・説教 マルコの福音書1章29-39節「シモンの思い」
2017.09.17
鴨下 直樹
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先週の月曜日から水曜日まで東海宣教会議が蒲郡で行われました。講師は世界の福音派の教会が所属している、ローザンヌ運動の総裁をしておられるマイケル・オー先生です。このオー先生は、韓国系アメリカ人で日本の名古屋で宣教師として働いておられた方です。この会議で3回の主題講演をしてくださいました。テーマは「福音」です。私が特に興味深く聞いたのは二日目の主題講演ですが、「福音は私たちを聖める」というテーマでした。いわゆる「聖化」についての説教でした。
ひょっとすると多くの方はこの「聖化」という言葉についてあまり耳にしたことがないかもしれません。私もあまりこの言葉を強調して語る方ではありません。「聖化」というのは、「聖なる者へと変えられていく」ということです。私がよく使う言葉で言うとすれば「キリストのように変えられる」ということです。これが信仰者の成長していく過程でもあります。私があまり「聖化」という言葉を使わないのは、「聖なる者に変えられる」という言葉は、「罪を犯さなくなる」という意味に理解されてしまうことが多いからです。けれども、マイケル・オー先生はその説教で、「聖化」を「苦しみを受ける」というのとほとんど同じ意味で使っていました。このことに、私は驚きを覚えたのです。
「『主よ、私を聖めてください』、と私が主に祈ると、すぐに試練にあうので、こう祈ることは勇気のいることだ」と語っておられました。けれども、キリストのように変えられるために、私たちは主イエスご自身が苦しまれたように、苦難を経験することを通して、キリストのように変えられていくのです。説教はとてもシンプルでした、非常に深く心に留まりました。
さて、今日の聖書にはさまざまな苦難を経験している人たちが出て来ます。主イエスの伝道活動というのは、まさにこの苦難を味わっている人たちとの出会いと共にあるということができます。今日、マルコの福音書から説教をするのは一か月ぶりのことですから、もう忘れてしまっている方があるかもしれませんが、私たちは今、マルコの福音書から順に主イエスの福音を聞き続けています。主イエスは漁師をしていた弟子たちを四人お招きになり、まず、この漁師たちの町であったカペナウムに行かれました。親を捨てて、主イエスに従って行った弟子たちでしたが、最初に訪れたのは自分の親の住む町です。そして、安息日にまず会堂を訪れて、説教をなさり、「汚れた霊」とか「悪霊」につかれた人と書かれている人々をその霊から解放なさいました。
この「汚れた霊」とか「悪霊」と言われると、おどろおどろしい想像をしてしまいます。それは、聖書の表現の仕方ですけれども、後になってさまざまなイメージがこの言葉に当てはめられるようになりました。ホラー映画に出てくるようなイメージもそうですけれども、後でそういうイメージがついてきたものです。神の霊、聖なる霊に支配されている人間は神に心を向けることができますが、汚れた霊に支配されてしまうと、汚れたもの、つまり、神以外のものに心を支配されてしまいます。前回も少しお話したのですが、そうやって自分で自分をコントロールできなくなっている状態といったらいいでしょうか。神以外のものに心を向けて心をコントロールできなくなっている状態というのは、そう考えますと、私たちの回りにそういう人があふれています。そして、そういう神以外のものに夢中になってしまう状態の人というのは、あらゆる病的な姿で現れてくるわけです。今日の箇所にもそういうもので苦しんでいる人たちが実にたくさん出てくるのです。
前回の出来事は安息日の出来事であったと記されています。主イエスは安息日に会堂にいかれます。そして、汚れた霊に苦しんでいる人々を解放されます。そして、カペナウムの町では主イエスのうわさでもちきりになるのです。そうして、主イエスはシモンとアンデレの家に入られます。人々から注目されて、シモン・ペテロの家を訪れた一行ですけれども、主イエスの伝道開始一日目としてはまずまずの成果だったと言っていいと思います。一日目から人々の関心を集め、主イエスの教えは「新しい権威ある教えではないか」という評価まで受けたのです。
ところが、ペテロの家に行ってみますと、ペテロのしゅうとめが病気を患っています。興奮冷めやらぬ弟子たちからすれば、水を差されたような思いになったでしょうか。あるいは、主イエスを自分の家にお招きすることができて、シモンや、アンデレはとても喜んだかもしれません。このシモンの家族からするとどうだったのでしょうか。仕事と家族を捨てて主イエスに従って行くと決断した娘婿を、この名前も書かれていないしゅうとめはどのような気持ちで受け止めていたのでしょう。先日の祈祷会で、みなさんと学んだ時に、ある方は「いたたまれない気持ちだったのではないか」と言われました。そうだったかもしれません。娘婿をたぶらかして、仕事を辞めさせ、自分についていかせる。しかも早々に出て行ったかと思ったら、ぬけぬけと家に上がり込んで来たのです。ところがしゅうとめ自身は病気で動くこともできない。もちろん、これは一つの想像ですけれども、シモンのしゅうとめがここでそういう複雑な気持ちでいたとしても不思議ではなかったと思うのです。
シモンの家にいったい何人の人がいたのか分かりませんが、30節で「人々はさっそく彼女のことをイエスに知らせた」と書かれています。「人々」が誰をさすのかはっきりしません。シモンの家族が沢山家にいたのかもしれません。そう考えるのが自然な気がしますが、この人たちは、訪ねて来た主イエスに、シモンのしゅうとめが病であることを告げたのでした。
それは、まったく予想外のことでした。シモンのしゅうとめからすると、自分で希望したわけではなかったのです。まして、喜んで招きいれたわけでもなかった。けれども、主イエスが病にふさぎ込んでいた自分のところにやって来て、手を置かれたのでしょうか、そこで祈られたのでしょうか。詳しいことは書かれていませんが、主イエスの方から近づいて来て、自分の病を癒してくれたのです。その時、このシモンのしゅうとめの心の中で何かが動き始めます。このお方のために何か食べ物を出してあげよう、もてなしてあげようという気持ちが生まれたのです。新改訳聖書はここに注がついていまして、「あるいは『に仕えた』」と記されています。シモンのしゅうとめは主イエスに仕える者となったと書かれているのです。
さて、この美しい出来事の後のことが続けて記されています。それは、その日の夕方の出来事です。日が暮れるというのは、安息日の終わりを意味していました。この時代は、日が暮れるとその日は終わったと考えられていました。つまり、安息日は働いてはいけないという律法があったので、他の人たちは我慢していたのですが、日が暮れると同時に、人々はいっせいにシモンの家に駆けつけてきたのです。「町中の者が戸口に集まって来た」と、33節にありますから、それがどんな騒ぎであったか想像ができます。会堂での主イエスの振舞い、そして、シモンのしゅうとめの病が癒されたことが瞬く間に広まって、みなもう夜になるというのに我慢できずに、シモンの家に押しかけてきてしまったのです。玄関前は大行列です。主イエスはそこで、病の人、悪霊に苦しんでいる人を癒します。この32節から34節で興味深いのは、最後に「そして悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった」と記されています。どういうことなのでしょうか。
悪霊どもは何を言おうとしたのでしょうか。どんなことを言われたくないと思ったのでしょうか。前回お話した24節のところでは、悪霊たちは「神の聖者です」と叫んでいます。悪霊たちは、主イエスが何者であるか分かったようです。
これは、「メシヤの秘密」と言われています。主イエスが何者であるのか、どういうお方であるのか、まだ誰にも明らかになっていない主イエスの真のお姿を、悪霊たちは理解していました。けれども、悪霊にそのことを語らせることを、主イエス自ら拒絶したというのです。主イエスがどういうお方なのか。それは、そのまま信仰告白の言葉です。けれども、主イエスに従うつもりのない者が、「悪霊」ですから、そういう霊が、主イエスの告白をすることを主イエスが禁じられたということです。34節の最後には「彼らがイエスをよく知っていたからである」とあります。
主イエスがメシヤであるとの秘密はまだ主イエスの弟子たちも、律法学者たちも誰も分かっていないことです。けれども、主イエスは悪霊の言葉によってそのことが明らかにされることを望まれません。主の言葉を聞き、主と出会い、自ら主イエスを見出したものだけがそのような信仰告白に至るからです。
そして、このマルコの福音書はつづく35節でこのように記しています。
さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。
この一日はとても慌しい一日でした。きっと、主イエスご自身とても長い一日のように感じられたに違いないのです。主イエスの伝道開始一日目としては大成功であったかのように描かれています。主イエスの言葉に人々は耳を傾け、多くの人は癒され、悪い霊から解放され、人々は主イエスの御許に集まって来たのです。
教会の伝道計画であれば、まずは大成功といったところでしょう。文句なしの成果です。しかし、主イエスはその夜、心地よい睡眠とはいかなかったようで、まだ暗いうちから起き出して来て、誰もいない静かなところで、祈り始められます。そこで何を主イエスは祈られたのでしょうか。
聖書は主イエスの祈りに続いてこう記しています。シモンとその他の弟子たちは主イエスを追いかけて来て、「みんなが捜している」と報告するのです。きっと弟子たちは、大興奮だったに違いないのです。特にペテロはそうだったでしょう。自分のしゅうとめが癒され、目の前で力強いわざと、言葉を聞き、人々は自分の家に集まって来る。義理の母も、主イエスに喜んで仕えている。何という満ち足りた朝だったことでしょう。何と希望に満ちた夜明けだったことでしょう。けれども、主イエスは、弟子たちに言われたのです。
さあ、近くの別の村里に行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。
主イエスは大騒ぎの町の人々を無視して、別の村に向かって歩いて行かれるのです。弟子たち、特にシモンはしばらく理解できなかったに違いありません。自分だけが興奮していて、伝道は大成功だと思っているのに、主イエスの顔は喜んではいないのです。
主イエスは何を祈っておられたのでしょうか。それは、まるでこれが主イエスにとって誘惑であったとでも言っているような描き方なのです。主イエスの試練、それは、まさに主イエスが神の御業を行うためには必要不可欠なこと。まさに、ここに主イエスの「聖化」が記されています。主イエスが、聖なる御業を行うために、苦しんで祈っておられるのです。それは、人の期待に応えることをしないという戦いでした。
最近、この、人の期待に応えないということがどんなに苦しいことなのかということが私自身少し分かるようになってきました。いつもの話で申し訳ないのですが、私には一人の愛する娘がおります。こんなことが度々おこります。おやつを食べている時です。娘は早々と自分の分を食べてしまいます。そうして、私の方に近づいて来て、私にこう語りかけて来ます。「お父さん、それとっても甘くておいしいよ。私のはもうなくなってしまったけれど・・・」と言うのです。何を言いたいのかは一目瞭然です。私の分を、分けてほしいとは直接には言いませんが、そう気づくように話しかけてくるのです。私は、この娘の願いを拒むことができません。つい、自分の分を与えてしまうのです。与えないでギャーギャー騒がれるよりも、与えてしまったほうが楽なのです。そして、子どももそれを喜んでくれる。二人の利害はそこで一致するのです。
しかし、主イエスはそうなさらないのです。主のこの姿は、欲しがっている人の希望にそのまま応えてあげるのは愛だとは描いていないのです。誰もが、自分の困難から救い出してほしいと願っているのです。誰もが、もっと甘いお菓子が食べたいのです。その願いに応えてあげさえすれば、みんなにっこり、笑顔になるのです。けれども、主イエスは知っています。それで終わりだと。人の要望に応えてあげる事は、愛でも何でもないのです。
余り物ばかり食べ過ぎて、砂糖をとり過ぎるより、意思を堅くして、「もう駄目だ」と言う方が愛なのです。その人のして欲しいようにするのではなくて、神の願っておられることを行うことこそが、神の喜ばれることなのです。そして、そこに愛の道があるのです。
欲しい欲しいと、口を開けて待ち焦がれている人々を無視して、別の村に出かけていくと、人々は何と思うのでしょうか。「なんだ、期待させやがって」。そういう言葉が返ってくるのです。だからこそ、悩むのです。祈らないではいられないのです。
まして、まだ弟子になったばかりのシモン・ペテロにそのことが分かるのでしょうか。きっと、この時、ペテロは理解できなかったに違いないのです。どうして、別の町に行ってしまうのかと後ろ髪をひかれながら、主イエスについて行ったに違いないのです。けれども、ここに、主イエスの十字架の道があるのです。
結局のところ、ここで、主イエスを正しく見出したのは誰だったのでしょう。それは、自ら主イエスに癒しを求めたのではなかった、シモンのしゅうとめただ一人です。彼女だけが、主イエスの愛を正しく受け止めたのです。求めるより先に、必要なものをすべてご存知の主イエスの心に触れることができたのは、この名前も書かれていないシモンのしゅうとめ一人だったのです。
主イエスのことを正しく知ること。これが、福音をどう受け取るかのもっとも重要な点です。それは、自分がどうして欲しいかではなくて、主イエスがどうなって欲しいと願っていてくださるのか、ということなのです。結果は同じ、癒されることなんだからおんなじと言うことではないのです。主イエスの心を受け取ることより大事なことはないのです。なぜなら、主イエスの心を受け取ることによって私たちは、いつでも、主の心を知ることができる、神の心を知ることができるからです。神は、私たちが救われて福音の真理を知るようになることを望んでおられるのです。
私たちはこの主イエスを知ることによって、この主イエスの愛に触れ、慈しみを受け取ることによって、どんな時でも、このシモンのしゅうとめのように、主イエスを喜びとして生きることができるようになるのです。
お祈りをいたします。