2017 年 5 月 14 日

・説教 詩篇33篇「主にあって喜び歌え」

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2017.05.14

鴨下 直樹

 
 今日は復活節の第五主日「カンターテ」と呼ばれる主の日です。カンターテというのは、「歌え」という意味で、詩篇98篇1節の「新しい歌を主に歌え」という言葉から取られた主の日です。もうすでに詩篇98篇から説教しましたが、この詩篇33篇の3節にも同じ言葉が記されています。

 宗教改革者のルターはこの詩篇33篇3節からこんなことを言っています。「音楽は、神から与えられたもっとも美しくすばらしい贈り物のひとつです。サタンは音楽をきらいます。それは誘惑を追い払う大きな力をもっているからです」と。ルターは当時の教会と信仰の戦いをしていました。その中で自分の信仰が揺らぐような、悪魔の力を感じるようなことが何度となくあったのだと思います。そういうなかでルターは何度も音楽によって悪魔の誘惑を感じるところから助けられた経験があるのだと思います。ルターはさらにこんなことも言っています。「音楽は神学と並んで神の与えられた栄光の贈り物です。わたしはこの世のなにものをもってしても、この音楽という小さな贈り物と交換することをのぞみません」。音楽は、神学とならんで他に代えがきかないほど大切なものだというのです。神に向かって歌を歌うこと、神への賛美の音楽は、この世界に代わるものがないほど大切なものだとルターは言うのです。

正しい者たち。主にあって、喜び歌え。賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい。立琴をもって主に感謝せよ。十弦の琴をもって、ほめ歌を歌え。

 冒頭の1節と2節にこのように記されています。この短い言葉のなかですでに色々なことを考える人があるかもしれません。「正しい人たち」とか「賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい」というような言葉を見つけると、自分は正しくないからダメだとか、心が直ぐではないからダメだと考えてしまうかもしれません。とても大切なことですけれども、この詩篇は、神を褒めたたえるように招いているのであって、誰かを締め出そうとして語っているわけではありません。「正しい者たち」というのは、「礼拝に招かれている者たち」という招きです。「心が直ぐな人」も同じです。神の御前に立つ者よ、主に感謝し、ほめ歌を歌えと招いているのです。

 昨年のことですが、『聖書を伝える極意』という本が出されました。この本は今の日本を代表する説教者たちにインタビューをして、それぞれの牧師たちがどのように説教することを心がけているのか、どう考えているのかということが語られています。本当に、各教派を代表する素晴らしい説教者たちばかりの言葉ですから、読んでいてとても楽しいのですが、昨日は雨宮慧というカトリックの聖書学者の方の記事を読んでいました。この先生はカトリックの中ではとても珍しい説教者なのだそうで、その中でこんなことを言っておられます。「カトリック教会では以前から『こうしなさい』『ああしなさい』という説教が多かったのですが、それが私にはどうもだめで・・・。あるドイツの学者が『福音とは、我々が神のために何をするのかということについて知らせるのではなく、神が我々のために何をしたかという知らせだ』と言っていて、確かにそうだと」

 この雨宮先生が聞いたというドイツの学者の言葉というのは、ついつい私たちが忘れてしまいがちな指摘です。ここで「正しい者たち」とか、「心の直ぐな人」という言葉を聞いてすぐに、私はどうだろうか?と考えてしまうのもこれと同じで、自分が何をしなければならないかということにすぐに気がいってしまうのです。けれども、大切なことは、神が何をしてくださったのかという知らせこそが、福音なのです。

 この1,2節ですが、これは主をほめたたえよということを語っています。そこで、いろいろな動詞が使われていますが、たとえば2節の「十弦の琴をもって、ほめうたを歌え」の「歌え」という言葉は「ザーメルー」と言う言葉ですが、この言葉は「奏でなさい」という、楽器を使ってという意味の言葉です。「感謝せよ」という言葉は「ホドゥー」という言葉ですが、この言葉は「ほめたたえる」という意味で、「ハレルヤ」の「ハレル」というのと同じ意味の言葉です。1節の「賛美」という言葉は「テヒラー」といいますが、この言葉も「ほめたたえる」という意味です。ある聖書学者はこういう言葉の説明を丁寧にしながら、「神をほめたたえるということの中に、感謝の意味はない」と書いています。

 入門クラスで、お祈りの説明をするときに、まず神様を賛美して、その次に感謝して、そして、告白して、とりなしをして、最後に願い事を祈るんですよ、というようなことを話すことがあります。祈りの中の大切な五つの要素です。ところが、この賛美ということと、感謝ということの区別がなかなかはっきりしないように感じるのです。けれども、この詩篇33篇を見ていて分かるのは、賛美というのは、感謝をすることではなくて、神を褒めたたえることです。そして、そのあとの4節と5節で出て来る5つの言葉が賛美する、神をほめたたえるということがどういうことなのかを説明してくれます。ここでは「正しい」「真実」「正義」「公正」「恵み」という五つの名詞が出て来ます。この五つの単語はすべて神の性質を言い表す言葉です。つまり、神を褒めたたえるというのは、神ご自身のことを言い表すことなのです。

 お祈りをしていると、神さまにたくさん感謝したいことが出て来ます。衣食住が与えられていること、日ごとの守り、健康が支えられていること。そういうことを感謝するということが、神が何を私にしてくださったのかということを言い表すことですから、それをちゃんと口にすることで、神を賛美していることになると思います。けれども、それは、神をほめたたえていることにはなりません。自分に何をしてくれたかではなくて、神がどういうお方なのかを言い表すことが、賛美することなのです。

 私には5歳の娘がおります。娘を褒める時というのは、娘の性質について、ちゃんと口にしてあげる時です。「礼拝中静かにしていられたね」とか。まぁこれは多少の嫌味が入っているかもしれませんが、「大きな声で賛美していたね」とか、「たくさん食べたね」とか、娘を観察していて、その子の性質をきちんと認めてほめながら言い表すことです。これは、私たち人間同士でも同じだと思います。ちゃんと自分のことを認めてくれて、それを口にしてくれると、私たちは嬉しい気持ちになります。そのように、神のことをしっかり受け止めて、自分の口で主を告白する。神を歌で、演奏で、讃えるときに、神はその賛美をとても喜んで受け止めてくださるのです。

 さて、この詩篇の中心はどこにあるかというと、このあとの6節からです。この詩篇は、主が何をしてくださったのかということを明確にしているのですが、この詩篇の中心は4節の五つの言葉が添えられている「主の言葉」と「そのわざ」にあります。
 神の性質は、その言葉と業、働きによって知ることができるということがこの詩篇の中心的な内容です。そのはじめに、主はことばによって天を創造されたということが6節で語られています。8節は「地」に目を向けて、神の言葉は天と地を治めているということが語られています。しかも、とても興味深い書き方は7節です。

主は海の水をせきのように集め、深い水を倉に収められる。

とあります。この海の水というのは、集められるものです。深い水というのは「深淵」のことですが、これは集められないものです。本来は。私たちは、毎日自分の力で何とかできるものと、何ともできないものとの間で苦労しながら生きているわけです。それこそ、せっかく集めたつもりになっている水が、手からこぼれ落ちるのを目の当たりにしながら、それを何ともできないことに腹を立てたり、悲しみを覚えたりしながら、それでも何とか生きているわけです。けれども、私たちの主は、そのどちらも、手のひらにすくえるような水ではなくて、海の水さえもその手に収め、深淵の水さえも倉に収めることのできるお方だと言い表しています。その神のことばとその働きを9節でこう表現したのです。

まことに、主が仰せられると、そのようになり、主が命じられると、それは堅く立つ。

 ここに神のことばの性質が力強く宣言されているのです。神の言葉が語られるとそのようになる。これこそが、この詩篇のテーマです。そして、それゆえに、神を賛美せよ、神を褒めたたえよと語りかけているのです。「主が仰せられるとそのようになる」。これこそが、私たちの主、これこそが私たちが聞き続けている神のみ言葉なのです。そして、このような神の言葉は、私たちの出来ることをさらに豊かにし、自分の力ではできないことをも、神の手には収められているから安心しなさいと言うのです。
 主が「光あれ」と仰せられると、光ができます。その光は人のいのちだと語られる時、光はいのちの灯として私たちの心に灯され、この灯によって私たちは生きることができるのです。
 10節から12節はそのような、言葉に力ある主の計画がとこしえに立つのであって、人の力、たとえそれが王であったとしても、その王の計画は一時的にうまくいっているように見えても、それは虚しいのだというのです。確かに残るのは、神の語りかけられた神のことばと、その神のはたらきだけであり、これこそが、神の性質そのものなのです。

13節から15節はこのような言葉の主、働きに力ある主が、人に目を注いでいてくださるのだということが語られています。その中でも特に興味深いのは15節です。そこにはこう記されています。

主は、彼らの心をそれぞれみな造り、彼らのわざのすべてを読み取る方。

 人の心をお造りになられたのは、主ご自身であるとここに書き記されています。だから、主は人の心がお分かりになられるのだと言われているわけです。これは、神がそう言っているのではなくて、祈り手がそのように理解しているわけです。それは、まさに、神ご自身を知ろうと見つめ続けてきてたどり着いた一つの、この詩人の結論です。

 先日の祈祷会でこういう質問がありました。神様は人の心を造られて、人の心を知っておられるのだとすれば、その心がどうしてもなかなか良くならないことがお分かりのはずだと思うのだけれども、それで大丈夫なのかという質問です。似たような質問が沢山あると思います。神は祈る前からすべてをご存じなら祈らなくてもいいのではないかとか、神さまは私たちの心がきよくないことを知りながら何にも手を打たないのかとか、似たような質問はいくつも出てくると思います。それこそ人間は、キリスト教国と言えども戦争ばかりする罪人なのに、そこに神の救いがあると言えるのかということも含まれるかもしれません。

 もう今から何年も前に出された絵本というか、詩集といったらいいでしょうか。「かみさまへのてがみ」という本があります。アメリカの子どもたちが神様に宛てた手紙です。そこに可愛い挿絵をつけて、谷川俊太郎が訳して本になりました。そのなかにこういう祈りがあります。

「かみさま、どうせわたしの のぞみが わかってるんなら どうして おいのり しなけりゃならないの? でも あなたがきぶんいいなら わたしするわよ。 スー」

 小さな子どもから抱く疑問です。このスーという子の、「神さまが気分いいならするわよ」というのは、なかなかの答えだと思います。

 神が私たちの心を造られた。だから、私たちの心の中のことがお分かりになる。というこの詩人の理解もなかなかです。神学の言葉で全的堕落と言う言葉があります。すべてにおいて堕落しきっているという意味です。この世界のすべての「人は罪を犯したので神からの栄誉を受けることができない」というローマ3章23節のパウロの言葉は、まさにこのことを表しています。神が創造された世界から追い出された人間の生きているこの世界は真っ黒、完全に腐敗しきっています。そういう罪の世界、闇の世界に生きているわけですから、あの人よりも自分の方がましというような考えは、人間の気休めにすぎません。どんぐりの背比べです。そういう世界に生きている私たちの心も、真っ黒です。救いようにないほどの闇です。

 けれども、それでも、神はご自分が創造された人間を、もう真っ黒で完全に腐っているので、捨ててもかまわないとは思われませんでした。それで、この真っ黒な、闇の世界に、誰が見ても良く分かるように、神はご自身の言葉によって、光をお造りになる主は、この世の光としてこの地に遣わされました。それが、主イエス・キリストです。神の言葉が、まさに、この世界に光となって、いのちとなって示されたのです。それで、この真暗な闇の世の人は、この主イエスの光を見る時に、これはまるで違うということが分かるわけです。神がこの闇の人を見捨てないで、その中に光を灯したいとされていることが、この闇の世界の人間に分かるようになった。こうして、真っ黒な人の心の中に、神はイエス・キリストを通して、人に小さな、豆電球ほどの光を灯してくださいました。これが、私たち、キリスト者です。この今にも消えてしまいそうな小さな光を持ちながら、私たちは神を知り、神を賛美し、神に祈る。

 まだ、私の心の光が十分でないことなど、もちろん神は御存知です。けれども、神はそれでも、私たちが光を求めて生きようとするならそれを全力で支えようとして下さるのは当然のことです。なぜなら、神は愛だからです。神は、私たちの心を御存知です。そして、神の心を十分に受け取って、キリストのようにまだ光り輝くことが出来なかったとしても、私たちの愛の神、主は私たちを喜んで受け入れてくださると信じることができるのです。神は、私たちの心を創造し、知っていてくださいます。だから、私たちの造り主である主のもとに立ち返ることができるのです。

 だから、16節、17節で、こういうのです。人は力によって救われるのではないのだと。王がどれほど軍勢を整えたとしても、それはこの世の闇を広げるだけだと。力をどれほど手に入れたとしても、この世界でどれほど高みに上り詰めたと思ったとしても、そんなことの中に神の御救いはないのです。

18節と19節は、この詩篇の中心部分のまとめの部分です。これは、まさに、主はそのようにして私たちを救い出してくださったのだから、飢饉があったとしても恐れることはない。神は生きながらえさせてくださると、主への信仰を告白しているのです。

 この18節、19節はまるでローマ書8章の35節以下に記された、あのパウロが語った神の完全な恵みの言葉と重なります。ここでパウロが書いたように、私たちはキリストの愛から何があったとしても引き離されることはない。神はそのように、わたしたちを救ってくださるのだと告白しているのです。

 そして、20節から最後の22節は、主を待ち望む者に救いがあるのだから、私は主を待ち望むのだという信仰の告白をし、最後の22節ではこの主を待ち望むと祈りをささげているのです。

 私たちの主は、言葉の神です。この言葉の主は、私たちに言葉を与え、そして、その言葉を通してご自身を明らかにし、私たちの救いを指し示してくださるのです。この神の御業を、「恵み」と言う言葉、「慈しみ」という言葉で表現しているのです。この恵み深い主、慈しみ深い主は、私たちに目を向け、その心を読み取り、大きな悲しみの闇の中に置かれていた私たちに寄り添って、救いの光といのちを私たちに与えてくださる方なのです。だから、私たちはこの主に、このカンターテの日に歌をささげるのです。

 お祈りをいたします。

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