・特別伝道(ファミリー)礼拝説教 コリント人への手紙第二 2章10節「聖書が語る愛」
2017.09.10
鴨下 直樹
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今日は、みなさんと一緒に「聖書が語る愛」について考えてみたいと思います。それで、今日の聖書の箇所から考えてみたいのですが、少し背景を理解するために5節から11節を読んでみたいと思います。
少し想像力を働かせて読まないと分かりにくいのですが、どうも、この教会で何か悪いことをしてしまった人がいたようです。そして、そのために「多数の人から処罰を受けた」ということが6節に書かれています。多数の人から罰されたわけですから、どうもその人は誰の目から見ても悪いと言われることをしてしまったようです。そこで、少し考えてみたいのですが、誰かが明らかに悪いことをしてしまったときに、自分がその人に反省を促す立場、あるいは自分が被害者だった場合、どうするのでしょうか。
少し、分かりやすいイメージをして貰うために、ある親子をイメージしてみてください。ある夫婦に、子どもがおりました。その子どもが何か悪いことをしてしまったとします。もう一度言いますが、ある家族です。我が家の話ではないことにしておきます。親がそのことを厳しく叱ると、子どもはわがままを言い、泣き始めます。親としては反省して欲しいわけですが、ひたすら泣き続ける。それで、ようやく子どもの口からごめんなさいという言葉が出て来ました。さて、みなさんならその後どうするでしょうか。三択です。
- ぐちぐちと、何が悪いのか、それがどう悪いことなのかを更に言い続ける。
- 本当に理解したかどうか確認するために、自分の口で何が悪かったかを言わせるようにする。
- 「もういいよ。」と言って子どもを抱きしめる。
こうやって三択にしますと、賢いみなさんは、3番が正解なんだろうなということに察しがつくかもしれません。けれども、実際は1か、2を選択することがしばしばなのだろうと思います。いかがでしょうか。
今日の聖書に書かれているのは、そういう明らかに悪い人がいたというケースで、パウロはどうするといいと教えているのかというと、8節でこう言っています。
そこで、私は、その人に対する愛を確認することを、あながたたに勧めます。
この悪いことをしてしまった人は、みんなに責められて処罰された後、教会の人たちからの愛を感じているのか、そのことを確認してみなさいと、問いかけているわけです。
私たちが生きている世界というのは、明らかに悪いことをしてしまった人は、「悪い人」というレッテルを張られてしまうと、そんなに簡単に、それを取り去ることはできない世界です。私たちが、身近な人に対して愛の問題で悩むことがあるとすれば、きっとその時は、自分が悪くない時、あるいは被害者であると感じている時や、相手の態度や振舞で心悩む時なのだと思います。自分の方が正しい、相手に非がある時というのは、不思議なもので、相手よりも優位な立場にいることになります。あるいは、自分が被害者であるときというも、不思議なことですけれども、被害者であるという思いは、相手を非難する正当的な感情を支えてくれます。けれども、そういう時には、相手に愛を示すことはできません。かえって、その人との距離は広がるばかりなのです。
そういった中で、聖書が語っているように、その人に対する愛を確認しようと思ったらどうしたらいいのでしょうか。相手にぐちぐち言うのではなく、相手に反省させるのでもなく、相手を抱きしめることがどうしたらできるのでしょう。それは、腹を立てている自分の心、傷ついた自分の心、その相手が変わらないかぎりこの問題は解決しないという不安、そういった感情をどう処理したらいいのかということにかかってきます。
そういう時、どうしたらいいのか、聖書が語っていることは実にシンプルです。それでも、その人を愛するということです。受け入れるということです。自分に一ミリの非も無かったとしても、その人を赦すということです。黙って、その相手を抱きしめたらいいのです。問題は、そのことは分かっていても、その感情がついてこないということです。
いろんな人に、みなさんはどうしているかと聞いてみました。いろんな答えが返ってきました。金曜日、ある神学生が私に反対にこう尋ねて来ました。「それは、相手が反省して謝ってきた場合ですか?」と。それで、私は「いえ、相手が謝らなかったとしてもです」と答えると、少し困った顔をしました。相手が謝ったら赦せるけれどもと考えるのは当然でしょう。反省していないその人を、そのまま赦したら、相手がつけあがるだけと考えるのです。私は、その神学生にこう付け足しました。「その人を愛することと、相手のした事柄を指摘することは違います」と。
このことは、この愛の問題を理解する時に知っていないといけないことだと思います。悪いことをどれだけでもしていいということではないはずです。盗み癖のある人を、受け入れ続けて、一緒に共犯になることは愛することにはなりません。その人の犯した悪いことは、ちゃんと理解して、行わないように誘導することは大事です。けれども、悪いことをしてしまったからといって、その人自身を「悪い人」と決めつけて、見下してしまうのは愛ではありません。
別の人はこう答えました。たぶん、その人を受け入れるのに時間がかかると思いますと。ある意味ではそうかもしれません。自分の気持ちが高ぶっているままで、腹を立てている状態のままでは、その人を受け入れることは難しいので、少し冷静になる必要があるのかもしれません。けれども、本質的には時間は解決してはくれないことを知っていないといけません。別のことを考えて気を紛らわすことはできたとしても、その人を受け入れることは、どこかでしないといけないのです。
あるいは、人間には人を赦す力などというものはないので、神さまにお任せするしかないのではないかという考えもあるかもしれません。これは、神さまに委ねると聞くと良さそうに聞こえるのですが、これも違います。まだ自分には赦せないので、そういう気持ちが起こるまでそのままにしておくというのは、愛すること、赦すことをしないままでいるということになってしまうのです。
今日の聖書は10節に、
もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。
とあります。
あなたがたが赦すなら、私も赦すとパウロが言っているので、問題を犯した人はパウロに対して何かをしたということなのかもしれません。ある解説によると、このあとで出てくるパウロを誹謗中傷したということであったのかもしれません。そして、教会の人びとはパウロ先生を守るために処罰をしたかもしれないわけです。けれども、パウロは、まさに自分が被害者であったとしても、あなたがたが赦すことが大事で、私はもう赦しているのだからということをここで語っているわけです。そして、なぜ、赦すことができるのかというと、キリストがそうなさったのだから、私もキリストの前で赦すのだとここで宣言しているのです。
パウロはその時、心の中で自分が傷つけられたという思いをどう処理したのでしょうか。自分は被害者だという思いをどう克服したのでしょうか。パウロは、どうすることが、愛していることを確認できると言っているのでしょうか。
聖書が語る、愛することというのは、赦すことです。そして、赦すことは決断することです。自分のもやもやする気持を全部、そのままにして、赦す、受け入れると決めることです。自分を傷つけた人、自分に被害を与えた人、自分を悲しませた人、自分の心がついてこなかったとしても、愛すると決めて、その人を受け入れること、それが愛するということです。
先ほど<聖書のお話>の中で「小さなリース」という絵本を読みました。ルーマニアであった本当のおはなしです。自分の両親を殺したカルロ将軍に小さなリースをプレゼントしつづけた女の子の話しです。女の子は、両親から聞いた聖書の言葉を知っていました。「あなたの敵を愛しなさい」。この子がカルロ将軍にこう言います。「いじめられても、ゆるしてあげよう。やさしくしてあげよう」そして、その愛のしるしに小さなリースを送り続けたのです。何度も、何度も。そう、何度も、何度も、無駄と思える愛の行為を行いつづけたのです。そして、やがて、この愛がカルロ将軍の心に届いたのです。
私たちの主なる神は、私たちを愛してくださいます。私たちが何度裏切っても、何度耳を傾けなくても、愛しつづけてくださいます。そのしるしに、主イエスを私たちに遣わしてくださいました。主イエスを信じてからも何度も、愛することが分からないでいる私たちを赦し続けてくださいます。聖書には、神が私たちを愛するためにどれほど大きな覚悟をしてくださっているか、そして、いまもその愛を示し続けておられるかを物語っています。何度裏切られても、何度傷つけられても、神は主イエスを通して私たちを赦してくださるのです。だから、私たちも、私たちの回りの人たちを赦すよう決意する。受け入れるよう覚悟して、愛に生きるのです。私たちが、人を愛する時、神は私たちに愛することの出来る力を、助けを与えてくださるのです。
お祈りをいたします。