中で、心病む人とどのように歩むことが出来るのか、何か助けとなることはないのか、そのことがこの本に書かれているのです。
こういう話をし始めますと、説教ではなくて、本の紹介になってしまいますから気をつけないといけないのですが、とても厳しい歩みであったということが良く分かります。
もちろん、ボーレン先生の奥様は何か自ら犯した罪のために病を負ったということではありません。ただ、ここでこんなことを書いておられます。抑圧を受けて苦しめられた者が、周りにいる者を巻き込んでいってしまって、周りにいる人も、抑圧を受けてしまうことになると。こうして、悲しみは、周りへと広がっていってしまうというのです。そういうなかで、どのように神から慰めを見出すことができるのか。そのことを書いておられます。
この詩篇の著者はダビデであると記されています。この詩篇は、ダビデの罪が問題の原因となっています。ダビデの詩篇で、そして、テーマが悔い改めとなると、すぐに思い起こされるのはバテ・シェバ事件です。第二サムエル記11章に出てまいります。イスラエルの全軍が戦いに出ている時に、ダビデは王宮に留まっていました。そして、ある日、一人の女が水浴びをしているのを王宮から見てしまいます。これがバテ・シェバでした。ダビデはバテ・シェバを召し入れてしまい、やがて子どもができたことを知らされます。ダビデはこのことを隠そうとして、バテ・シェバの夫ウリヤを戦場の一番激しい所へ送り出して、殺してしまいます。そうやって、バテ・シェバを自分の妻に迎え入れます。その出来事を、預言者ナタンに咎められて、ダビデが悔い改めるという出来事です。
この詩篇の冒頭にこう書かれています。
主よ。あなたの大きな怒りで、私を責めないでください。あなたの激しい憤りで、私を懲らしめないでください。
1節です。ダビデはここで、自分は神に懲らしめられていると感じています。
あなたの矢が私の中に突き刺さり、あなたの手が私の上に激しく下って来ました。
と続く2節にあります。
ダビデの場合は、自分が犯してしまった過ちのために、自分は苦しめられていると感じています。ですから、ボーレン先生の場合と同じように語ることは難しいと思いますけれども、いつも、罪が原因とは言えなくても、私たちが苦しむ時に、どのように神の御前に出ることができるのかということは、私たち自身も心にとめる必要があります。
ボーレン先生の本では、このことをとても興味深く考察しています。パウロの第二コリント7章10節を引用しながら、このことについて考え始めるわけです。ここには「神の御心にそった悲しみ」というのと、「この世の悲しみ」というのがあるということが書かれています。パウロはここで神の御心に添った悲しみは、救いに至る悔い改めを生じさせるが、世の悲しみは死をもたらすと書いているのです。2種類の悲しみというのがあって、神の御心にかなう悲しみというのは、そこには悔い改めが伴うというのです。
悲しみの原因はすべて罪から来ると単純に語ることは気をつける必要があります。けれども、ここで考えさせられるのは、悲しみの本当の理由はと考えると、やはりそこに神を見出すときに、必ず解決があるということは、言えるわけです。
この詩篇38篇を見て見ると、ダビデの激しいまでの自己嫌悪の姿が記されています。
あなたの憤りのため、私の肉には完全なところがなく、私は罪のため、私の骨には健全なところがありません。
この3節から8節までの言葉は、ダビデの呻きなのです。自分にはいい所なんて一つもない。二番目の部分は、そのために愛する者や友も、自分から離れていってしまったと記しています。そして、みなが、自分に対して敵意をむき出しにしてくるのだと嘆いています。
この詩篇がダビデのバテ・シェバの出来事が背景になっているかは直接にかかれていなので、はっきりしませんが、一国の代表が、そのような女性問題のスキャンダルを明らかにされたら、身内の者も去って行くのはある意味では当たり前のことです。国民の支持も失い、その先にあるのは、落ちぶれた人生と、相場は決っています。それほどに、ここでダビデが目の当たりにしているのは、抜け出すことの出来ないような、絶望的な状況で、その原因は自分の罪にあるということです。世間はこのような問題に対して寛容ではありません。
けれども、神はどうであるのか。もうどこにも問題の解決など見出し得ないような状況で、神は何を求めておられるというのでしょうか。
象徴的な言葉が20節に記されています。
善に変えて、悪を報いる者どもは、私が善を追い求めるからといって、私をなじります。
善いことをしてやっても悪いことで返してくる人というのは、もはや、何が善いことなのか判断ができないほど、自分勝手になっている人ですが、そういう人が、ダビデに対して、あなたのような悪い人が善いことを求めるのかと、バカにする。お前が何をやっても、もはや神は見捨てるに違いないのだと言ってなじるのです。
周りの人から見れば、もうその人に未来はないかのように見えている。けれども、神はそう見てはおられない。ひいき目にみたってどうにもならないという状況の中で、神は人とはまるで違うことを考えておられるのです。
ダビデは祈ります。
私を見捨てないでください。主よ。わが神よ。私から遠く離れないでください。
絶望的な状況のもとでダビデに出来ることは一つだけです。それは、神に祈り求める事でした。神に対して罪を犯しているのに、神に助けを求める。かつて、デンマークの哲学者キェルケゴールは、「恥知らずの祈り」と言いました。これはとても神の前に誠実な祈りの姿勢だと思います。けれども、他の誰でもない神ご自身が、そのように祈ることを求めておられるのです。恥じることなく、神の御前で自らの罪を、主の慰めを求めて祈ることができるのです。
今年は、宗教改革500周年を覚える記念の年です。宗教改革者ルターは、この七つの悔い改めの祈りから説教することを大切にした人です。ルターはこのところからの説教で、とても興味深い説教を残しています。
「無から創造するのが神の本質です。それゆえ、神はまだ無になっていないものから何かをつくりだすことができません。一方、人々はあらゆるものを他のものへと変えますが、どれもむなしい働きです。
神は捨てられた者以外は受け入れられません。病気の者以外の健康を回復されません。目の見えない人以外の視力を回復されません。また死者にいのちを与えられません。神は、罪人以外にきよさを与えられません。愚か者以外に知恵を与えられません。一言で言えば、神はみじめな人以外にあわれみを与えず、恥のうちにある人以外に恵みを与えられないのです。」
ルターの説教には、福音の響きがにじみ出ています。絶望的な状況にいるならば、その人は幸いである。その人は神に慰められる。それは、神の懲らしめなのではなく、まさに、恵みなのだということです。ダビデはそのことを知っていたのです。どれほど孤独でも、誰も自分から去ってしまったとしても、重い病気に苦しんでいたとしても、神は私を見捨てられない。私から遠く離れてしまうことはない。ダビデはそう信じて祈ったのです。
私たちは、物事がうまくいっている時に、神に愛されていると感じ、物事がうまくいかないと、神から懲らしめられていると感じてしまいます。しかし、私たちの神は、そうではなくて、私たちがうまくいっていない時、自分がいやで自己嫌悪したくなるようなとき、そのような時こそ、神は近くにいてくださって、私たちに恵みを示してくださるのです。
けれども、問題は、私たちがそのことに気が付かなくなると言うことです。私たちが、神から懲らしめられていると感じる時に、どうやってもう一度神の方を見上げることができるようになるのか。私たちには、ダビデのように専属の預言者ナタンをもっているわけではありません。まして、牧師から事細かに指図されるのはごめんこうむりたいと考えるかもしれません。
ボーレン先生はこの時の治療薬として「カテキズム」があると書いています。カテキズムというのは、教理問答書のことです。ところが、私たちの教会はというと、このカテキズムというものがありません。代わりにあるのは、「信仰基準解説書」という小さな本です。カテキズムほどの内容ではありませんが、ここには信仰の基本が書かれています。こういうものを読むことによって、教理の言葉を聞くことによって、私たちは神からの大事な言葉を聞き取ることができるというのです。
それは、礼拝の説教とも言い換えることもできると思います。神の言葉は、いつも外から響いてくるのです。まさに、このルターの言葉のようにです。このような、教理を語る言葉、神の教えを説く言葉を聞くことを通して、私たちは自分の状態を正しく知り、正しく神の考えを知ることが出来る。その時に、私たちは、自分が神から捨てられているのではなくて、神から受け入れられていることに気づくことができるようになるのです。
神は病の者でなければ回復させることはできません。神は罪人でなければ赦すことはできません。そうすることを通して、私たちが神を仰ぎ見、神と共に生きることを願うようになるのです。このことこそが、神の願っておられることなのです。
お祈りをいたします。