・説教 詩篇46篇「揺れ動く地から主を仰ぐ」
2017.05.28
鴨下 直樹
先週の火曜日と水曜日に日本自由福音連盟の理事会というのが東京で行われました。この日本自由福音連盟というのは、信仰のルーツを一緒にしている4つの教会、関東地区の日本聖契教団、岡山県を中心とした日本聖約教団、全国にあります日本福音自由協議会、そして、同盟福音キリスト教会とが60年ほど前から交わりを持って来ました。この日本自由福音連盟に130教会ほどがあり、教会堂は180会堂ほどあります。
そこで、年に二度各教団の役員が集まりまして、お互いの情報を共有し、共に祈る時をもっています。各教団の報告がそこでなされるのですが、今年はどこの教団も祈りの課題にあげていたのが、次世代の担い手のためにという課題でした。この四団体の中で定年制をもうけているのは私たちの同盟福音と聖約教団だけです。ということは、牧師は何歳まででも働くことができるわけです。それにも関わらず教会の働き人がいないために教会を統廃合しなければならなくなっている教会がいくつもあるのです。伝道することが難しい時代を迎えていると言えます。
けれども、だからと言って、嘆いているのではないのです。教会は主を見上げながら、これからの道のりを祈り求めています。時代がどれほど厳しくても、主の教会の歴史は今日まで力強く進められてきました。そして、その都度、主のみ言葉が語られ続けて来たのです。
今日は、午後から教団役員研修会という集まりが可児教会で行われます。各教会の役員が一年に一度みな集まるとても大切な時です。私たちの同盟福音でも「次世代への献身」をテーマに、教会が活発に主の使命を果たすことができるようにと祈りながら、今年から宣教ネットワーク制が導入されました。今回の役員研修会では、それぞれのネットワークの教会でどのような協力をしながら、次世代のために、これからの教会のために何ができるのかを話し合っていこうとしています。それにしても、まず先立って私たちが知らなければならないのは、私たちの主はどのようなお方なのかということです。
この詩篇46篇は揺れ動く世界の混沌が語られています。2節と3節にこうあります。
たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも、たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。セラ。
「変わる」「移ろう」「立ち騒ぎ」「泡立つ」「水かさが増す」「揺れ動く」。ここに記されている言葉はどれも、「平安」というイメージとは遠くはなれたもの、非常に不安定な、揺れ動く世界の姿が記されています。しかも、ここに記されている「山」も「海」も、大きく、確かなものを連想させるものです。「不動」というべきイメージのはずの山が、海に移ってしまう。あり得ない事が起こっているというのです。これは大丈夫と今まで考えていたもの、信じていたもの、大事にしてきたものが、目の前で崩壊する。その途端、人はどうなるか。慌てふためき、怖じ惑い、落胆して、立ち上がることができなくなるのです。
近隣諸国からの脅威、母国の安全が脅かされる、将来の見通しがたたず、不安になるような知らせが連日報道される。そういう、社会の不安というものも、私たちが自分を見失わせるには十分な恐ろしさをもっています。
教会のことを考えて見ても同じでしょう。人びとの無関心、伝道しても人は教会に足を運び入れず、教会の中では経済的な不安と、人材不足。問題を乗り切るための知恵も力も日を追うごとに無くなっていく現実に、手も足も出なくなって、心が騒ぎ立つのです。
私たち個人のことを考えて見ても、色々なことが起こり得るのです。大丈夫だと思っていた健康が脅かされる。仕事がなくなってしまって、経済的に困難になる。思い描いた将来像のとおりにならない不安。確かだと思っていたものが、崩れ去るとき、私たちは自分が立っているところが崩れ落ちてしまったという現実に、途方に暮れてしまうことになるのです。
しかし、この詩篇の詩人はこう宣言するのです。
神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。
と。1節と2節の冒頭の言葉です。
たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。
私には信頼する拠り所となる主がいるから恐れないでいられるのだと、この詩篇は高らかに宣言しているのです。
私たちの安心は何に根差しているのか。私たちは、どこに生かされているのか。目の前にどれほど絶望的な状況が差し迫ったとしても、私は主を拠り所すると告白することができる。私たちの主はそれほど力強い主なのだということを、私たちは自分で知らなければなりません。この主と出会うことなしに、この信仰に生きることはできません。
4節から7節は、場所が変わって都に詩人はいます。都というのは、王のいるところですから、そこもまた最も確かな場所、安心できる場所であるはずのところです。ところが、その都にも悲しい知らせが告げられる。すると、たちどころにパニックになってしまって、人々は右往左往し始める。けれども、神の都に住む者は、そこが神の聖なる住まいであるがゆえに、安心していられるというのです。
川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。
4節と5節です。
エルサレムの都には川はありませんでした。詩人は、おそらく、「ここに川があったらなぁ」といつも思い描いたのでしょう。どれほど、騒がしい知らせが聞こえて来たとしても、都の真ん中に流れる川の流れの音が聞こえて来るならば、その川の流れを聞く中で平安を得る。神から流れるいのちの川の流れは、そのように人を安心させるのだと語っているのです。
最後の8節から11節までの部分では、「主のみわざを見よ」とあります。地の荒廃を主がもたらし、この地の戦いを主がやめさせられる。そして、主は
弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれた。
と9節に書かれています。
この最後の部分に記されているのは、力の放棄です。主の業の前に、人の力、武力は何の役にもたたないということをここで語っています。私たちの世界では力を手に入れることで、問題の解決ができると考えています。教会の宣伝力、伝道の力、美しく整えられた教会案内とホームページ。できるかぎりのことをやって、そのうえで、祈りながら様子を見る。これが、これからの教会のスタンダードだと考えてしまいます。しかし、この詩篇は主の御声を書き記しています。
やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしこそ神であることを知れ、わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。
10節です。
「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」と主は言われます。すべての力は主にあるのだということを知ること、力を求める前に、主を知ることから始めなければなりません。私たちのプランではなく、人間の計画ではなく、主のみわざを見る事。すべてはここから始まるのです。主を知ることは、すべての知識のはじめなのです。
万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。
この言葉は、ぞれぞれの結びの言葉として告げられています。「万軍の主」。これは「軍勢」という言葉の複数形です。絶大な力を表す言葉です。力はすべて主のところにある。私たちの主はすべての力を支配しておられるお方、この主が私たちの砦となってくださるのです。だから、たとえ、山が揺れ動こうとも、海が騒ぎ立とうとも、もう絶体絶命だとしか思えなかったとしても、この主にすべてのもろもろの力がある。この主が取り囲んでくださるのだから、主に信頼して、この主により頼んだらよい。恐れることはないのだと、主は私たちをこの詩篇を通して励ましてくださるのです。
マナと言うディボーションの雑誌があります。6月号が先日発売されました。私事ですが、この6月号は列王記を読んでいくのですが、その原稿の執筆を依頼されました。一日2章ずつ読みながら、その中のどこかの箇所の解説を1300文字で書いていきます。今年の三月が原稿の締め切りでした。教団の代表役員となって、また、神学塾の卒業と入学の準備、教会の総会の準備などもありましたから、とてもあわただしく過ごしたのですが、この目の眩むような忙しさの中で、列王記のみ言葉とじっくりと向き合うことができて、とても楽しい時となりました。
列王記は、イスラエルの民が、力強い王を求めて、サウルという王が立てられますが、そのサウルの死後、ダビデから、イスラエルの王たちがどのように国を治めていったのかが記されているところです。次々に新しい王が立てられては道を踏み外し、そして、最後にはイスラエル王国は近隣諸国に滅ぼされてしまうところまでが描きだされています。ここを読んでいて驚くのは、神はまことの力が神から来るということを気付かせるためであれば、イスラエルが滅亡してもかまわないと考えておられるということです。
国がなくなったら、もうどうしようもないではないかと私たちは思うのです。しかし、神は、神を敬わない王たちの力など求めてはおられないのです。とりあえず上手くいっているということなど、主は求めてはおられないのです。ぜひ、読んでいただきたいと思います。
やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。
これこそが、今、私たちが聞くべき主のみ言葉です。私たちが知らなければならないのは、私たちの主だけが、万軍の主なのです。主が、すべてを治め、すべてを導くことがおできになるお方なのです。この主を知ること。この主と出会うこと。力の神を知ることから、すべてがはじめられるのです。
この詩篇46篇は宗教改革者ルターが作った讃美歌として知られている「神はわが砦」の1番の歌詞となっています。この賛美は宗教改革のシンボル的な役割を担う賛美です。ルターはカトリックとの信仰の戦いの中で、この詩篇で歌われているように、神はわが砦という主への信仰を告白します。ルターはまさに力のみなもとである主と出会い、この主が砦となってくださるというこの詩篇の結びの言葉を心に留め、神によって力を与えられて宗教改革をしたのです。今年はその改革から500年を迎えます。ルターはまさに、山が揺れ動くような中で、主に信頼しながら、信仰の戦いに勝利を与えられました。それは、何よりも力強い主と出会ったからです。私たちも、この万軍の主、力のみなもとである主と出会うならば、どのような絶望的な中にあっても、主により頼んで平安を得ることができるのです。
お祈りをいたします。